#19
19
「九月、リックの後を追って、俺もハーバードを選んだんだ。
そして、十月。大学生活を満喫し始めた頃……
その日も彼女は一人で真っ直ぐ歩いて来た。俺の方に。
憶えているか? 俺の初恋の相手、リッキーの妹、ヘイゼル。
何もかも一緒だった。一瞬、中学生のあの日に立ち返ったような気がするくらい、彼女の腰に揺れる髪の長さまで一緒だった。
とはいえ、彼女自身はぐっと成長して、一段と美しく、一人前の大人の女性になってた。
そのヘイゼルが一直線に大学のキャンパスを突っ切ってやって来ると、俺の前に止まったんだ。
俺はその時、ベンチに腰掛けてリックを待ちながら本を読んでいた。
驚いたよ。だって、リッキーの話じゃヘイゼルはスミスかどっか名門女子大へ入学したって聞いてたし。とにかく、今頃こんな処にいるはずないんだ。
で、彼女がバックパックから引っ張り出した物を見た時にはもっと驚いた。だって、それは、かつてのように兄貴から頼まれたラブレターなんてロマンチックなものじゃなく──銃だったんだ。
『あんたなんか大っ嫌い、クレイ!』
と、ヘイゼルは言った。
『あんたが兄さんを目茶苦茶にしたんだわ。あんたが現れるまで、あんたを見るまではリッキーはそれはそれは素晴らしい、世界一の、私だけの兄さんだったのに……!』
『そりゃ言いがかりだ!』とか、『ゲイに対する偏見だ!』とか、『おまえこそブラコンだろ?』とか、いろんな台詞が頭を駆け巡ったけど、そのどれ一つとして実際には口に出て来なかった。
俺は凍りついていた。文字通り。
銃口だけを見ていたんだ。
体が痺れちまって目が離せないんだよ。
他人に銃を突きつけられた経験あるか? ないだろ? あんな、最低の気分ったら、ない。
目の端にリックが何か叫びながら走り寄って来るのが、一瞬、見えた。
でも、俺は動けない。
それから、ヘイゼルは引き金を引いて、一発撃った。
俺に、じゃなくて駆け寄って来るリッキーに向けて。
『あんただって大嫌い!』
とか何とか叫んでたな。
制することができた。
今となっても思っている。
俺がヘイゼルの一番近くにいたわけだから、リッキーに向けて銃を動かしたその瞬間に、体当たりしてでも何とか止められたはずだ。
でも、俺はそうしなかった。
できなかったんだ。動けなかったんだよ。
リッキーが撃たれるのを、馬鹿みたいに口を開けて見ていただけだ。
彼女は続けて、倒れた兄にもう二、三発ぶち込んだ。
それでも俺は動けない。
そうして、彼女は再び俺に照準を戻した。
この時になって事態を察知した勇敢で機敏な四、五人の学生が彼女に飛びかかって取り押さえた。
俺は? 相変わらずベンチに腰掛けたまんまさ。
恋人の──血だらけで虫の息にあるリッキーの傍へ駆け寄ることさえできず……
リッキーの周囲の芝生が真っ赤に染まって、ちょうど頭上の紅葉した木々とそっくり同じだと思ったのを憶えている。俺が読んでいたジム・キャロルの詩集のページにも真紅の点々が幾つか飛んでいた。つまり、何処も彼処も真っ赤で、乱れたリッキーの髪も……待てよ、ああ、それは元々赤かったんだっけ? だからこそ、赤はあんなに好きな色だったのに……
この事件の後、何ヶ月も俺は手の付けられない状態だった。
何度も自殺を図ろうとするので目が離せなくて親父はほとほと参ったってさ。だから、専門施設への入院措置は正しい選択だったと思う。
リッキーが恋しくて気が狂いそうだった。
でも、死のうとしたのはそのせいだけじゃなくて──自己嫌悪からだった。為す術もなくリッキーを見殺しにしたことへの。
俺は怖かったんだ。怖気づいちまったのさ。
恋人を守れなかった。不甲斐ないったらないよ。
この身を盾にして護りたかったのに。そうするつもりだったのに。現実には足が引き攣って、あの忌々しいベンチから一インチも動けないんだから。
それでさ、専門施設からの退院祝いに、親父がくれたプレゼントがスパーキィだったのさ。
担当の精神科医のアドバイスらしいけど。何か世話をするべき対象があるってのは療養に役立つって寸法。
余談だけど、親父の結婚相手ってこの精神科医アンバー・ドナルド嬢だよ。こんな俺でも少しは父親に恩を返せて良かった。
実際俺はこのスパーキィに命を救われた。
散歩をサボるとそりゃもう愚図るし、餌を忘れたら手がつけられないくらい吠えまくる。何処へ行くにもついて来る。こんなんじゃオチオチ自殺してる暇もない。俺は少しづつ立ち直った。
でも、それで完全に癒されたわけじゃない。
流石に自殺の発作は収まったけど、もう一方の傷──〝寂しさ〟は容易には完治しなかった。
それで、早い話、手っ取り早く男の子を取っ替え引っ替えした……」
「ひでえ」
それが、長いクレイの独白の後でサミュエルが最初に口にした言葉だった。
「酷過ぎる。特に最後の部分、男の子云々の部分が」
あっさりとクレイは認めた。
「うん。ひでえさ。それがどうした?」
「誰も文句を言わなかったのか? つまり、おまえが引っ掛けた連中の内、一人もおまえの仕打ちに文句を言わなかったのかよ?」
(おまえが今、こうして噛みついてるみたいにか?)
クレイは胸の中で呟いてみる。
(必死になって? 熱い目をして?)
口に出してはこう言った。
「中には、俺のこと結構本気で思ってくれた奴もいたけど、俺は一人の相手と真剣に関係を続ける気は毛頭なかった」
クレイは正直に話した。
「この夏もその延長でそこそこ気楽でハッピーな日々が送れていたんだ。親父は不在。遠慮なくこコテージは使い放題。そら、おまえが出会い頭指摘した通りさ。〝浜辺で拾った男の子、片っ端から連れ込める〟状態」
険しい目つきでサミュエルが抗議仕掛けたがそれをクレイは制して早口に言い切った。
「そうこうする内におまえに出会ったのさ」
「!」
「おまえが浜へ来るようになった。あの日、突然世界が変わってしまった。スパーキィと浜を歩いていると昨日までいなかった黒髪の王子様が砂に寝っ転がってるじゃないか。声がかけられなかった。ただ見てるだけだ、一週間。
そして、俺は、また生き始めている自分に気づくのさ。心臓の歯車を入れ替えてもらって、まっさらな時計みたいに鼓動が新しい時を刻み始める……そんな感じ」
さてと、ここから先はおまえも知ってるストーリィだよ、とクレイは微笑んだ。
「俺は馬鹿みたいにスパーキィのリードを外して嗾けたり、ディナーの用意をしたり、待ちぼうけを食わされたり、挙句の果ては──死体を担いだり、埋めたり、掘り起こしたり、さ」
最後は少々おどけた口調で締め括った。
「やれやれ、暗い過去を持つ色男も台無しだろ?」
二人はなお暫く闇に塗り潰された窓を見ていた。
正確に言えば、朧なランプの光によって硝子に映し出されたお互いの影を見ていたのだが。クレイはサミュエルを。サミュエルはクレイを。
「おまえとリッキーを比較する気はない」
少し考えた後でクレイは言った。
「全然タイプが違うしな。大体、リッキーはずっと大人だった。分別もあったし温和で、どっちが引っ掛けたの引っ掛けられたのと、または、引っ掛けられ方が気に食わないだのとシツコク拗ねたりダダを捏ねたりはしなかった」
「悪かったな」
サミュエルはそっぽを向いた。
「どうせ俺はガキでシツコクて疑り深くて、焼き餅焼きだよ!」
「いや、その点は似てるよ。リッキーも実はひどい焼き餅妬きだった! そして、肝心なのは──俺もそうだってこと」
サミュエルはまだそっぽを向いたままだった。だから、この日、最も重要な言葉を告げるクレイの表情を見逃す破目になったのだ。
クレイ自身はまさにここが正念場だと腹を括っていた。
「俺はおまえを離したくない。おまえが物凄く大切で……特別だと思っているよ。だから、どうだ、この辺で手を打ってくれよ?」
サミュエルから返事はなかった。相変わらず横を向いて突っ立っているだけ。
念には念を入れて用意しておいたもう一つの台詞──結局カードは全て使うことになるのだ。
「じゃ、さ、こういうのはどうだ? おまえは俺にとって正真正銘〈一人目〉だよ。つまり、リッキーのこときちんと告白した相手として、かけがえのない〈第一番目〉だ」
「そうさ! いい気味だ!」
少年はパッと顔を上げて言い放った。
「俺とリッキーならこの勝負、俺の勝ちだ! だって、俺はリッキーについて知ってるけど、リッキーは俺のこと知らないんだもんな、永遠に」
クレイはサミュエルの言い分に呆れてしまった。が、腹は立たなかった。サミュエルがずっと顔を背けていた理由を知ったから。サミュエルは泣いていたのだ。暗い父の書斎でもっと暗い影の方を向いて。
(泣き虫め……)
こいつに泣かれるといつもたまらない気分になる。涙の原因が自分だと言われて割が合わないけれど幸福だった。
その上、今やサミュエルがリッキー込みで自分を受け入れてくれたことをクレイは確信した。
「さあて、じゃ、早いとこ帰って寝直そうぜ。明日、葵里子は改めて〈アマンダ号〉の捜索をするつもりらしいからな」
プレローズ屋敷の暗くて長い廊下を、航海日誌を分担して抱えながら去って行く際、ふと思い出してサミュエルは言った。
「俺さ、今となってはエルンストに心から感謝してるよ。落ち着いたら絶対、豪勢な墓を建ててやる。だって、考えても見ろよ、あいつが死体となって俺たちの絆を深めてくれたんだもの」
感慨深げに少年は深く息を吐いた。
「おまえが俺のために、俺を庇おうとして、あいつを埋めてくれたこと、心から嬉しく思っているよ。ありがとう、クレイ」
クレイ・バントリーに関して言えば、今夜、全ての謎が解けた、とサミュエルは思った。
「うん。まあ、俺は前に全く動けなかったからな。今度は──今度こそは恋人を助けたいと、とにかく無我夢中だったのさ」
「あいつは」
居間の前を通りしなドアを横目で見ながらサミュエルは声を低めて言うのだ。
「生きてる時はしょうもなかったけど、ホント、死んでからは人の役に立つ存在になったよな!」
年上のクレイは控えめに同意した。
「そういう言い方もできないことはない……」




