＃１
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衣通葵里子は一心不乱に島の週刊誌『インクワイアラー＆ミラー』を読み耽っていた。紙面を埋める、四方の風景とは全くそぐわない毒々しいキャプション。春からこっち全米を震撼させている猟奇連続殺人事件の特集記事だった。
──被害者は全員十代後半から二十代前半の男性で、その死体からは例外なく〝右足〟が切り取られている……
〝四人目の犠牲者〟という箇所に差し掛かった時、貝殻のドアベルがチリンと鳴り、雑貨屋の苔色の扉が勢いよく開いて、ちょうど戸口の真ん前に突っ立っていた葵里子は出て来た青年に弾き飛ばされてしまった。
「失礼」
「あっ、いえ、こちらこそ」
尻餅をつきながらも反射的に胸に下げていたカメラを庇って両手で押さえる。
「ごめんなさい。つい記事に気を取られてて……」
長身の青年は俊敏な動作でポーチに散らばった新聞を、潮風がもっと遠くの沖へ攫って行く前に全部拾い集めて葵里子に返した。
「ありがとう」
受け取りながら葵里子は微笑んだ。
「それにしても──酷いと思わない？」
「はぁ？」
青年はチラッと紙面を一瞥して、
「ああ、例の〈右足収集家〉か」
格好の良い肩を竦めると、
「正直言って、よく知らないんだ。そういうのあんまり興味なくて。おいで、スパーキィ！」
ポーチの端に繋いでいた犬のリードを解くとさっさと海の方へ降りて行ってしまった。
去って行く青年の背中を眺めつつ、ちょっと驚き、かなり呆れて、葵里子はピュッと口笛を吹く。
「クールじゃない、君！」
西から始まって中西部を経巡り、連続殺人鬼の不気味なベクトルは今やはっきりと東部を指している。
全米中のほとんどの人間がそれについて噂し合っているというのに？
「気をつけないと──君が次の犠牲者にならないとも限らないわよ？」
「アハハハハ……」
青年はジョークと思ったらしく歩きながら手を振った。
（ったく、近頃の若者と来た日には……）
片手に新聞を握ったまま、胸の前、カメラの上で腕を組み直して葵里子はもう一度青年に向かって叫んだ。
「ヘイ、君！ じゃ、何になら興味があるってのよ？」
勿論、返事など期待していない。
青年の金色の頭は砂丘を幾つも超えて、もうあんなに遠くなっているし、どうせ私の言葉なんか強い海風が粉々に千切り飛ばしてしまったろう。
実は、クレイ・バントリーはその問いにきっちりと答えていた。心の中で。
（うん。今、俺が興味あるのは、浜辺で寝ているあいつだけさ……）
果たして、そのあいつは──
やっぱり今日もそこにいた。
見つけた日以来、昼過ぎから夕方までのこの時間、いつも必ずそこにいるのだ。
クレイは足を止めて腕のオメガ・シシリアで素早く日付を確認した。
（六月一三日の土曜日……やれやれ、今日で一週間だぞ？）
少年は断崖の影で寝ていた。
熟睡しているように見える。
よく日焼けした肩に零れる美しい黒髪。細身だが、きっとサーフィンをやるんだろう。パドリングの効果が筋肉にしっかり顕れている。そうして、右足の裏の刺青……
全てがなんと印象的なことか！ モロ、西海岸風ってやつ。優美で古風な東海岸の浜辺では目立ち過ぎもいいとこだ。
クレイは目を細めると──勿論、この場合、太陽のせいばかりじゃなかった──愛犬のリードを離した。
「おわっ？」
少年は短い叫び声をあげて目を開けた。金色の塊が今しも天から降って来た──
「な、何？ 何？」
「悪い、俺の犬なんだ」
その金色の塊（或いは彼の犬）を肩に乗せたまま、体を捻って少年は飼い主を見上げた。
そのまま二人は数十秒間見つめ合っていた。
先に口を開いたのは少年の方。片肘を突いて起き上がると、いいよ、と言った。
「いいよ。犬は嫌いじゃない。なんて名前？」
「クレイ・バントリー」
「クレイ、来いよ！ ランチの残りがある。なあ、クレイはボローニャソーセージは好きかい？」
流石にこれには困って、砂に半分埋まった自分の靴を見ながら咳払いして訂正した。
「……そっちはスパーキィさ」
「へえ？」
少年はニヤッと笑った。それから、夏空に虹がかかるようにクレイの胸元へ腕を伸ばす。
「俺はサミュエル・ケリー。よろしく、クレイ？」
「見ない顔だよな？ こっちは初めて？」
握手の後、隣に腰を下ろしてからクレイは尋ねた。
「えーと、正確には十五年ぶり。赤ん坊の頃、住んでたんだ。わけあってこの夏、舞い戻って来た」
ここでサミュエルはチラッとクレイを見た。
「あんたは地元の人？」
「親父の別荘があって、毎年夏はここさ。一五年ぶりって、家は何処？」
サミュエルはその一角を指差した。サンケィティ灯台の真下。
クレイは驚いて、
「まさか、じゃ、プレローズ屋敷？」
「知ってんの？」
「当然。この辺りじゃ最も古くて大きな家だ。立派な〈見張り台〉があるだろ？」
真っ黒い髪を額からパッと振り払ってサミュエル・ケリーは笑った。
「うん。捕鯨時代の名残の、な！」
その笑顔の素晴らしいことと言ったら……！
ほとんど息も止まらんばかりのクレイは、じゃ、プレローズ家の身内なのかと訊くのがやっとだった。
〝ケリー〟は十五年前離婚した母方の姓なのだと少年は教えてくれた。
「ママはよっぽど親父に愛想が尽きたんだな。以来、断固として俺がここに来るのを許さなかった。だから、今年の夏は特別なんだ」
「どんな風に？」
「親父が死んだから」
クレイは口を閉ざした。
ややあって、標準的な弔慰の言葉を伝えようとした途端、サミュエルは片手を振って遮った。日焼けした腕から金色の砂が零れ落ちる。まるで少年の鱗粉のように。
「いいんだ。別にどうってことない。親父は男として理想的な人生を全うしたんだから。ママでなくっても、祝福こそすれ悲しむ必要はないよ」
少年は海の方を見て話した。
「ほら、どでかい映画の看板によくあるだろ？ ああいう人生。ヨット三昧の日々、名前だけの役員名簿、資産家の両親の残した莫大な遺産、生涯独身、挙句の果ての海難事故死……クールだよなあ！」
なんと言っていいものやら。
クレイが口を閉ざしていると、やがて少年も黙り込んだ。
波打ち際で波がかっきり二〇回打ち寄せるのを数えてから、クレイは切り出した。
「良かったら、夕食招待させてくれよ。ほら、お返しに、さ」
サミュエルは吃驚して問い返した。
「お返しって──何の？」
「ランチの、さ！」
クレイは片目を瞑って見せる。涼しい岩の間でスパーキィはボローニャサンドイッチを綺麗に平らげていた。
サミュエルは快くクレイのこの申し出を受け入れた。
スパーキィが食い散らかしたランチの紙袋とビーチタオルを掻き集めると、二人はそのまま夕焼けにはまだかなり間がある浜を突っ切ってクレイの別荘へ直行した。
