#17
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エアーが切れるギリギリの時間まで二人は潜っていた。
その後、戻って来た二人に駆け寄って葵里子は成果の程を矢継ぎ早に問い質した。
「で、どうだった? 何か見つかった?」
「船がある」
「パパが沈めたんだ」
「なぜそうとわかるのよ?」
浮力調整ジャケットを肩から引き抜きながらクレイが説明する。
「船名が読めたんだ。〈アマンダ号〉」
素っ気ない口調でサミュエル、
「ママの名だ」
「どんな船なの?」
「全長焼く四六フィート、長い竜骨と鋼鉄の船体のケッチ」
「やったわね!」
葵里子は胸のカメラを抑えて飛び跳ねた。
「それって刺青の文字に符合するじゃない! キールって船舶用語だったの? 早く言ってよ! てことは……I・N・K・I・Rは、IN KIRで決まりね!」
(確かに船のことをキールと呼ぶけど……)
さっき無意識にクレイが言った〝キール〟は竜骨のこと。転じて船自体をキールと呼ぶこともある。但しこっちはKEELだ。英語が母国語のクレイは刺青のKIRを見ても船を全く連想しなかった。だが、写真家のあまりの興奮ぶりに気圧されて、スペルが違うという点を指摘すべきかどうかクレイは躊躇した。
「中はどうだったの? 勿論、調べたんでしょう?」
「ざっとだけ」
工具がないとこじ開けられない箇所があったことをクレイは認めた。
「破損してる戸棚とか、ビルジ・ウェルの内部とか。ヨットマンが本気で何か隠そうと思ったらそこまでやるだろうからな。とはいえ、今日見た限りじゃ別にこれと言って変わった物は見当たらなかったぜ。なあ、おまえはどう思う、サミー?」
「わかんないよ」
「わかんない、はないでしょ、サミー? あんたのお父さんはこれほど手の込んだことしてるのよ。これは絶対、何か特別なものが隠してあるんだわ。その〈船内〉に」〉
目を細め、顎に指を置いて写真家は厳かに言い添えた。
「例えば……財宝とか」
甲板に鈍い音が響く。
ギョッとしてクレイが振り返るとサミュエルが乱暴に足鰭を脱ぎ捨てた音だった。その上にウェイトベルトも投げ捨てる。
「パパは充分に資産家だった!」
少年は濡れた真っ黒い髪を鬣のように振って荒れた口調で叫んだ。
「こんな風にしてまで隠さなきゃ成らないモノって何だよ? 〝カット・スロート・アイランド〟の海賊じゃあるまいし──」
ウェットスーツを脱いで体にタオルを巻きつけながら少年は喚き続けた。
「金なら口座にブチ込めばいい。宝石ならセキュリティ万全の貸金庫を利用するさ。有能な管財人を雇うことだってできた。それを、こんな──夏休みの小学生がするような冒険ごっこに付き合うのはウンザリだっ!」
「どうしたの?」
クレイの背中に廻り込んで葵里子はそっと聞く。
「坊や、何をそう荒れてるの?」
「さあな。きっと疲れたんだろ?」
懐中での活動は思いの他体に負担を与える。タオルの下でサミュエルの細い体が小刻み震えているのを見て、エアーのストックもないことだし、これ以上船内を細かく調べるのはまた日を改めよう、とクレイは提案した。幸い船の所有者はあさってまで帰って来ないし。ここは家に戻ってゆっくりと遅い昼飯を食べて、昼寝をすべきだ。
鴎が二匹、空の深い処を旋回している。
自分とサミュエルはまだ海底にいて、彼ら鳥たちがいる辺りが海上のような……従って、あそこの高みまでまだ昇って行かなくてはならないような……そんな気分にクレイは陥った。
「どうかしたのか、サミー?」
そう言ってクレイがサミュエルに声をかけたのはクレイが主張した通りのたっぷりした昼食──ムサカとシーザーサラダ、フルーツケーキ付き──の後だった。
葵里子の方は早々にオリジナルの暗室に引っ込んでしまった。
スパーキィはよほど留守番が気に食わなかったと見えて、廊下の隅で〈オポッサムの真似〉を決め込んでいる。
サミュエル・ケリーは居間のソファにクッションを抱えたまま俯せに寝転がっていた。
「葵里子も心配してたぞ。おまえの様子が変だって」
「……うん」
肘を突いてサミュエルは横向きに体の位置を変えた。そうするとソファの傍に立っているクレイの、腰に置いた腕が目と同じ高さになる。
「何かしっくりこない。言葉じゃ上手くいえないけど」
サミュエルはのろのろと口を開いた。
「海へ潜った時もそうだったし、まるで誂えたようにドンピシャとあの〈アマンダ号〉にぶち当たった時も、ずっと感じていたんだ、俺……」
少年はここでいったん喋るのをやめた。
午前中の海水に染まったような瞳が宙を漂い、結局最も惹かれる処へ戻って来て止まった。
クレイの金色の腕。手首に引っ掛かっている時計はオメガのダイナミックで、確か何処かの島の名が冠されていたはずだ。
(えーと、マーサーズビニヤードではないし……無論、ナンタケットでもないよな?)
真っ黒い文字盤に翡翠色のキリッとしたアラビア数字が超クールだ。恋人になんとよく似合うことか……!
強いて言えばそういうこと。
クレイとこの腕時計の関係は容易に理解できる。スタイルがピッタリだから。嵌っている。マッチしている。
でも、パパと刺青となると──
「何か、全てが胡散臭い。第一、らしくないよ」
クレイがソファに腰を下ろすのを待って少年は先を続けた。
「パパは坊ちゃん育ちで金銭感覚に恐ろしく疎かったって」
これは未だに母がこぼしている数多いロブ・プレローズの欠点の一つだ。
「そんな人間が、葵里子曰く〈財宝〉とやらをこんな形で必死に隠すかな?」
朝からずっと心の中に引っ掛かっていた疑問をサミュエルはついに口に出して言った。
「なあ、クレイ、俺たち根本的にパパの刺青のメッセージを読み違えているんじゃないだろうか?」
暫く考えた後でクレイは答えた。
「だけど〈財宝〉ってのは、例えば黄金や宝石とは限らないからなぁ」
両手で髪を掻き上げると、
「その人にとってかけがえのない物、ってこともある。秘密にしておきたい物。触れられたくない物。或いは大切にそっと隠し続けたい物……」
サミュエルは再びクッションに顔を押し付けた。
「チェッ、これで散々苦労した挙句、出て来た〈財宝〉がパパの日記だったりしたら怒るぜ!」
同意してクレイも笑った。
「青春時代に書きなぐった詩の山、とかな。出せなかった初恋の人へのラブレター。隠し撮りした恋人の写真──何だよ?」
自分を見つめているサミュエルの視線に気づいてクレイは赤くなった。
「それ、自分のこと言ってるんだろ?」
少年はクレイのシャツを引っ張った。
「考えたら、クレイ、おまえずるいぜ? 俺にばっかさらけ出させてる。初恋はいくつの時だった?」
「十四歳」
「相手は?」
「同じクラスの女の子さ」
肩越しにサミュエルを振り返ったクレイは悪戯を見つかった少年の目をしている。
「よくあるパターンでがっかりか? まあ聞けって。腰まで真っ直ぐな赤毛の髪を垂らしてて、超可愛かった! ヘイゼルって名でさ」
「おまえなら当時からモテたんだろうな?」
「まあね。引く手数多ってヤツ」
「ケッ、で? その赤毛の可愛い子ちゃんとはどうなった? デートできたのか?」
いったん好きになると逆に意識し過ぎて口も聞けなくて、とクレイは白状した。
「彼女の家の周りを自転車でグルグル廻るばかり。その内に思い余って一晩かけてラブレターを書き上げた。その力作を一ヶ月近くもジィーンズの尻ポケットに忍ばせて、渡そうかどうしようか迷ったっけ」
「へえ? 案外意気地がないんだな。それで──どうなったのさ?」
「うん」
そう言ったきりクレイは口を噤んでしまった。
あんまり長い間そうやっているのでもう少しでサミュエルは話題を変えそうになった。
当たり障りのないところで、その時計、何て名だった? と聞こうとしたまさにその時、突然、クレイが口を開いた。
「とうとうある日、絶好のチャンスが来た。ヘイゼルが一人で真っ直ぐに俺に向かって歩いて来たんだ。夏休みを間近にした陽光眩しい五月の校庭を想像してみろよ。頭上にはマロニエの花がキャンドルみたいにチロチロ燃えていて……それだけでも心臓がブッ飛ぶくらい感動ものなのに、なんと彼女、ピタリと俺の前で足を止めたのさ。『今だ!』俺は思った。この瞬間を逃すべきじゃない。俺の尻ポケットには、かなりくたびれたとは言えその時も例のラブレターがしっかり入ってたし。
でも、俺がそれを引っ張りだすより早くヘイゼルの方が真紅のバックパックから封筒を取り出して俺の手に押し付けたんだ」
「やるじゃないか!」
サミュエルは叫んで跳ね起きた。
「じゃ、両思いだったんだ!」
「終いまでよく聞け」
腕を伸ばしてクレイはサミュエルをクッションへ押し戻した。
「ヘイゼルは言った。『頼まれたの。兄さんからよ。これ、読んで欲しいって』……」
クレイは静かに続けた。
「彼女の兄貴は二つ違いで彼女同様──いや、違う。彼女以上にイカシてた。信じられないよ。全校生徒の人気を独占するヒーローだったんだぜ。憧れの存在。恐れ多くて俺なんかまともに見つめることさえできなかったのに。バスケと水泳の正選手で、秀才でハンサム。勿論、赤毛だった。妹の方は名前の通り榛色だったけど、リッキーは物凄い緑の目でさ!」
クレイは締め括った。
「それが俺の、最初の恋人ってわけ」
クレイの横顔を見ながらサミュエルは低い声で言った。
「ふーん、そういうことか……」