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 午前7時38分。いつもと同じ時刻、いつもと同じ緑色のバスが、騒々しい音をたてて坂道を上ってきた。小刻みに揺れる車体を停留所に横付けると、白い手袋を嵌めた手がエンジンのスイッチに伸ばされる。一息つくように大きくガスを吐き出してバスが停止し、運転席の脇にある折りたたみ式の扉が開かれた。

 千代は手にしていた本に栞代わりの紙切れを手早く挟み、肩にかけた大ぶりの黒い鞄に放り込んだ。この春に新調したベージュ色のコートのポケットから飾り気のない灰色のケースに収められた定期を取り出しバスのタラップへと足をかける。ちらりと車内を見渡せば座席は全て埋っていたがこれもいつもの事だ。千代の利用する路線は、本数があるお陰で鮨詰めにならないだけまだましな方だと言えるだろう。

 見慣れた顔の運転手に定期を示して、千代はバスの後部へと移動した。後ろから2列目の座席横に立ち、つり革に手をかける。目の前の席に座る、中年のサラリーマンらしきスーツ姿の男性は、朝刊のスポーツ欄に熱心に目を通していた。額にかかる髪が寂しくなりつつあるこの男性は毎朝同じ席で、新聞を広げていた。千代の隣に立ち座席の角についた持ち手を握るのは、朝からくたびれた顔をしている50代と思しき男性で、毎週月曜日から金曜日までを同じネクタイで通している。背向かいに立つまだ若い女性の耳につけた白いイヤホンからは、流行の邦楽が微かに漏れ聞こえていたが、彼女と隣接している人間にしか聞こえぬ程の小さな音で、苦情を申し立てる者もいない。

 バスに乗車しているのは毎日同じ顔ばかり。指定された席であるかのように皆同じ位置を陣取っていた。

 鞄から先ほどまで読んでいた本を取り出すと、千代は視線を紙切れが挟まれた頁へと落とした。千代は常時2冊の本を携帯している。一冊はバスの中で読む小さく軽い文庫本で、もう一冊は運が良ければ座席にありつける電車内で、腰を落ち着ける幸運に与れた時に読むための分厚いハードカバーの新刊だ。おかげで鞄の重量はかなりのものとなっていた。

 かれこれ3年近く、千代は毎朝同じ重みの無愛想な鞄を肩にかけ、自宅であるアパートと会社を往復する生活を送っていた。味気のない生活に嫌気がさして、会社から一駅の場所にあるスポーツジムに同僚の女性社員と通った事もある。しかしそれも、同僚の寿退社と共に、終わりを告げた。ジムに通ったのはほんの2~3ヶ月の短い期間であったが、期待していたような出会いも、真新しい発見もない事を思い知るには十分な期間だった。

 千代が3行目の文末を読み終えた時。誰もが知っている行き先を告げるアナウンスが流れ、バスが短い休息を終える。ぶるりと大きく体を揺らして静かだった車内に無遠慮に駆動音を響かせたその時、千代が顔を上げて窓からバスの外を見たのは、切り良く一つの段落を読み終えたからか、背後の女性のイヤホンから、珍しく、千代が好きだった数年前に解散したR&Bグループの曲が流れ始めたからか。或いはその両方が重なったからかもしれないが、千代はその日いつもとほんの少し違う行動をとった。

 停留所の前には4階建てのマンションが建っており、その隣には様々な素材の屋根を葺いた一戸建ての住宅が軒を連ねていた。その住宅地から一人の男が大きく膨らんだゴミ袋を手に出てくるのが見えた。

 ゆったりとしたシルエットの、上下揃いの鼠色のスウェットはパジャマ代わりに着られているものである事が一目瞭然だった。男性にしては少し長めの髪はうねり、跳ねている。起き抜けに、顔も洗わずゴミを出しに来たのだろう。

 千代は吸い寄せられるように男を見つめていた。空いた手の長い指に挟まれた煙草から、白い煙が細く伸びては景色の中に溶けて消えてゆく。男はマンション脇に設置されたゴミ収集所につくと、思い出したように煙草を咥え、目を細めて燻らせた。薄く開けられた唇から白く色づいた息が吐き出される。

 バスのタイヤが路面を捉えて転がり始めたのにも気付かずに男に見入る千代の目には、煙草を吸う男の仕草が酷く蠱惑的に映っていた。


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