#12
12
サミュエルは言った。
「あの女、イカレてるぜ」
クレイは答えた。
「まあ、多少は。芸術家だからなあ……」
二人がいるのはクレイの白い寝室だった。
衣通葵里子が乗り込んで来た今となっては益々ここだけが二人の避難場所という気がして来た。
自称写真家はクレイのコテージのメインベッドルームに当然のような顔をして自分の荷物を運び入れた。彼女の言葉を借りれば、自分たち三人は今や〈チーム〉なのだそう。素晴らしき〈運命共同体〉。
窓辺に寄ってクレイはカーテンをちょっとずらして前庭に留め置かれた葵里子の愛車を見下ろした。木々を透かして午後の陽射しがクロシェ編みのような洒落た模様をクリーム色の車体に映している。
ため息をついた後でベッドに寝転がっているサミュエルに視線を戻す。
慎重に言葉を選びながらクレイは言った。
「だが、あの女の言ってることも一理ある。俺とおまえのどうしようもない立場を一瞬で好転させる、最も手っ取り早い方法は──真犯人を見つけ出すことだ。ここは暫くあの女の言う通りやってみてもいいかもな」
サミュエルから返答はなかった。キュッと結ばれた口元の翳。何かに似ている。そう、墓地の天使像。
「……写真を見せてもらったのか?」
「何だって?」
質問の意味がわからずクレイは戸惑った。
「壁だよ」
クレイは四方の壁を見渡して、
「え? どの壁?」
「可愛い壁さ! ケニー・ウォール……あのイカレた写真家のお気に入りの男娼モデル」
クルッと体を反転してサミュエル、まともにクレイを睨みつけた。
「やたらと興味を示していたじゃないか? きっとおまえ好みのキュートな野郎だろうな。死んじまってて残念だよね?」
「何イラついてんだ、サミー? 絡むなよ」
合点がいってクレイは苦笑した。傍らに腰を下ろすと、寝そべっていたせいで縺れている少年の髪にそっと手を伸ばす。
「まあ、こんな破目になって不安な気持ちはわかるけど」
サミュエルは激しく頭を振ってクレイの手から逃れた。
「俺が不安なのはエルンストの死体のせいじゃない。わからないのか? 不安のほとんどはおまえのせいだ!」
畳み掛けるように言う。
「どんどんマジになっちまってるから怖いんだよ。その点、いいよな、おまえは? 所詮遊びだもの」
「またその話か。いい加減やめろよ」
「やめない」
サミュエルはやめるつもりは毛頭なかった。今こそとことん言ってやる。そして──行き着く処まで行ってやる……!
「エルンストが死んでしまって本当のところ俺はラッキーかも知れない。だって、あいつは俺の秘密をごっそり確保してたもん。エルンストが生きていたら、いつそれをおまえにチクるか気が気でなかったろうな?」
ベッドの上に座り直すとサミュエルは自分の足首を掴んだ。
「憶えてるか? おまえがエルンストと最初に会った日、あいつ、露骨に当て擦ってたよな? 俺の嗜好について」
(エルンスト・オレンジと最初に会った日?)
それはつまり、サミュエルと初めて愛を交わした翌日のことだ。潮風だっていつもと違う気がしたあの朝。マックロスキーの絵本〝すばらしいとき〟の表紙……本屋の前……パゴダの樹の下……
「憶えていない。だっけか?」
「すっとぼけるなよ! バッチリ憶えているくせに。そうとも、俺はノボせたのはあんたが初めてってわけじゃない。同じ過ちを何度も繰り返してる。実際エルンストがカバーしてくれた件もあるし、ママだって四六時中頭を悩ませてる。俺の──手のつけられない悪癖」
サミュエルは息をつくためにいったん言葉を切らねばならなかった。
「俺は従兄弟と違って薬やギャンブルはやらないけど、別の中毒なんだ。今回こっちの浜で、おまえが見てる間、一度も誰かについて行かなかったのはむしろ奇跡に近かった。単に間が良かったのさ。好みの奴がいなかっただけで。つまり、おまえが現れるまでって意味だけど」
「サミー」
「おまえみたいなタイプに俺は免疫がない。すぐコロッと騙されちまう。言いなりになって、挙句に飽きられて、捨てられるのさ。ケニーの方が立派だよな? 男娼って、ソレちゃんと金もらってるってことだろ? 俺なんか、ホント、コントロールの効かない馬鹿だよ」
(スパーキィは何処へ行ったんだ? よりによってこんな時に?)
さっきからずっとクレイは目のやり場がなくて閉口していた。
ついでに言えば、手の置き場にも。さっき少年の髪に触れようとして拒否されて以来、クレイの両手は軽く開いたまま──何かを求めて果たされなかった形のまま──膝の上に乗っていた。
「もうやめようって、もう懲りたはずだって思うのに、結局同じことの繰り返しだ。長身で金髪のクールビューティーが自分の方へ近寄ってくるのを見ると今度こそ俺の王子様だと錯覚してしまうのさ。
ほら、前に言った憐れな人魚姫は、ママじゃない。俺なんだ。いつも……」
ママはもっとしっかりしている、とサミュエルは知っていた。大富豪のパパとだってきっぱりと自分の方から離別した。
(でも、俺はダメだろうな?)
この男に捨てられたら、きっと取り乱して修羅場になるだろう。そして? その瞬間は近づきつつある。自分の方から引き金を引いたのだ。
「文字通りおまえは砂を蹴散らしてやって来た。俺は見てたんだ」
サミュエルは言い直した。
「俺だって見てたんだ。眠ってなんかいなかった。一週間、おまえが言い寄って来るのを今か今かと待っていたんだよ。でなきゃ──どうして目印よろしく同じ場所にああも毎日転がってるもんか」
COME ON……COME ON……
早く見つけてくれよ、王子様……
「だからさ」
絞り出すような声だった。
「引っ掛けたのはおまえじゃない。俺なんだ」
クレイは今、ぴったりと閉じられたドアを凝視していた。
「なんとか言えよ、クレイ? 感想は? あの写真家みたいにファインダーを覗かなくったって、これが俺の全てさ。生身の、俺の真髄。どう、軽蔑した?」
クレイはまだ白いドアを見ている。
出て行きたがってるんだな、とサミュエルは了解した。
「良かったな? これでもう二度と俺なんかのために死体を担ぐ必要はなくなったろ?」
「うん、サミー」
ややあってから、漸くクレイは口を開いた。
「この際、はっきり断っとくからな、いいか?」
今度黙り込むのはサミュエルの番だ。俯いたまま、次に来るだろう決別の言葉を聞いても泣くまいと、ただそれだけを心に念じていた。
(慣れてるだろ?)
それなのに、頬に伝わるこの冷たいものは何だ?
「俺はさ、〈王子様〉じゃない。いつだっておまえの〈虜〉だよ!」
「!」
サミュエルは顔を上げた。その真ん前にクレイの顔があった。
満面の笑顔で、真っ直ぐに瞳を捉えて、クレイは言った。
「もっと自分を大切にしろ、サミー。これ以上自分を貶めるんじゃない。王子様はおまえ自身だぜ?」
クレイは両手を少年の肩に置いた。やっと置き場所を見つけたぞ、と言う風に。そして、優しく揺すぶりながら、
「目を覚ませよ! シャンとするんだ! 自分の足で立て! その素敵な足は人魚の尾鰭ってわけじゃないだろ?」
クレイはもっと言った。
「これからは浜辺で一人で泣くんじゃない。尤も──そんな真似、俺がさせやしないけどな」
最後の方はくぐもって聞き取り難かった。何故ならその頃にはもうクレイはサミュエルをしっかりと抱きしめていて、唇はサミュエルの耳元で、話すというよりはずっとキスに近かったから。
海に面して開いた窓──島の家のほとんどの窓はそれだが──から始終潮風が入って来る。だが、この時ばかりはクレイの唇が塩辛かったのは風のせいではなかった。
ところで──
サミュエルが自分の過去の経歴について告白している最中、クレイも考えていたことがある。
一体、自分はいつサミュエルに恋したのだろう? その〝瞬間〟について。
(ソレはいつだった?)
結局のところ、クレイ自身正確には思い出せなかった。
それで、クレイは悟った。恋に堕ちるのにどっちが先か後かなんてどうでもいいじゃないか?
そうだな、サミュエル流に言えばこういうこと。いつだって恋は〝スター・ウォーズ〟のチューバッカの宇宙船並み。星群を突っ切る光速級なのだろう……
真夜中。
こっそりとベッドの中でサミュエルは自分の足に触ってみた。
途端に、昼間のクレイの言葉が鮮明に蘇ってくる。しっかりと立て……この足は人魚の尾鰭ってわけじゃない……
(フフ、その通りだ! 上手いこと言うじゃないか、クレイ……)
サミュエルは微笑まずにはいられなかった。
隣でクレイも目を醒ました。寝返りを打つと、自分の足を愛おしそうに掴んでいる少年の、その手に手を重ねる。思わず口を突いて出た台詞。
「俺の人魚姫。で? このハイカラな刺青は深海の……例の魔法使いの婆ちゃんに彫ってもらったのか?」
昼間は人魚じゃないと言っておきながら、ベッドの中ではすぐこれだ。
サミュエルは怪訝そうに眉を寄せてクレイを睨んだ。
「何の話?」
「んー……一度聞いてみたかったんだ。西では流行ってるのか? こういうの……」
「だから、何のことだよ、クレイ?」
「おまえが足の裏に入れてる刺青さ。凄く素敵だな?」
次の瞬間、瀟洒なコテージが揺れて、物凄い音が響き渡った。
間伐入れず一階の主寝室から葵里子が飛び出して来た。
「何の騒ぎよ? 飛行機が墜落したの? それとも地震? でなきゃ……まるでベッドがひっくり返ったような音だったわよ!」
「その通りさ、クソッ……!」
狭い階段を転がり落ちて来たクレイ。ほとんど全裸の状態だった。
「サミーの奴、いきなり俺のベッドをひっくり返しやがった!」
「アラ!」
すかさずシャッターを切る葵里子。気づいてクレイは幸いにも手に握っていたシーツを肩から羽織った。そうしながらも訊かずにはいられない。
「あんた、ソレ、いつも持ち歩いてるのか?」
ターコイズ色のナイトガウンの胸にぶら下げているカメラ。
「寝てる時も? 食べる時も? ひょっとしてトイレも、か?」
「勿論よ」
シャッターを切る手は休めずに葵里子は頷いて、
「メイクラヴの時もね。それが写真家魂ってもんだわよ!」
サミュエルも駆け降りて来た。こちらもトランクスだけの写真家魂を唆るいたく魅力的な姿だった。抱えていた枕をクレイめがけて投げつける。
「信じた俺が馬鹿だった! このクソ金髪……!」
「ウアッ?」
枕の次はソファに並んでいたクッションが飛んで来た。それも尽きると、ソファの横の床の上、直置きされた花瓶──では重過ぎるので挿してあった百合の束を掴む。
「おまえは、やっぱり、最低の浮気者だ!」
たまらずクレイ、葵里子の後ろに逃げ込んで、
「落ち、落ち着けよ、サミー、頼むから。俺がいつ、何をしたって?」
「平気な顔して、俺と何処かのクソガキ取り違えたじゃないか! しかも、よりによって、ベッドの中で、だぜ」
「まあ! それはひどいわね?」
葵里子はカメラの照準を百合をぶら下げて迫って来る少年に切り替えた。
「一緒に寝てるベッドの中でいけしゃあしゃあと他の奴の話しやがって……!」
真っ白いトランクスから伸びたほっそりした足。肩に鎖骨に零れる黒髪。動くたびにくっきりと浮き上がる肋骨はサルキ犬のそれのように優美だ──
そこまで考えてふいに葵里子の指が止まる。
葵里子は首を傾げた。
(私はこの子を知ってるわ……)
何でそう思ったのか自分でもわからなかったが。その考えは稲妻のようにさっき頭の後ろで白く煌めいたのだ。
私はこの子を見たことがある。でも、それはいつ、何処でだったろう?
勿論、現実には有り得ないことだ。それとも、有り得るだろうか?
そう言えば、もともと少年はカリフォルニアの出身だとか。葵里子自身もLAに住んでいるから何処かのビーチで擦れ違ったのかも知れない。それにしても──
言いようのない思いに襲われて写真家は顔を歪めた。
半裸の黒髪の少年は今、恋人を追いかけて漁師の家の狭い居間を走り回っている。捉えようとして改めてカメラを向ける。が、その姿は明け方の淡い夢のようにフワフワと漂い、ファインダーの中を幾度も過っては虚しく取り逃がしてしまう。
「──……」
指がブレる。対象が掴めない。葵里子はこんな経験は初めてだった。一体何がこの不安定な状況をもたらしたのだろう?
いったん胸の前、心臓の上までカメラを下げてから、再度構える。
もう一度、少年をフレームに収め直した。
トランクスの白地に細い赤の線/満開の百合の花束/ほっそりした肢体/握り締めた拳/漆黒の髪
この中のどれか──或いは全部?──に照準をぶれさせる何かがある。
不安の要素。デ・ジャヴー? 全く関連性のないバラバラのイメージが次から次に葵里子を襲って、それらが被写体への集中力を殺いでいるのだ。
「!」
肩を掴まれて葵里子は我に返った。
コテージ中を一巡りして逃げ戻って来たクレイが再び背後に回り込んだのだ。小柄な葵里子を盾にして体を折り曲げるとクレイはサミュエルを宥めにかかった。
「サミー、おまえは誤解している。俺がいつ他の男の話をしたよ?」
「足の裏に刺青入れてるどっかの能無しの話をしたじゃないか!」
「それって……おまえだろ?」
「俺? 笑わせるな! 俺は刺青なんてどこにも入れてない。第一ママが許さないよ、そんな不良の真似」
「待てよ!」
クレイは体を伸ばして真っ直ぐに立つと、決然として言った。
「じゃ、見せてみろ、右足」
葵里子を振り返って、
「確認してくれ。あんたが証人だ」
クレイはサミュエルの右足首を掴むと軽々と床に転がした。無論その手つきはこの上なく優しかったが。
「俺、おまえに目を奪われていたから──それこそ、ずっと見ていたんだ。海辺で寝転がってるおまえのこの刺青」
しかし、そこには何もなかった。
少年の足の裏は真っ白だった。
「れ……?」
息を飲んだまま、暫くクレイは動けなかった。
「ほらな? これでよおくわかったろ?」
刺々しい声でサミュエルは笑う。お得意の悪魔バージョンだ。
「フン。おまえがノボせてた〝潮騒の少年〟は俺じゃなかったってわけだ」
「変だな?」
のろのろとクレイは弁明した。
「俺、いつも見てたのに……」
しかし、何度見ようと足の裏には何もなかった。
「もういいだろ? 放せよ」
サミュエルは荒々しく右足を引き抜いた。まだ掴んでいた百合の花ごと立ち上がる。金色の花粉が腰や膝や爪先にパパッと散った。
一方、クレイは床に腰を落としたままだった。両手で髪を掻き上げると考え込まざるを得ない。
(こんなはずはない。俺はいつも見てきたんだから──)
それともアレは光の反射? 単なる砂の汚れとか? いや、違う。絶対、刺青だった。見間違うものか。
自分が幾度となく見てきた刺青についてクレイは具体的に思い出そうとした。
目を瞑ると逆にまざまざと浮かび上げる、それ。歪んだ火の玉のようにも、破裂した星のようにも見えたっけ。濃い藍色の印象的な模様だった……
「おかしいな?」
捻れたキリムの上に座り込んだまま声に出してクレイは呟いた。
その姿を写真家がいいモチーフだと思ってさっきから幾度もシャッターを切ったことさえクレイは全く気がつかなかった。