朧なる月の下にて
上
朧なる月の下にて、伊丹源十郎は目を瞑りて座し、ある男が来るのを待ち設けていた。人家の灯りは遠く黒洞々に消ゆ。人声は家の内に忍び、鳥声もまた木の梢に休む。ただ辺りにちろちろと聞こえるばかり。しかし静謐。その静謐なる夜の風に、縹渺たる原の一面に生える淡黄の尾花が涼しげに揺られている。秋の夜長に月と尾花、泰平たる景色のなかにあってこの男、源十郎は剣呑な思考を巡らせていた。
――今宵、余はこの手であやつを斬り殺すのだ。愛弟子……通丞を。
余はまったく失望した。妻子のある身、愛する者のある身にも拘らず、師たる余の妻を汚し、そのうえ殺害しようとは。そのくせ平然として元の師弟の間柄に留まっていようとする。なんと憎たらしいことか。余は知らず、得体の知れぬ物の怪を門下に迎え入れ、育て上げたのだ。野放しにしていては世間の笑い者だ。今宵、通丞を殺し、余も妻の元へ逝こう。それでようやく慰められよう。
しかしなぜ通丞は愚行に走ったのか。色に溺れ、短絡的な行動を起こすような未熟な精神の持ち主ではなかったはずだ。少なくとも余の目にはそう映っていたのだ。
通丞が源十郎の道場の門戸を叩いたのは十六の頃であった。
「今の世に自らを守り、家を安らかにするは文武の両立をもって為せる。拙いま僅かばかりの学問の心得あるも武道の心得しらず。両者の均衡を図りたく門を叩いた次第であります」
斯く言う通丞は驚くほど純粋実直な人間であった。
自ら評する通り頭の出来こそ良いが体の方は貧弱で、棒のようとは言わないまでも同年の徒と比すれば華奢にできていた。剣の稽古をつける以前に体を鍛えさせなければ始まらなかった。真髄から遠く離れたる修練は来る日も来る日も同じことを繰り返すばかりで、新しく習うこともなく従って頭を使う暇もなくひたすらに筋肉を発達させんと鞭を打つ。門徒は我見て指差し嘲笑う。肉体は疲弊し、頭はうるさく叫び続ける。もう嫌だと、こんなことをするために入門したのではないと。それが一般である。
その点通丞は一通りではなかった。門徒の醜き嘲笑は意に介さず、日々体に打つ鞭を緩めることもなく、ひたむきになすべきことをなした。不平も不満もついぞ彼の口から発せらるることはなかった。
――余の下したこととはいえ不憫に思わないでもなかった。剣術を習いに道場を訪ねて、来る日も来る日も体作りで碌々稽古をつけてもらえないときては、妙に僻み、嫉み、無闇に当たり散らして、早々に辞めてしまう。それも無理からぬことである。実際そういう門下生を幾人か見てきた。地味な修練の繰り返しを倦まず弛まず続けた者だけが真髄を知るのが現実だ。向き不向きのある以上、仕方のないことである。
通丞はどうだ。誰よりも先に来て道場の掃除をし、ひとり瞑想する。奇異なものを見るような、侮ったような同門の視線を受けても動じない。己が力不足を理解し、余の言う事をよく聞き、鍛錬に励んだ。
余が師としての自覚を明確にするのは他でもない、通丞を教えている時だったのだ。
いよいよ剣術を教える段になると同門の徒に比して飲み込みの遅いのが歴然と表れた。否、身に付き難いという方が的を射ている。通丞は源十郎の教えを聞いては木刀を振るい、書物を紐解いてはまた振るい、手に豆を作った。出来たそばから豆は潰れた。頭ではうまく整理をつけていても、体はそう上手くは動いてくれないのがよく観察された。
しかし源十郎は助言少なにただ通丞を観察していた。通丞にはそれが最も効果的だと判断した。明晰なる通丞のことである、体を動かし頭を働かせ、徐々に両者が接近し、最後には一つとなるだろうと考えていた。
――いっそのこと学問で身を立てる方が出世の近道に違いなかった。師として徒を思えば残酷なれど正直に言ってしまうのが至当なのだろう。しかし余は剣術の見込みよりも心構えを買って入門を許したのであるから向こうで何も言わないうちは黙っていようと決めたのだ。残念なことに、この時の判断がのちに、一面ではよい方へ、また一面では悪い方へと導いたのだ。後悔していないとは言えまい。師としては弟子の予想外の成長を誇りながら、後悔し、憎むより他になかったのだ。
七年の月日を倦まず弛まず修練に明け暮れた通丞は或る日、ごく鋭き剣閃にて空を切った。まったくの唐突な出来事であった。刃の返す光は数瞬遅れて刃に収まる。空を切る音、一瞬の静寂、門徒のどよめき。そのどよめきなど耳に入らない如く源十郎は双眸に通丞ばかりを映していた。
――数年に渡って通丞に肩を入れていたことは師としては褒められたものではなかった。しかし通丞が入門するに際して発した言葉、心構え、修練への姿勢を見れば仕方のないことであろう。そして頭と体がようやく繋がり実を結んだのである。進歩の牛なる通丞が、ある時を境にして数段飛ばしに上達したのを目の当たりにして喜ばずにはいられないではないか。鈍重な動きから寝ぼけた太刀筋を見せていたものが、しなやかな身のこなしからの鋭い剣閃、あれには余も驚かされた。剣術は体だと他の門下生は思うてやたらに修練に励むのに対して、通丞は書物から知を身に付け、弛まぬ心構えを有し、肉体を鍛え、ついに心知体の合一に至ったのだ。
もはや同門の徒に張り合える者はいなかった。
源十郎は通丞を町の治安維持に連れ出した。通丞は首を縦に振ったものの、良くは思っていないらしかった。
「わたくしは自らを守り、家を安らかにするために剣を習いました。その剣を町の治安に用いるならば巡り巡って本来の目的は達せられましょう。しかし、勝手だとも思うのです」
「ふむ。……通丞よ、この町は嫌いか」
「生まれ育った町です、嫌いにはなれません」
「それなら勝手ということもあるまい。守るべきものに町も入っていたというだけだ。正しきを見失わず、剣を振るがいい」
その言葉でわだかまりが消えたのかどうか、ただ迷いはなくなったようであった。
爾来、道場外で時を共にすることも長くなり、子弟の関係からより個人的な関係へと発展していった。十年になる付き合いの間に通丞は結婚をし、子を授かり、家族を守る一人の男として成長していった。一月に一二度、共に酒を交わしながら私事を相語り、世間を批評し、自然を語らった。花見酒に月見酒も共にした。
学問をし、自由な発想から通丞は、
「酔いに酔いても童の声」と不定形でありながらどこか親しみやすい音を並べた。源十郎は気まぐれに、
「聞きては遠き時を思う」と応じた。
「元気な声が聞こえてくると平和だという気がするものですね」
「まったくだ。おや、泣き声がするね。あれは、たかさんのうちだろうね」
「どうしてです」
「このごろは子泣きが聞こえればたかさんのうちだと決まっている。あすこは主人に死なれて苦労しているよ。子供の泣き声が聞こえればそこには歯を食いしばる親がいる。どれ、一つ行ってこようか」
「わたくしも行きます」
「そうかい」
「わたくしも親の身ですから。それも幸運な身ですから」
「通丞も何かあった時には言いなさい」
「頼もしい限りです」
――実にすがすがしい。こういう芯の通った心構えは日頃の行いに表れるのみならず、子育てにも、また太刀筋にも表れるものだ。
折々、源十郎の妻たる伊予も交えて飲んだ。そのたびに伊予は肴を拵え、美味そうに食べる彼の様子を見ては嬉しそうにした。またニ三度、通丞は彼の妻のまつと倅の弥彦を連れて源十郎の元を訪ねた。まだ小さな弥彦を四人で囲んで順繰りに膝の上へ乗せ歌を歌った。歌に合わせて大人たちで手拍子を打つと弥彦も小さな体を存分に使って音頭を取る。この時の通丞は刀を振るう時とは打って変わって朗らかな父親の顔をしていた。
――なるほど、この光景が通丞に成長をもたらしたのだなと思った。子のいない余には分らぬが、二人を守り、自らも生きねばならぬ、その覚悟が増したのであろう。この点に於いては余を超えていると、喜んで認めたものだ。
しかし、平穏が破られるのは概して今ある平穏を恒久的なものだと信じて疑わないときである。
通丞の入門から十一年が経ったある晩、源十郎は町の見回りから帰りて戸を開けるも、平生迎えに出てくるはずの伊予の姿が見えない。家内には明かりも見えず黒洞々。音もなく人の息遣いさえ感ぜられない。代わりと言わんばかりに己の家の中とも思われない濃い血の臭いが漂っている。源十郎は履き物を脱ぐのも忘れて家に上がり、廊下を急ぎ襖を開け、部屋に行燈の灯を投げかけた。出かける前と変わらぬ整然と並べられた家具に囲まれた中央に、一生涯で唯一愛した女が、自らの体を巡っていた血の中に倒れて何も映らぬ目を天井に向けていた。行燈の明かりは締め切られた障子にほとばしった血潮を、着物や肌を染める血を、畳の上に広がる血溜まりを、冥々たる闇からぬらぬらと浮かび上がらせている。着物の裾も鮮血に染まる胸元も激しく乱れており、露出された脚、胸が死してなお生前の美しさを保っていた。部屋の静けさに対して、もう動くはずのない女だけが火の揺動に合わせて躍動していた。源十郎は両膝をついて裾を直し、胸に開けられた孔を隠すように衿を合わせた。その際に首に付けられた傷口に手が触れた。成り行きの結果ではない、明確なる悪意が伊予を殺したのだった。彼は唇を噛み締めて、伊予の何物をも捉えぬ目と涎の垂れる口をそっと閉じてやった。源十郎は別れに一筋だけ涙を流した。唇を強く引き結んで。
伊予を亡くしても源十郎は以前と変わらぬ体で門下生に稽古をつけた。師範として、武士として泣き暮らすわけにもいかなかった。そう構えていても身体の内では悲嘆に暮れていた。
――悔いて悔い切れるものではない。守るべきものも守れぬ剣に如何なる値打ちがあろうか。あの無残な姿の伊予を前にして如何なる言葉をかければよかったのだろうか。今でも分からぬ。死に様は激しく脳に焼き付き片時も忘れることはなかった。それだのに掛ける言葉が見つからない。不甲斐ない。不憫な伊予よ、今の余を遠く彼方から見ているのならば何を思うのだろうか。聞かせてくれ、余は間違っているだろうか。
源十郎に慰めを与えるのは通丞の懸命な姿であった。劣等を感ずるのもこの姿のせいであった。
事態が大きく動いたのは事件から一月が経ってのことであった。ある晩遅く、珍しく家の戸が叩かれた。源十郎は自ら表へ出た。一月が経ってもこういう些細なことで伊予の不在を強く感ずるのであった。戸の前に立っていたのは神妙な顔をした泰助であった。泰助は通丞と同じ年で、道場内で一緒に居るところをしばしば見かけた。利発で芯の通ったところは通丞と似通っているが、人心の機微を見通す力に長けており同門の中心にいた。伊予の亡きあとには通丞とともに泰助もまた支えとなった。泰助は、通丞がまだその実力が開花せぬ頃には剣術の上で勝る者もなく最も優秀であった。通丞に次いで目を掛けている弟子である。
そんな泰助が訪ねて来たのだから一も二もなく家へ上げた。上げるまではいいが俯き加減に座っているばかりで一向用件を話さないでもじもじしている。いつになくはっきりとしなかった。漸くの事で開いたその口から、あろうことかこんな言葉が発せられた。
「恐れながら、あの事件を起こしたのは通丞の奴にございます」
予想だにしなかったその言葉に、源十郎は卓を蹴飛ばさんばかりに立ち上がり、泰助に詰め寄った。その上、物凄い剣幕で問うと泰助は委細を話した。源十郎が家を出てから頃合いを見て訪ね、源十郎に話があると言って上がらせてもらう。しばし語らった後に弄び、懐から短刀を取り出し、気を抜いている伊予の胸を刺して首を切った。良心の呵責に耐えられず、泰助だけに密かに話したと言うのであった。
――通丞の仕業とは、俄かには信じられなんだ。部屋が乱れていなかったのは知った顔であったからだ。妻子を大切にしていながら一時の感情で愚を犯すとは。しかして平気な顔をしていようとは何たる非道か。道場の恥。生き恥。杯を交わして相語らい、その成長を喜び誇らしく思っていたが、やはり生かしてはおけん。いや、しかし、しかしこれは決して私情で殺すのではない。師への反逆、それすなわち罪なり。恥なり。だから師として殺すのだ。人のいない所で存分に打ち合って、師として弟子たる通丞を殺すのだ。そうでもなければ余は――
その時、遠くから尾花を踏み倒しながら近づいてくる音がした。
――来たか。随分と人を待たせるものだ。いや、どうもおかしい。この音……二人いるな。
源十郎は咄嗟に地に腹をつけて尾花に隠れた。
――こんな夜更けに、人目のない所で灯りも持たずに。話し声が聞こえる。
「こんな餓鬼ぃ攫って何になるんだか」
「金のためだ。こいつを渡せば一月は暮らせそうだぜ」
「分からねえなぁ。まぁ、ありがてえが」
「おれらは言われた通りにやりゃあいい」
「へぇ、けどこんな時間に、こんな所に運ばせて何をするんだか」
身を隠して聞いていた源十郎は徐ろに立ち上がり、声を低めて、
「人売りとはけしからんな」
――弟子を殺す前に善行でもしようというのか。まったく、嫌なことだ。
「なんでぃ、邪魔しようてぇのか」
子供を担いだ方は放って、もう一方に狙いをつけた。男が刀の柄に手をかけ引き抜こうかというところで、源十郎は地を蹴り先んじて懐に飛び込み素早く斬り倒した。すかさず体の向きを変え、子供を置いて斬りかかって来る男の刀を二度弾き、胸部を裂いた。人売りは地に倒れ微動だにしない。
「金のためとはいえ守るべきものはあろう」
源十郎は自らを冷笑した。
血を拭い、刀を収めた。
地に寝かせられた子供は気を失っていた。
――可哀想に。まだ五つくらいか。どれ。
源十郎は子供を抱きかかえ、顔を寄せた。
「おまえは……弥彦か。とんだ巡り合わせだ。……今から余はおまえの父親を殺すのだ。父を恨め。余を恨め」
遠方より灯りが一つ近づいて来、距離を取って止まった。三人を照らし出した。
「弥彦! 師匠……なにゆえ弥彦を」
通丞は目を剥きながら一瞬たりとも逸らすことなく行燈を置き、右手を柄へと持ってくる。しかし刀を引き抜く手には動揺がありありと見て取れた。源十郎もまた弥彦を横たえ、刀を抜いた。
「来い、通丞。来ぬのなら此方から行くぞ」
覚悟が出来たと見えて、通丞は一拍を置き、斬りかかった。思い切りはいいがやはり師匠と弟子、通丞が四度五度刀を振るったところで源十郎は易々と弾く。七度やり合い通丞の態勢が崩れた一瞬をついて、源十郎は深く踏み込み、首を刎ねようとした。まさにその時、不意に弥彦の顔がよぎり寸でのところで手が止まった。通丞はそこに起死回生の一手を見出し、遮二無二腹に蹴りを入れ、よろめいた源十郎の胸に切っ先を突き立てた。「しかし……いや、しかし見事……だ」源十郎は苦悶の表情を浮かべて言いながら自らの手で無理矢理に刀を引き抜き、そのまま前方に倒れた。血に濡れた刀は通丞の手から滑り落ち、尾花の中へ埋もれた。師弟の振るう刀が鳴らす甲高い音も、黒洞々たる夜闇に散る火花も、斬り合いの結末も、霞の向こうに浮かぶ月はすべてを聞き、すべてを見ていた。
中
日の落ちた夜の町を、通丞は行燈を片手に提げて走り回っていた。
昼過ぎに遊びに出かけた弥彦が暮れになっても帰ってこない。まつは不安げにしながらも肝の据わった様子を見せている。卓の下で組んだ足を小刻みに揺らしていた通丞の方が耐え切れなくなって家を飛び出した。一緒に遊びそうな子の家を二軒三軒訪ねても見つからず、好みそうな所、見晴らしの悪い場所をくまなく探しても手掛かりさえつかめない。
――師匠の家はどうか。いや、しかしあの書状。「今宵、尾花の原にて待つ」とは如何なることか。師匠が弥彦を? まさかそんなはずは。いや、これだけ探して見つからないのだ、行ってみるしかない。
通丞は更に足を速めて尾花の原へ向かった。町のはずれ、人気のない暗夜の原に行燈の灯りを投げかける。朧なる月の下に、子供を抱く男が一人。
「弥彦! 師匠……なにゆえ弥彦を」声は秋の夜風に吹かれて露と消えた。
――斯様な場所で弥彦を抱いていったい何をお考えか。燕雀には鴻鵠の心は推し量れんが、師ともあろう者が非道極まることだ。しかしなぜ何とも答えてくれぬのか。わたくしは刀を抜く。師よ、どうか刀を抜いてくれるな。わたくしに刀を納めさせてくれ。
通丞は源十郎を見据えながら行燈を置き、刀を引き抜いた。願いもむなしく、師は呼応するように弥彦を横たえ抜刀した。
「来い、通丞。来ぬのなら此方から行くぞ」
――師匠!
通丞は全霊の力をもって師に肉薄した。思考の生じる間もなく遮二無二刀を振るった。思考すれば迷いが生まれる。迷いは死に直結する。とはいえ、無策で斬り合ったところで勝てようはずもない。
ところが気が付けば師は尾花に倒れ、己が手にある刀は血に濡れていた。
――師は倒れ、わたくしが立っているのか。
胸中には動揺があった。疑念があった。状況を飲み込めないでいた。しかし確固たる現実が眼前に横たわっている。手から刀が滑り落ちた。尾花の穂が傾いだ。
――そうだ、弥彦。弥彦は。
通丞は行燈を拾い上げ尾花の原に横たわる弥彦を見つけ出して抱え上げた。
「無事か……反応がない。息は……しているな。眠っているのか。早く帰ろう。まつも心配している」
目を瞑り物言わぬ師に頭を下げ、帰るべき道に灯りを投げかけようとした折、少し離れた尾花の、不自然に倒れた中に、二つの人体が血を流して絶命していた。血はまだ新しい。
――二人で斬り合った訳でもあるまい。まさか。
通丞は二三歩後ずさり、よろめきながら家へと帰った。
妻子は抱き合って布団の中、通丞は眠られずにその様子を眺めていた。目では安らかに眠る妻子を見ているが、頭は暗夜の原へと彷徨い出していた。
――師は何を知っていたのであろうか。私は何も知らない。もしや、いや、間違いなく弥彦を攫ったのはあの二人で、師は彼らから助けてくれたのだ。それならばわたくしは師に刃を向ける故もなかった。師も同じであったはずだ。それだのに構えた。わたくしが刃を向けたからか。いや、師ならば先に言葉を投ずるはずだ。勘違いだと訳を話すはずだ。間違ってもいたずらに刀を振るう人ではない。……分からない。しかし確かなことは、わたくしは師たる伊丹源十郎を殺した。それは罪にほかならない。そしてわたくしは今、底知れない悲哀の只中にあり、逆賊の位置にいるのだ。これからまつと弥彦はどうなるだろう。泰助にでも頼むか、いやよそう。どうあれやらなければならないことがある。
「まつ、弥彦。さよなら」
明朝、通丞は妻子を残して奉行所へと足を向けた。
下
町には常ならぬ異様な空気が漂っていた。困惑、悲嘆、好奇。町人たちの口から発せらるる数々の言葉たちによって形作られていた。
「おう、知ってるか。あの源さんが殺されたって言うじゃねえか」
「みな知ってるよ。その話で持ち切りだ」
「困っちまうねえ。お役所の人なんかより頼りになるお方じゃないの」
「そうさな、おれは盗人を捕まえてもらったなあ」
「てまえは暴漢を取り押さえるのに手を貸してもらったや」
「あたしなんか呑兵衛から助けてもらったよ。お優しい人だよ」
「間違いないね。奥方を亡くしてもおれたちの暮らしを気にかけてくれるんだから。優しいと言えば通丞さん。通丞さんがやったって言うね」
「信じられないねえ。源さんに負けず劣らずいい人じゃないか。町のこと、町の人の事を思ってくれたよ。それに源さんといい関係に見えたけどねえ」
「何が何だか、分からねえことが起こるもんだ」
とある裏屋の狭い一室にて、表の騒めきを耳に入れながら一人の男が静かに座していた。まるで一連の事件など知らぬというふうに。顔ではそうだが果たして頭の中ではどうか。
――世では悲劇、余には喜劇。師弟の情愛は憤怒、憎悪、絶望へと変じ、師は死して何も言わず、弟子は牢に繋がれ悔恨に沈んでいる。実に愉快な見世物であった。滋味であった。ああ、美しきかな家族愛、勇ましきかな師弟愛。わざわざ一計を案じた甲斐があったというものだ。伊予を殺したのはおれだ。なるべく陰惨に映るようにな。弥彦を連れ出せと小悪党に命じたのもいい案だった。使い勝手のいい奴らだった。まったく、誰も彼も不用心なことだ。人を見る目がない。いかに剣術に優れたる師なれど、誠実なる友なれど、おれの中にある生まれつきの悪心を見破れないからいけない。見破れば一太刀であったろうに。まあ、そのおかげでいいもんが見られたんだから良しとしようじゃねえか。人想う人は倒れ、真なる悪党が笑う。まったく、この世は末法だ。
泰助は静かに悪辣なる笑みを浮かべた。




