#21
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「俺の右足の刺青が見たいのか? あんたも、この写真家同様、パパが〈財宝〉を隠してるとか思い込んでるわけ?」
お生憎様、と少年は笑った。ちょっとこの場にはそぐわないくらいの、爽やかな微笑。
「あの船には宝なんて全然なかったさ。なあ、クレイ? たった今、二人して潜って確認して来たんだ」
「らしいな」
銃を持っていない方の手で教授は項を掻いた。
夕焼けは今や一番美しい瞬間を迎えつつあった。
果実の如き太陽が、代々受け継がれ徹底的に磨かれてきた銀の盆宛らの水平線に乗っかっている。特別の供物のように。
とはいえ、船上の誰一人として周囲の風景に気を留める者はいなかった。
「こんなことを言っては何だが、実は私も昨日の内に──君たちが引き上げた後で潜って調べてみたよ」
一瞬、葵里子の顔に浮かんだ表情がひどく教授を面白がらせたようだ。
「信じられないかね、お嬢さん? こう見えても私の潜水歴は君たちの比ではない。キャリアが違う。その昔、あっちの島々で大いに鳴らしたものさ!」
けれどこの場合、葵里子が打ちのめされたのは教授の潜水の腕ではなかった。葵里子は考えていた。
(真犯人を張っているつもりで、見張られていたのは私たちの方だったんだわ! 殺人鬼アンブローズ・リンクィストは、逐一私たちの行動を監視していたんだ……)
「やれやれ」
教授はため息をついた。
「教師を長いことやっていると困った悪癖がつく。馬鹿な生徒を放っておけないのだ。補習講義をしてでもノータリンどもを覚醒させたいと願うのさ。今回の、世間じゃ何と呼んでいたかな? そう、〈右足好み〉〈右足収集家〉は完璧な計画だった。
何処か──この米国中の至る所──に生息する変態の一人が己の憐れな欲望に引き摺られて、おぞましい連続殺人を繰り返す。ただそれだけの話だよ」
教授はいったん口を閉ざすと、自分の言葉が教室内の生徒たちに届いているかどうか確認するかのように周囲を見回した。
甲板の三人とも行儀良く聞いているのを知って大いに満足した。
「だが、実際には、右足を切り取る行為には三つの大いなる目的がある」
威厳ある動作で左手の指を開いていく。
「一、犯人のアブノーマルさを印象づける。二、この手の話題を好む大衆を惹きつけて真実を覆い隠す。三、現実的な必要から」
沈み行く太陽から教授は目を転じて、サミュエルを見た。死に行く若者……!
「そう、私は君の右足が必要だった。刺青を見たかったんだ。ところが、その後で君を死体として遺棄した場合困ったことになる。
今日日警察は隅の隅まで徹底的に調べ尽くすそうだから連中に少しでも興味を持たれるモノは残したくない。だが、君も〈右足切断魔〉の犠牲者の一人だとなれば、右足がなくっても、それはもう仕方のないことだ。それ以上詮索されずに済むだろう? 何たって、右足好みの変態の仕業なんだから」
「……待ってよ」
葵里子の引き攣った声が教授を遮った。
「じゃ……先に殺された人たちは……皆……皆……」
「ああ。ここにいるサミュエル君のため。サミュエル・プレローズに至る前座殺人……予定調和殺人なんだよ」
短い沈黙。
「別の言い方をすれば」
更に教授は言い足した。
「現実には存在しない〈幻の変質者〉の存在をアピールする偽りのディスプレイさ」
得意気にニコニコ笑いながら、
「FBIの優秀な捜査官が躍起になってプロファイリングしたところで今度ばかりは何の役にも立たない。〈異常者〉や〈変質者〉は何処にもいないのだから」
「酷い! 酷過ぎるわ! ケニーは何の関係もなかったのに……!」
突然泣き出した葵里子にリンクィストの方が吃驚した。
「ケニー? 誰だ、そいつ?」
「あんたが最初に殺した──犠牲者の男娼だよ!」
クレイが教えてやった。
「名前も憶えてないのか? ケニー・ウォールは彼女のモデルだったんだ!」
「ああ、あれか? LAのサンセットストリップの?」
帽子からはみ出した銀色の髪を引っ張りながらリンクィストは一頻りクスクス笑った。
「うん。あれは幕開けにはもってこいの素材だった!」
それから、改めてサミュエルの方を見た。
どんどん濃くなって行く夕闇の中でサミュエルは途方に暮れて佇んでいる迷子の子供のように見える。
或いは、過ぎし日、教授が見つけた恋人たち──
透き通った肌を波に晒していた島の美しい若者たちもまた、こんな風に硬直してぎこちないポーズが売りだった……
目を細めて、アンブローズ・リンクィストは心から言った。
「君がサミュエル君で私も嬉しいよ! この間、あのどうしようもない不良品を君と取り違えて殺さざるを得なかったのは私にとっても不快の極みだった」
教授が何について語っているかに気づいて三人は同時に顔を上げた。
「あいつは私のカテゴリーから遥かに逸脱している。だが、屋敷にいたので君だと勘違いしたのさ。勿論、殺した後ですぐ刺青をチェックして、人違いだとわかった時は実に複雑な気分だった。
君だと思ったから──最終目的品だから、カテゴリー外でも我慢して殺したのに。
無駄な殺人、無意味な殺人を犯して、酷く後味が悪いよ」
「よく言うぜ! これに纏わる殺人の、全てが無意味なくせしやがって!」
「おや、そうじゃないさ。最初から君があそこにいて、あの場で完結していたら、私らしい完全な美術館と成り得たのに。尤も──」
教授はここで順送りにクレイと葵里子に視線を移した。
「君たちがご親切にもあの醜悪な死体を隠してくれたから、私の恥ずべき失策が公にされなくてホッとしているんだ。君たちは良いことをしてくれた。あれは……うん、あのまま洞窟の奥深く埋めとくのが正解だ」
教授は立ち上がった。
「とはいえ、刺青の謎解きまで君たちに任せるんじゃなかった。君たちが意欲的なのでやらせてみたのだが、これじゃDマイナスだ」
アンブローズ・リンクィストはサミュエルの足首を掴むと体ごと甲板に転がした。
体が冷え切っているので足の裏に刺青はない。
クレイと葵里子が同時に声を上げる。
「乱暴な真似はやめろっ!」
「刺青が見たいなら写真があるわよ!」
教授は横目で二人を見た。
リボルバーを床に置くと胸ポケットからライターを取り出した。
火を点けてサミュエルの右足の裏へ近づける。
「〝実際には存在しない幻の変質者〟ですって? よく言うわよ、このクソ親父! 気づかないの?」
一緒にいて、今ほどこの写真家の根性をクレイが好ましく思ったことはない。ほとんど抱きしめてキスしたいほどだった。
衣通葵里子は胸を反らせてけたたましい笑い声を上げた。肩の上で地獄のように黒い髪が小刻みに揺れている。
「あんたは……あんたこそ……完璧な変質者だわ、リンクィスト教授!」
「私は正常だよ」
教授は相手にしなかった。ジッポーの炎で少年の足を炙りながら、
「私以上に正常な人間はいないと断言できるほどだ。何故なら──私は穢れてないからね」
太陽はすっかり地平線の下へ沈んで、雲や波間の所々にだけ細長い橙色のリボンがチロチロ見え隠れするばかり。
「……私は常に外側にいる。君たちのように肉欲に支配されることはない」
ここでリンクィストは自分の左手の中の小さな炎と、右手の中の小麦色の足首、それから、顔を顰めている(あるいは自分を睨んでいる?)少年を凝視した。少年が脇で握り締めている両の拳も。
「いやはや! 私を殴りたいか? まさに〈拳闘をする少年たち〉の再来だな、サミー君!」
「?」
「私は実物を見たぞ。今はアテネの国立考古美術館に囚われている可哀想な坊やたち! だからこそ言えるんだ。似て非なる者、サミュエル・プレローズ君。なあ? どんなに美しくても生身の君なんぞ所詮、何の価値もない。それゆえ、誰も責めやせんよ。君をこの場で撃ち殺そうと……或いは、生きたまま右足を切り落とそうと……」
クレイは気が狂いそうだった。
「何言ってやがる、全人類がおまえを責めてるぜ! サミーから手を離せ、変態野郎っ!」
「恋人がほざいているぞ。やれやれ、おまえらは皆、容易に騙されるんだ。この、生身の美ってやつに。こんなのはまやかしの亜流だってのに」
まるで火に炙られているのは自分だと言うようにリンクィストの額から汗が吹き出した。
汗の滴の幾粒かはサミュエルに降って来た。
「真実の美を知っているか? それはな、坊や、もっと清らかで不可侵なものなんだ。恋人の胸に抱かれたいとか、髪を撫でたいとか、果てはファックしたいとか……そんな不浄な思いが混じっちゃあ終わりだよ。
あいつは服を脱げと命じたら素直に応じた。
あの子も完璧に近かった。君と双子のように。壁画の中の拳を突き合わせている片割れのように。
ふふ、私は感動すら覚えたものだが。
ところが、私が見蕩れているとあの子は言ったんだ。『これで終わりかよ、おじさん? 本当に? これだけでいいのか?』……」
サミュエルもクレイも、リンクィストが何を言っているのか皆目わからなかった。
けれど、葵里子は──
葵里子にはその瞬間、鮮明に見えた。
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埃っぽいサンセット・ブールバード。
林立するモーテル群。
その中の一室、西陽の当たる窓辺。
チークのベッドヘッドに凭れて座っているストロベリィブロンドの少年。
ケニー・ウォールは持ち前のキラキラする悪戯っぽい顔で微笑んでいる。
『本当? こんなんでしまいかよ? あんた、簡単でいいな?』
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「わかったか?」
アンブローズ・リンクィストはもう決して笑ってなどいなかった。




