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月下のモノローグ

作者: 白亜恐子

「私の月が溺れています」

 山奥の教会で、オオカミが言った。

 ここに人が通わなくなってから長い年月が経つ。開きっぱなしのドアから入る風で床には吹き溜まりができ、木の長椅子はとうに朽ちた。

 オオカミは十字架の前に座り、ガラスの外れた窓から月を見ている。そして私はそんなオオカミの背中と対面している。

 かつてはこの教会にも月光の差し込むことがあった。そのたびにオオカミは、月の語る世界中の物語を聞いたのだった。ある夜、月は突然別れを告げた。それが四年前のこと。

「今になって思うのです。あの夜以来、月は私から遠く離れてしまったわけではないと」

 オオカミは続ける。

「だって、もともと手の届かないところにいたのですから。別れというほどの別れではなかったのです。だから私は今こうやって月を見ています。ここからいつも見ていたいと思うからです。ですが――」

 ぱりんと、玻璃のはじける音がした。

「月が溺れているように……私にはそのように見えてならないのです。理由はわかりません。本当にそうなのかもわかりません。杞憂ならいいのですが、もしそうでなかったとして、一体私になにができるというのでしょう。手を差し伸べることができません。寄り添うことができません。私にできることは、ただここで月が溺れるのを見ていることなのです。泣くことはやめました。涙を流せば見ることができなくなります。あぁ、それなのに!」

 オオカミの声はぶれることなく月光をたどる。

「私は月の理解者にもなれないのです。天上の眺めも、それが発する光も、私には理解できません。知らないのですから。どんなに望んだところで、私は月のよき理解者にはなれない。想像者でいることが精一杯なのです。よき想像者。私は――」

 月が雲に隠れた。オオカミは振り返る。その目はぎらぎらと輝いている。

「私は――。私もまた、溺れているのでしょうか?」

 月はまだ顔を出さない。

 私はオオカミの目に吸い込まれた。


 色とりどりの蝶が飛んでいる。山の中だ。大体は私の頭から飛び出てくる。時折木立の間から現れてくるのもある。

 蝶の羽にはそれぞれ言葉が記されている。

 『環境』

 『孤独』

 『理解者』

 『居場所』

 『光』

 『実存』

 『氷点』

 『言葉』

 『春風』

 羽音がうるさい。

 蝶は次から次へと増える。赤い蝶、青い蝶、緑の蝶、紫の蝶、黄色い蝶、橙の蝶、白い蝶、黒い蝶、桃色の蝶、カーキの蝶、紅の蝶、群青の蝶、金の蝶、銀の蝶、朱色の蝶、紺の蝶、黄緑の蝶、水色の蝶、灰色の蝶、山吹の蝶。脳内を蝶にかき回される。早く終わればいいと思う。蝶が私から生まれているのか、私が蝶から生まれたのか、私が蝶なのか、わからなくなる。

 私は動くことができなかった。

 

 気づけば歩かされている。人気のない、鬱蒼とした森の中に、かろうじて人の通った跡とわかる道が一本、伸びている。頭上を覆う枝のせいで空は見えない。昼も夜も、明るいも暗いもない。一度セピアのを見かけたきり、蝶の姿はないようだった。

 大粒の雨が降り出した。私は手に傘を持っている。さすと、雨の叩く音がばらばらと鳴った。

「これは涙だ」

 いつからか隣を男が歩いている。五十がらみの、細身のスーツ姿だ。銀縁眼鏡がよく似合う。私は腕を伸ばし、傘を彼の身長に合わせた。

「僕はこれを拾い集めている。コレクターなんだ」

 彼は麻の袋を手にしていた。中には無数の涙の粒が入っている。よくある雫型の、透明なものばかりではない。歪んだ形や、濁った色、泥にまみれたものもある。

「きれいじゃないものまで、どうして拾うのかと思うかい? 簡単なことだ。きれいなものと、きれいじゃないものとを分けるものはなにか考えてみればいい。そう、確かな区別なんてなにもない。あえて言うなら、一方を汚いと決めるからもう一方がきれいになる。それは時代によって、国によって、人によって違う。僕にとっては全部大切だ。それが涙なら、なんでも拾い集めるよ。ただね……」

 タクヤは私の肩を抱いた。

「ただ、忘れちゃいけないのは、涙なんて流さない方がいいに決まっているということだ」

 傘からはみ出て雨に濡れていた右肩が、彼の腕の下では、冷たさを感じなかった。

「魅せられるあまり、僕は時々、僕がやっていることの意義を見失いそうになる。君に嫌な思いをさせてからでは遅いのに」

 タクヤの声はばらばらという雨の音に消えていった。

 私は再び一人だった。高く差した傘に雨が吹き込む。


 白い街に佇んでいる。

 早朝だ。霧が深く、遠くまで見通すことができない。太陽の姿は隠れているが、光の微粒子が霧の中に混ざりこんだ。取り巻く空気がぼんやりと明るい。私以外に人はいない。

 街は映画のセットだった。古い家屋の立ち並ぶ、地方都市の一角。街角の看板の貼り紙には、日付が昭和二十一年七月二十一日とある。

 桜色の蝶が飛んでいる。目の前で遊び始めたので、私はその羽に触れた。すると蝶は凍りつき、ぼとっと地に堕ちた。

 足元に咲いているセイヨウタンポポに手を伸ばす。指の下で黄色い花は凍った。

「『氷点』という小説を知ってる?」

 前から純白のワンピースを着た少女が歩いてくる。無駄のない膨らみを持つ手足が美しい。黒髪が胸元でふんわりウェーブを描く。それはヨーコだった。

「高校生の頃、美術の先生が薦めてくれたの。途中から、もうこれ以上読みたくないと思いながら、ようやく最後まで読んだわ。主人公の孤独があまりに淋しくて、まるで広い広い海を一人で泳いでいるようだったのだけれど……」

 ヨーコは私の手を取った。ひやりと冷たい。

「だけどね、誰の心にだって氷点はあるのよ。そしてそれは、私のせいでもあなたのせいでもないの」

 あれほど濃かった霧が晴れている。牛乳配達の、びんのかたかたと触れ合う音が聞こえた気がする。

「ただ私たちは、どんなときも、氷を溶かす意志を持ちましょうね」

 そう言って、ヨーコは私にキスしてくれる。風のように柔らかい、透明な味のキスである。彼女はすぐに顔を離して、私の唇に余韻は残らなかった。

 地に堕ちたはずだった蝶が、私をおいて飛び去っていく。


 辿りついた海は凪いでいた。日が天高く照っている。

 小さな船は、帆がべったりと垂れ、動かない。乗っているのは私と船長の二人だけだ。船長は日に焼けた顔の、体格のいい男である。その目の奥には底なしの海が広がっている。そこにはこれまで数えきれないほどのものが沈んだ。ふと、その海の浅いところで蝶の羽の赤が閃いた。

「傷の舐め合いをしたいんじゃないんだ」

 体内に海を抱えた者の声だ。

「それはむしろ悪化させるよ。俺たちがするべきは、ただ春風を起こすことだ」

 帆が風にふくらみ、船が動き出した。ユーシの長い髪がゆらりゆらりと揺れている。

「船が動けば風が生まれる。誰かが生んだ風を受けて、この船も今、動き出したのさ」

 私は、ユーシが舵を回すゆるやかな手つきに見惚れている。

「この風を物足りないとか、強すぎて傷に沁みるとか感じる者がいたとすれば、彼らは乗ってこないだろう。俺はそれでいいと思っている。船は他にもたくさんあるし、俺や君にとって心地よければね。なぜならこれは、俺の船だからだ」

 私は突然、自分が彼の目の中にいることに気づいた。髪を撫でていた風が、急にまとわりつくように粘っこく、鬱陶しくなった。嵐を呼び、波を起こしたいと思った。

「舵を取るかい?」

 ユーシはどこまでも優しい。

「ここでは何でも試すことができる。失敗したって許されるから。もちろんルールはあるがね」

 言い終わるや否や、大波が私たちを襲った。


 洪水はすべて洗い流した。

 狼も蝶も卓也も瑶子も佑志も、元からいない。

 残ったのは、私と月と、モノローグ。

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