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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人形姫

あぁ、と思わず声を漏らしていた。

雲ひとつない青空に向かって、木の葉の香りを含んだ涼しい風が吹き抜けた。舞い上がった木の葉は眩しい朝日を受けてキラキラと輝いて見える。

 遠くの空には悠々とトンビが飛んでいた。これでもかというくらいすがすがしい朝だ。

 朝食の用意をしながら、ぼくはそれらの様子を眺めていた。

 人間の手が加わっていない自然は、どうしてこんなにも美しいんだろうと、そう思う。

 時刻は七時。そろそろ時間だ。コンロの火を切って、ぼくはキッチンを後にする。

 今日も、楽しく美しい、ぼくの一日が始まる。



 カチャリと小さな音をたてて木製のドアが開く。瞬間、甘い薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。部屋に入ったぼくの目に、一番初めに映ったのは、入り口に向けて置かれた白い椅子にゆったりと腰掛けている、真っ黒なドレスを着た少女の姿だった。薄いレースのカーテン越しにぼんやりと朝日が差し込んでいる。柔らかい自然の光だけが、この部屋の光源だった。カーテン越しに朝日を浴びた、彼女の白い髪が光って見える。

 大きな部屋だ。しかし物は極端に少ない。天蓋付きのベッドと小さなテーブル。それから今彼女が腰掛けている白い椅子だけだ。

 それ以外には何もない。生活感のない部屋だ。しかし、この生活感に欠ける部屋をぼくは気に入っている。

 ぼくが部屋に入って来たのを見て、彼女は優しく微笑んだ。夢見るような儚い笑顔。小さな唇から紡がれるのは歌うような朝の挨拶。

「おはよう……、いい朝だわ」

 彼女はぼくだけの人形で、そして、ぼくだけのお姫様だ。



「おはよう、よく眠れた?」

 椅子に座る彼女に声をかける。彼女はクスリと小さく笑った。白い髪が流れるように揺れる。サラサラ、サラサラとまるで川の水みたいだと思った。

「よく眠れたわ、いつも通りね」

 鈴を転がすみたいな細くて高い声がぼくの耳に届く。そんな彼女の声を聞くだけで、ゾクゾクとした快感が身体を突き抜けるのを感じた。

 人形みたいに姿勢よく座る彼女が、形のいい小さな鼻をクンクンと動かしている。

「いい香りね。今日の朝ごはんは何かしら?」

「オムレツだよ。さぁ、食堂に行こう」

 そう言って僕は彼女の前に跪く。その細く華奢な脚に手を添えて軽く持ち上げた。椅子の足元に置かれている飾りのついた黒い靴を、ぼくは彼女に履かせてあげる。

 小さな足だ。強く触れると壊れてしまうのではないかと不安になってきた。

「くすぐったいわ」

 ビクッと、彼女の脚が動く。その動きに合わせるようにスカートの裾に飾られたフリルが揺れた。

「我慢して……。さぁ、出来たよ」

 靴を履かせ終えてから、ぼくは手の平を上に向けてそっと彼女に差し出した。彼女はそこに、自分の小さく冷たい手を静かに乗せて椅子から立ち上がる。いつも通りだ。こうするのが当然だとでも言うような一連の動作。

 ぼくも彼女も、一切淀むことなく自然に身体が動く。当然だろう。毎日繰り返していれば、このくらいの動作は身体に染み付いてしまう。

 それほどまでに長い時間、彼女と過ごしているのだと思うと、幸せな気分になる。そんな気持ちを込めて、いつも通りエスコートのセリフを口にする。

「それでは行きましょう、ぼくのお姫様」

 柔らかく微笑む彼女を伴って、ぼくは食堂へ向けて歩き始めた。



「ここに来て……ずいぶんと経つわ」

 ポツリと、彼女はそう呟く。朝食後、庭を散歩している時のことだった。ぼくは彼女の声がもっと聞きたくて、黙ったまま隣を歩くペースを緩める。

「三年くらい……かしら。わたしはあの頃に比べて、どうなっているのかしら?」

 鳥の鳴き声や、木の葉が擦れる音に混ざって、彼女の小さな声が耳に届く。黒いドレスを風に揺らしながら、ゆっくりと彼女は空を見上げた。

「ねぇ、どうかしら?」

 空を見ていた視線を、今度はぼくに向けて彼女はそう言った。

 青く透き通った瞳にぼくの顔が映り込んでいる。まるで鏡みたいだ。

「変わらないよ。君は……。初めて会った時からずっと、君はぼくの人形なんだから」

 ぼくがそう言うと、彼女はフフッと小さく笑う。ぼくの答えなんてお見通しだったのだろう。それでいい。そうでなくてはいけない。

彼女はぼくの人形にして、ぼくのお姫様。ぼくは彼女に尽くすために生きていて、彼女はぼくに愛でられるために生きている。

 初めて彼女に会ったのは三年ほど前の冬だった。



 ぼくの両親は五年ほど前に事故で死んでしまった。ぼくに残されたのは多額の財産と、両親との大出の詰まったこの森の中にある屋敷だけ。森事態が私有地なので、近くに人の気配は一切ない。誰かが通りかかることもない。

誰もいない、一人きりの屋敷でぼくは無気力にぼんやりと過ごしていた。両親が死んでから急に、ぼくは他人と触れあうのが怖くなった。屋敷を出て街に住むという選択肢もあったのに、そうはしなかったのはそのためだ。そんな僕のもとを訪れるのは餌を貰いに来る小鳥と、食糧を運んでくる業者の人間だけ。業者の人間にしたって代金は銀行からの振り込みにしてあるので、荷を門の前に置いて帰っていく。

一人きりの家で、本を読みながら、両親が死んでから二度目の冬がやってきた。その頃には、ぼくは何のために生きているのだろう、なんて思っていて、いつ死んでも構わないという気になっていた。きっとぼくが死んでも誰も困らないし気付きもしないだろう。無気力に生きるくらいならいっそ、と何度も考えていた。

そんなぼくが、外に出ようと思ったのはいつ以来だろうか。

 あの日、久方ぶりに家の門を開けて敷地の外に出たのは、ほんの偶然。降り積もった雪がとてもきれいだったからに過ぎない。

 真っ白い雪に足跡を付けながら門を潜る。目の前に広がるのは雪で覆われた白い森。

 そんな森の中から、ふらふらと何かが出てきた。その何かは、覚束ない足取りでぼくの目の前にやってきて、力尽きて倒れ込む。

 そこに倒れていたのは、ボロボロの黒いドレスを身にまとった一人の少女だった。頭や肩の上には雪が降り積もり、寒さにやられたのかその顔は蝋燭みたいに真っ白で、まるで人形のようだった。

 流れるような白い髪を雪の上に散らし、少女は浅く、今にも死んでしまいそうなくらい弱々しい呼吸をしている。その目は固く瞑られたまま開く様子もない。よく見ると瞼を糸で縫い付けられていた。薄い胸がわずかに上下しているのが生きている証だが、それ以外は職人が丹精込めて作った人形のようで、ピクリとも動かない。生命力を根こそぎ奪われた人間は、こうも美しく見えるものなのか、それとも少女が特別なのか。

 どちらでもいい。

 少女を目にした途端、ぼくはこの人形みたいな少女を自分のものにしたいと本気で思っていた。そのことを考えるだけで背筋がゾクゾクと震える。

 しかし、まぁ。

 そんなことより何より、まずは少女の命を繋ぐことが最優先だ。倒れ伏したまま身動き一つしない少女を抱えあげる。冷たい。まるで氷みたいな冷たさだ。生きているのが不思議なくらい。いや、もしかしたら生きてなどいないのではないか? 少女の肌は血の気がなく真っ白で、人形ですと言われればそう信じ込んでしまいそうだ。

 軽い。骨の浮いた身体を抱きかかえ、ぼくは少女を家に運び込む。ぼく以外の人間を家の中に入れたのは、いつ以来だろう。

 兎にも角にも、ぼくは久方ぶりに自分以外の人間と触れあったのであった。

 それから……。

 少女が再び目を覚ましたのは、一週間が経過してからだった。彼女が目覚めるまでの間に、ぼくは彼女のための部屋や服を用意していた。それ以外の時間は、寝るとき以外彼女の寝顔を眺めていた。そうしていると心が落ち着いて、幸せな気分になる。

 彼女の瞼を縫い付けていた糸は既に外して、キチンと治療もしてある。どうして瞼を縫い付けたりしていたのかは知らないが、小さな穴が無数に空いて、そこから血を滲ませている様は、とても痛そうで、見ていて辛かった。

 体中、擦り傷や打ち身だらけだった。目を開けられない状態であの森を抜けてきたのだろう。雪に埋もれた手足は凍傷寸前で、場合によっては切断の必要もあった。

 誰があんなことをしたのか。ぼくは、ぼくの人形を傷つけた者のことを考えると、泣きそうになった。

 一刻も早く、彼女と話をしてみたかった。

 だから、彼女が目を覚ました時、ぼくは泣いて喜んだ。自分がどうなっているのか分からずうろたえる彼女を抱きしめて、声を殺して泣いていた。

 恐る恐る、彼女の手が僕の頭を抱え込む。小さくて冷たい掌が、ぼくの髪を優しく撫でた。ぼくが落ち着くと、小さな掠れた声で彼女はぼくに訊いた。

「あなたはだあれ? ここは、どこなの? わたしは、生きてる?」

 掠れ切ってとても小さな声だったけど、それが耳に心地いい。包帯を巻かれた目をぼくの方に向けている。

「ここはぼくの家だ……」

「あなたの?」

「そう。ぼくだけしかいないから、ゆっくりしてくれて構わない。色々訊きたいことがあったんだけど、いいや。君が目を覚ましてくれたことがすごく嬉しいんだ」

 ぼくがそう言うと、彼女は首を傾げた。銀の髪が肩から滑る。

「変わった人ね、あなたは」

「そうかもね。ところでひとつお願いがあるんだけど……」

「お願い……? わたしに出来ること?」

 簡単だ。むしろ君にしか出来ないことだ。

「ぼくの人形に……、それからぼくのお姫様になって欲しいんだ」

 ぼくは彼女の真っ白で細い手を握って、そう言った。

 これが、ぼくと彼女が初めて会った時の話である。



「あの時は驚いたわ。いきなり人形になって欲しい、なんて言うのだもの」

「だけど君はなってくれてるじゃないか」

「そうね。だってわたしは、あの時死んでもいいって思っていたのよ」

 ガラスみたいな青い瞳にぼくを映して彼女は言った。ぼくも彼女も、あの時死んでもいいと思っていたのだ。彼女に素情や生い立ちを訊いたことはない。どうして一人で森をさ迷い歩いていたのかも訊いていない。そんなことはどうでもよかったからだ。彼女はぼくの人形に、それからお姫様になってくれた。それだけで十分だ。

 だけど、彼女の仕草や時々語ってくれる昔話を聞いていて、なんとなく分かることもある。恐らくだけど、彼女もぼくみたいな富裕層かなにかの生まれだろう。それがどうしてあんなにボロボロになっていたのかは分からないけど。

「人間なんて大嫌い。他人になんて会いたくもない。あぁ、あなたは別よ? だからわたしはあなたの人形になることにしたのだから」

 髪を風に踊らせながら、クスクスと彼女は笑う。青い瞳は空と同じ色をしていた。

 きっと、この瞳のせいだ。この普通じゃない色の瞳のせいで彼女は瞼を縫い付けられ、ボロボロにされた。普通じゃないものを恐れる人間は少なくない。

 確かに長く見ていると怖くなる。彼女の眼に心の奥まで覗かれているような気になってくる。ぼくはそれでもいいかれど、皆が皆そうとは限らない。

 ぼくがずいぶん昔、両親と行った近くの街では彼女みたいな目や髪をしている人はいなかった。

「わたしは人形でいい。あなたの人形がいい。あなたはすごく優しいし、この家はすごく暖かい。あなたがわたしを必要としてくれている限り、私は死なないわ」

「ぼくは、君がいてくれて、君に尽くさせてくれる限り、死なないよ」

 初めて彼女を見た時からぼくは彼女に尽くしたくて堪らなくなった。彼女を手放したくなくて堪らなくなった。一目惚れというよりも崇拝に近いかも知れない。身体が冷え切って人形みたいに真っ白になりながら、それでも必死に生にしがみつく彼女の姿に心震えた。

 彼女がぼくの人形になってくれると言った時、ぼくは一生彼女に尽くして生きようと誓った。彼女の命令にはなんだって従うつもりでいた。

 だけど、彼女は自分の意思を持たない。

 たしかに彼女はぼくの人形だけど、同時にお姫様でもあるのだ。もっと我儘を言ったり、命令してくれても構わないのに。しかし彼女にそう言ったら彼女は

「今のままで十分だわ。十分あなたは尽くしてくれているし、なによりわたしは人形だもの」と、笑っていた。

 彼女はぼくに言われた通りの、人形としての自分を演じきっている。ぼくに与えられたドレスを着て、毎朝ぼくが起こしに行く時間には椅子に座ってまどろんでいる。大人しく、文字通り人形のように。ぼくに許可されたこと以外はしようとしないし、それで満足しているみたいだった。もっと自由に振舞ってくれてもいいのだけど。

 彼女がぼくに命令してくれるのは、おやつを食べたくなった時や、散歩がしたくなった時ばかりだった。ぼくは彼女に命令される瞬間が大好きだった。彼女からのお願いや、命令がもっと増えればいいと思っている。そうすればぼくはもっともっと彼女に尽くすことができる。

 だから、この日の夕方、珍しく彼女から呼び出しがかかったことが嬉しかった。

 チリンチリンと薄暗い廊下に呼び出しベルの音が鳴り響く。静かに、それでいてハッキリとその音はぼくの耳に届いた。キッチンで今日の夕食の用意をしていたぼくは、その音を聞いて急ぎ足で彼女の部屋へ向かった。彼女の部屋は階段を上がってすぐのところにある。木製の重いドアを開け、彼女の部屋に足を踏み入れる。甘い香りが鼻に届く。彼女の髪と同じ香りだ。

 彼女は、全身に夕陽を浴びながら窓際に立っていた。白い髪が夕陽を浴びてオレンジ色に染まっている。ぼくの姿を確認すると、彼女は困ったように細い眉を下げて笑った。

「ねぇ、どうしたらいいと思う?」

 彼女は窓の桟を指さしてそう言った。近寄ってみると、一羽の黒い鳥が蹲っている。黄色い小さな嘴を震わせている姿は、助けを求めて喘いでいるようにも見えた。

「気がついたらここに倒れていたの。さっきまで鳴いていたのだけど……」

 窓にぶつかったか、それとも獣か別の鳥に襲われでもしたのか、怪我をしているらしい。

 ガラスみたいな青い瞳でその鳥を見つめる彼女の表情は悲しそうだった。

「怪我、してるのか。………君はどうしたい?」

 ぼくは、ぼくのお姫様に命令を求める。ぼくの意図を察してくれたのか、彼女はぼくを真っすぐ見つめて言った。ちょっとだけ困ったような顔だ。

「助けてあげて……。かわいそうだわ」

 ぼくのやるべきことは決まった。あとはやれることをやるだけだ。



 怪我をしていた鳥は「クロウタドリ」という種類だった。黒い羽根と黄色い嘴、綺麗な鳴き声が特徴的な鳥だ。彼女はクロウタドリの鳴き声を聴いて、倒れているのに気付いたという。

彼女の命を受けたぼくはさっそく鳥を治療した。今は見つけてきた鳥籠の中で休ませている。寝ているのか、鳥はピクリとも動かない。彼女はそんな鳥をじっと見守っていた。

「助かるかしら……」

 心配そうな声。ぼくに向けて言ったわけではなく、思わず想いが溢れてしまっただけだろう。鳥籠の隙間から指を差し込んでクロウタドリの小さな頭を撫でている。

「助かるかしら……」

 もう一度、彼女はそう呟いた。

 だけどぼくは知っている。この鳥はもう助からない。怪我自体は大したことないのだけど、病気にかかっているのだ。体力がなくなって倒れていたのだろう。

 再び目を覚ますかどうかも分からない。

 だけど、彼女にこのことを伝える気にはなれなかった。どうしたって別れは直ぐにやってくる。遅かれ早かれ分かることだけど、出来ることなら最後の最後まで彼女にはクロウタドリを見守ってあげていて欲しい。

「ぼくは、夕食の用意をしてくるよ」

 彼女とぼくと。それから鳥の分の夕食。

 彼女は何も言わずにぼくが部屋を出るのを見送る。その青い瞳には深い悲しみが浮かんでいたような気がした。

 ぼくが廊下に出ると、後ろの方から彼女が歌うのが聴こえてくる。曲名は分からないが、とても悲しくて暖かい歌だ。

 いつまでもその歌声を聴いていたかったけれど、そうはいかない。この歌はぼくのために歌われている歌ではないからだ。

 この歌は、これから死にゆくクロウタドリのために歌われた歌。彼女の鈴を転がすような綺麗な声はクロウタドリの鳴き声みたいだ。

 きっと、あの鳥はこの歌を聴いている。寝ていても、伝わる。

 彼女の気持ちが痛いほど込められた歌声だから、届かないなんて嘘だ。



 一時間くらいして、ぼくは夕食の用意を終えた。スープとパンの簡単な食事だけど、きっと彼女は今、食事どころじゃないだろうからこれでいい。すっかり暗くなった外を見て、クロウタドリのことを思う。

 真っ暗な空に浮かぶ黄色い月はクロウタドリの嘴みたいだ。夜空に瞬く星は死んだ人の魂だという話を聞いたことがある。

 あの鳥も死んだら星になるのだろうか? そうだとしたら、すこし嬉しい。ぼくは何もしてあげることが出来なかった。ただ見守ることしか出来ない。仕方ないことだ。納得するしかない。諦めるしかない。だけど、無力感だけが積み重なる。

 廊下に出ると、音が聞こえた。いや、音じゃない。これは歌だ。歌が聴こえる。 

 真っ暗な廊下に月明かりが差し込んでいる。階段の踊り場にある明かり取りから差し込む光だ。そのさらに奥、階段の上からこの歌は聴こえてくる。

 歌っているのは彼女だ。優しく柔らかい鈴みたいな声。ぼくの大好きな彼女の声。

 だけど、どうしてだろう。今の彼女の歌声は、とても楽しそうに聞こえる。つい一時間前に聴いた彼女の歌は悲しみで満ちていたというのに……。

 ぼくは足音をたてないように、かつ急ぎ足で二階へあがる。彼女の部屋から廊下に明かりが漏れていた。月の明かりだ。

 部屋の電気を付けていないのか。そっとドアの隙間から部屋の中を覗き込んだ。

「あぁ……」

 思わず、ため息が漏れた。

 部屋の中は、まるで夢の中の世界みたいだ。月明かりに照らされて彼女の白い髪がキラキラ輝く。その白く細い指にはクロウタドリが止まっていた。小さな足でしがみ付いて、彼女の顔をじっと見ている。

 黒いドレス姿の、ぼくの人形が歓喜の歌を歌っているのだ。歌に合わせてクロウタドリが囀る。一緒に歌っているのだろう。青いガラスのような瞳に一生懸命歌う鳥の姿を映し、彼女は微笑んでいる。友達を見つめるような優しく澄んだ目をしている。

 だけど、笑っているその目は涙で潤んでいた。

 それでも、歌えることが嬉しいのだろう。彼女も、彼女と一緒に歌うクロウタドリも。

 ぼくも、そんな彼女たちを見るのが嬉しくて、悲しかった。



 翌朝。彼女の友達は去っていった。

 一晩中歌って、明け方、太陽が昇る前に動かなくなった。ぼくは彼女の隣に座って、彼女と一緒にクロウタドリの最後を見守った。眠るようにゆっくり目を閉じて、最後に、その黄色く小さな嘴から綺麗な鳴き声を漏らして、彼女の手の上で死んでしまった。

 こうなることは分かっていた。

 分かっていても、やっぱり悲しかった。

 彼女は声を殺して泣いていた。早すぎるお別れを惜しむように。

 そう言えば、彼女が泣いているのを見るのは初めてだ。ここに来た時から、時折悲しそうな顔はしていたけど、涙だけは流さなかった。

「埋めてあげよう。それから、お墓をつくろう。小さな小さな、だけど綺麗なお墓を」

「うん……、そうね。庭の花壇の傍に埋めてあげたいの。いいかしら?」

「うん、そうしよう。君が望むなら、ぼくはその通りにするよ」

 太陽が昇り始めた頃、ぼくらは庭に出て花壇の傍に小さな穴を掘った。そこに冷たくなったクロウタドリをそっと横たわらせる。目の周りと嘴が黄色いその鳥は、気のせいかもしれないけど幸せそうに見えた。

 彼女がそっと、クロウタドリの上に土を被せる。涙をポロポロ零しながら、それでも必死に笑って。遠い遠い、とても遠いところへ行ってしまった友達の旅立ちを悲しみながら、祝福している。

 綺麗に整えた土の上に、銅でできたプレートを置く。そこには彼女の字で、小さな体で必死に戦い、生きた、歌の大好きな友達に贈る言葉が綴られている。名前の欄にはただ一言「友達」とだけ書かれていた。

 ぼくは花壇から一輪、コスモスを採ってきてお墓の前に飾る。助けてあげることが出来なかったぼくからの、精一杯の手向けのつもりで。

 それから、彼女は泣いた。大きな声を上げて子供みたいに泣きじゃくった。どうしようもなく悲しい声だ。心が痛い。ぼくは彼女の悲しい顔を見たくない。ぼくは彼女の笑顔が大好きだ。だけど、止めるわけにはいかない。目を逸らすわけにはいかない。耳を塞ぐわけにはいかない。ぼくの人形が、ここにきて初めて見せた本物の感情。本物の自分。

 ぼくが知らない振りをすることは出来ない。

 辛くても、見ないといけない。

 



「天国って、あると思う?」

 それからどれくらい時間が経っただろう。彼女は涙を拭って、ぼくにそう問いかけた。

「天国……か。あるんじゃないかな? きっと」

「そうかな。だったらいいんだけど……。あの子は、天国に行けたかな?」

 空を見上げて、彼女は呟く。青い、青い、遠い空。あの空の向こうには宇宙が広がっている。空を抜けて天国を見てきた者はいない。

 だけど、ぼくは天国を信じてみようと思う。だってぼくは自分の目で宇宙を見たことはないから。見たことがないものを信じるよりも、ぼくは彼女の願いを信じる。

 彼女はクロウタドリが天国へ行くことを望んでいる。飛べなくなったあの鳥が、空を抜けて、もう一度自由に羽ばたいているのを望んでいる。だったらそれはぼくの願いでもある。彼女一人の願いじゃない。ぼくもクロウタドリの幸いを願う。

「飛んでるよ。君と一緒に歌った歌を歌いながら、自由に」

 夢みたいな話かもしれないけど、願ったっていいじゃないか。

 今日は風が強い。流れる雲を二人で暫く見つめていた。

 死んでしまった友達を想いながら、空を見上げる。そんな彼女は、とても儚くて美しい。

「もう泣かないの?」

「十分泣いたから。後は、笑ってあげるの。だって、その方が嬉しいでしょう?」

 そっか、と呟いて、空に視線を戻した。

「君は、後悔していない?」

「何を?」

「ぼくの人形になったこと……」

 今までずっと気になっていた。だけど、訊くのが怖かった。先送りにすればするほど、怖くなった。

 でも、これ以上先送りにはできないような気がしてきた。ぼくはクロウタドリの墓の前で彼女に訊いた。

 彼女はふふっと小さく笑う。面白い冗談でも聞いたような反応だ。

「どうして後悔する必要があったの? 綺麗な服を着せてもらって、おいしい食事を作ってくれて、なによりあなたが一生懸命愛でてくれる。後悔してないし、不満もないわ」

 嘘でも、冗談でも、そう言ってくれると、嬉しい。

「あなたはわたしの生い立ちについて、何も訊こうとしないね」

「関係ないんだ。ぼくが好きなのは君だ。だから君がどんな人生を歩んでいようと関係ないし、興味ない。君がいてくれるだけでいい。ここに来た時の君を思い出せば、きっとあまり楽しい人生でもなかったんだろう?」

「そうね。辛い、辛い思い出しかないわ。わたしはここにあなたと二人だけでいるのが好きなの」

 ぼくも、彼女も、人間として何か間違っているような気がする。

 だけど、それでもいい。ぼくには彼女だけいればいい。

「さあ、風が強くなってきた。そろそろ中に入ろう」

 彼女の手をとって、庭を後にする。友達のお墓の周りには後でなにか花の種を蒔こう。

 もし彼女が見つけなかったら、クロウタドリは一人で死んでいたのだろうか? そうだとしたら、とても悲しい。ぼくは一人で死にたくない。

 こんなこと、三年前のぼくなら考えもしなかっただろうけど、今は一人になるのがすごく怖い。彼女の手をぎゅっと強く握る。

 彼女はぼくを見て、不思議そうな顔をした。それから、囁くように言った。

「わたしはいなくならないよ。あなたがわたしに尽くしてくれる限り、わたしはあなたに愛でられ続けるから」

「……………うん。ごめん」

 そう聞いて、安心した。

 家に入ってドアを閉めると、さっきまで柔らかくぼくらを包んでいた朝日が遮断される。ぼくはそれを見て、現実逃避という言葉を思い出した。

 いつまでも、この屋敷に引きこもっていたいのだけど……。



 その日の夜、彼女に呼ばれてぼくは彼女の部屋に向かった。彼女はベッドに横になって、月を眺めていた。ぼくに気付いて、小さく微笑む。

 彼女の笑顔は、優しくて、嘘っぽい。

 昨日歌っていた時のような笑顔をぼくにも向けてほしかった。

「お呼びで? お姫様?」

 本当の顔を見せてほしい。だけど、こうして傍にいてくれるだけでも十分幸せで、どうしようもない気持ちが胸の中でグルグル回る。

「手を、握って貰ってもいいかしら?」

 ぼくに向かって、細い手が伸ばされた。白い蝋燭みたいな色をしている。

 その手をそっと握ると、ぼくを見つめていた青いガラスみたいな瞳がスッと細められた。冷たい手だ。小さく震えている。

「どうしたの?」

「怖いの」

 彼女の手にぎゅっと力が込められる。小さくて弱々しい手のひらからは想像も出来ない様な強い力だ。二度と離さないとでも言うかのように、必死にぼくの手を掴んでいる。

「怖くなったの。寝ようと思ったら、どうしてもクロウタドリのことを考えてしまって。もし、眠って二度と起きられなかったらどうしようって、そう思うの」

 震えながらそう言う彼女。どうにかしてあげたいけど、ぼくは無力だった。ただ手を握ってあげることしかできない。

「わたしは暗闇が嫌いなの。怖いから。死んでしまうのは怖い」

「ぼくも、死んでしまうのは怖いよ」

 暗闇が嫌い。瞼を縫い付けられていた痛々しい姿を思い出す。

「一人は怖いの」

「そうだね。一人は怖いよ」

 一人ぽっちは、寂しくて辛い。彼女に会うまでは、そんなこと思いもしなかったけれど、今は違う。ぼくは一人が怖い。彼女がいなくなるのが怖い。

 だから、精一杯大切にして、いなくならないでと願っているのだ。

 ぼくは彼女がいなくならないように、必死で尽くしている。

 彼女はぼくがいなくならないように、ぼくに愛でられている。

 ぼくも彼女も、一人になることを恐れている。ぼくたちは人間だから、ずっと一緒にいられるわけではない。いつかは死んでしまう。当然だ。だけど、そんなことは考えないようにしていた。怖いからだ。

 そんな中、ぼくたちはクロウタドリの死を目にした。目の前で永遠の眠りにつく友達の姿を見た。悲しくて悲しくて、それから怖かった。

 彼女も、怖いという事実から目を逸らそうとしていたけど、無理だったのだ。

 一人ぽっちで瞼を閉じると、怖くて怖くて堪らなくなったのだろう。

「大丈夫だよ」

 そうだ。ぼくに出来ることがある。できなくても、しなきゃいけないことがある。

「君は一人じゃないし、ぼくは君を愛し続けると約束するから……」

 彼女の髪を撫でながら、昨日彼女が歌っていた歌を口ずさむ。

「ありがとう」

 そう言って彼女は目を閉じた。口元には笑みが、目もとには涙が浮かんでいる。そんな彼女を見つめながら、ぼくはひたすら歌い続ける。お姫様の幸いを願いながら。

 それからどれくらい時間が経っただろうか? いつの間にか彼女は眠っていて、小さな口からは静かに寝息が漏れている。こうしてみると、本当に人形みたいだ。綺麗過ぎて、怖さすら感じる。可愛らしい。彼女はぼくの人形で、それからお姫様だ。ぼくは彼女のために生きよう。彼女にはぼくのために生きて欲しい。ぼくの両親や、クロウタドリみたいにぼくを置いていかない、ぼくだけの人形。ぼくだけのお姫様。

明日はどんな服を着せようか、なんて考えると幸せな気分になってくる。それから彼女のためにおやつを作ろう。パンケーキなんてどうだろう? ぼくは彼女と一緒にいるのが大好きで、きっと彼女を愛している。口にしたら壊れてしまいそうだから言わないだけだ。

「だから、君はいなくならないでね……」

 穏やかな寝顔を眺めながら、ぼくは祈った。                END 


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