#18
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身動ぎしてクレイは目を醒ました。
真夜中だった。
浅い眠りの中、もう内容は憶えていない夢の名残のように肌が粟立っている。その不安な予感通り、隣りは空っぽだった。
「サミー?」
伸ばした手に触れたシーツの冷たさにたじろいで立て続けに名を呼んだ。
「サミー!」
焦って明かりを点けようとして、サイドテーブルの上のスタンドを床に落としてしまう。いつもその辺りに寝ているはずの愛犬が動く気配がない。
「スパーキィ?」
大切な両方とも部屋にはいなかった。
サミュエル・ケリーはプレローズ屋敷の父の書斎にいた。
緑色のライブラリィランプを燈しただけの室内。
マホガニーの机は古い蜂蜜のような光沢を放っている。その上に積み上げた冊子の間に少年は屈み込んでいた。足元にはスパーキィ。
愛犬は鼻をヒクつかせてドアの方を振り返った。
果たして、戸口には取り乱したご主人の姿──
「死ぬほど捜したぜ、この馬鹿っ!」
大股に部屋へ入って来るとクレイは怒鳴った。
「何考えてるんだよ! こんな真夜中に、一人でこんな処にノコノコ出て来やがって……表、か、鍵さえ掛けずに……」
どんなに慌てたか服装を見ればわかる。羽織ったシャツの釦は一個もかけられていない。
そのラフな格好をサミュエルは素敵だと思ったが、いつもならクレイはこんな着方は絶対にしなかった。
「例の殺人鬼が舞い戻って来るかも知れないと考えなかったのか? 現に──エルンストはここで殺されたんだぞっ!」
「一人じゃないよ」
悪びれずに少年は答えた。
「だから、ちゃんとスパーキィを連れて来たんだ。彼は〝K9〟ばりの頼もしい名犬だって言ったろ?」
「──」
「鍵を掛けなかったのはおまえが追いかけて来た時のためさ。この夜半、表に締め出す方が遥かに危ないもん。俺が鍵を開けるのを待ってる間におまえが襲われたらどうする? 闇の中に殺人鬼が潜んでる可能性の方がずっと高いってこと。俺はそこまで考えてる」
「屁理屈並べやがって……」
クレイは呻いて一番近くにあった椅子に腰を沈めた。
「昨日二人で話してた日記やラブレターの件で思い当たったんだよ。そしたら居ても立ってもいられなくなって。ほら、これ。ひょっとしたら刺青の謎を解く何らかのヒントになるかも知れないだろ?」
サミュエルが腕を広げて指し示した机の上の塊りに、漸くクレイは目を向けた。
「ああ、航海日誌か?」
「その関係を全部棚から抜き取ったところ。かなりの量だぜ。ママがこぼしてた通りパパは、ほんと、世界中の海を荒らし回っていたんだな! 尤も──派手な外洋は結婚前に集中してるけど」
少年は屈託のない笑い声を上げた。
「チャネル諸島、アゾレス諸島、マルケサス諸島、パプア・ニューギニア・トロブリアント諸島、西インドにソロモン……ザッと目を通すだけで一夏過ぎちまう」
「だな」
足を組み替えて、さりげない風を装ってクレイは尋ねた。
「……夏が終わったら、おまえ、どうするんだ?」
即座にサミュエルは答えた。
「学校に戻らなきゃ。ママも待ってるし。おまえは?」
「うん。俺もさ」
今度尋ねるのはサミュエルの番。やはりさりげない調子で聞いてみる。
「えーと、大学はボストンだったっけ?」
「Hの方」
「ハーバードかぁ。俺も来年、そこへ行こうかな? こう見えて成績悪くないんだぜ」
短い沈黙の後、いきなりクレイは立ち上がった。
「かせよ」
積み上げてある冊子の方へ手を伸ばすとぶっきらぼうに言った。
「俺ん家に戻ろう。どうもここは落ち着かないや。チェックするにしろ何にしろ……向こうでやろうぜ」
「うん。あっ」
「おっと」
何がぎこちなかったのだろう? 二人のタイミングが微妙にブレて、硬った腕と腕が交差し、結果、冊子の山が崩れて床に雪崩落ちた。
一瞬、二人とも零れた水でも見るように足元に散らばった航海日誌を茫然と見下ろしていた。
それから、急いで掻き集め始める。
「おい、これ、中身がないぞ?」
ぽってりした花園を浮き上がらせた絨毯の上から嫌に軽い一冊を拾い上げて、クレイが訴える。
「ブッ飛んだらしいや。探してくれ」
「どれ?」
部屋の隅で首を伸ばしてサミュエルが答えた。
「ああ、それか。それは最初からなかった。カバーのサックだけ本棚に突っ込んであったんだ」
「へえ?」
興味を覚えてクレイはランプの傍へ寄った。
《 キクラデス諸島・ミロス島 1975 》
「ミロス島かぁ! エーゲ海だよな? ほんと、いろんな処へ行ってるんだ、おまえのパパ」
「彼とはどうなったんだよ?」
「?」
クレイは抜け殻のサックから顔を上げてまじまじとサミュエルを見た。
少年は回収した父の航海日誌を両腕に抱えて立っている。クレイの横へ来て机の上に全部元通りに積み上げた。
「いきなりのツッコミだな? 彼って、どの彼さ?」
「中学一のヒーロー。初恋のヘイゼルのお兄ちゃん。彼とは長かったのか?」
「ああ、その話か」
やっと合点がいってクレイは頭を掻きつつ、
「ずっと続いたよ。おまえは俺のこと浮気性と決めてかかってるけど、お生憎様、入れ込む質なんだぜ」
サミュエルが黙っているのでもっと続けた。
「恋人は生涯一人。それが理想だね」
明らかにムッとしてサミュエル、
「だけど結局別れたんだろう? それとも、あっち、ボストンで待ってんのかよ? やっぱり俺は一夏の馬鹿な相手ってわけか?」
少年はもう涙声になっていた。
「これぞアメリカ版〝欲望の法則〟だな? なるほど、ここなら灯台も近いしな!」
ここへ来て少年の映画の喩えが矛盾していることにクレイは気がついた。
P・アルモドバルの〝欲望の法則〟は名作だとクレイも心酔しているが──灯台の下で殺されるのは本当に愛されている少年……真実の恋人であって、断じて馬鹿な一夏の相手ではない。
だが、クレイは少年の間違いを指摘しなかった。代わりに言った。
「きっぱりと別れているよ」
「いつ、どうして? 振ったのか、振られたのか?」
そのどっちでもない、とクレイは答えたがサミュエルは納得しなかった。
真っ黒い髪を振って食い入るような目で詰め寄る。
「でみ、別れたんだろ?」
クレイはほとほと参って苦笑した。
「あのな、降ったり振られたりでなくっても別れはあるだろ?」
「じゃ、飽きたのか、飽きられたのか?」
「飽きなくても、飽きられなくても、別れはある。リッキーはもうこの世にはいない。つまり、そういう別れだ」
流石にサミュエルは口を噤んだ。
「この秋で三年になる」
「……エイズ?」
「違う」
二人はロブ・プレローズの机の前に並んで立っていた。真夜中で窓を開けていなかったので硝子越しに見る海は夜の闇と同色で何処が水平線か判然としなかった。
それで、二人とも改めて知ったのだ。夜の海は闇と一緒だ。
時折、クレイが言葉を切った時だけ波の音が聞こえる。
「三年の秋、俺は大学の新入生だった……」
クレイ・バントリーはこう言って話し始めた。