## 87話 半年で詰む帳簿
## 87話 半年で詰む帳簿
事務所の空気が、少し落ち着いたところだった。
さっきまでのウイスキーの余韻が、まだ部屋の中に残っている。
テーブルの端にいた奥さんが、おそるおそる口を開いた。
「その……もし、炎の夜明けさんのところに入るとして……
具体的に、私たちはどうなるんでしょうか?」
覚悟を決めた声だった。
「……さっきお話しした通り、『炎の夜明けの中の一員』として働いてほしいです」
俺は息を整えて答える。
「今まで通り『サントエール』を作ってもらって、ウイスキーも一緒に広げたい。
屋号や仕組みは変わるかもしれないけど、『味と人と誇り』は守りたい。
だからこそ――『借金のこと』を何とかしないといけない」
ガレンさんが、観念したように棚から帳簿を取り出した。
「正直に申し上げます。このままだと、1年内には破産です」
「そんなにか……」
ヤブタさんの声が低く落ちる。
ガレンさんは帳簿を開き、淡々と数字を並べていく。
「今の『月の売上』は、だいたい金貨180枚。
原料や薪、人件費など『月のコスト』が金貨160枚。
ですから、本来なら『月の利益』は金貨20枚ほどです」
ここまでは、まだ『苦しいけど何とかやっていける商売』だ。
「ですが、ガラワ組から借りている『元本』が金貨200枚。
『毎月の返済』が、金貨20枚、必要です」
「……つまり、商売の利益20枚が、返済で全部消える」
「はい。これまでは、その20枚の中に『元本の返済分』も含まれていると思っていました」
ガレンさんは、苦く笑う。
「ですが、よく見直してみると……『利率が月10%』で、
この20枚は『利息分だけ』でした。元本は、ほとんど減っていなかったんです」
「月利10%……」
思わず、声が漏れた。
レノが、そっと口を開く。
「税金と雑費もありますね。帳簿、見せていただけますか?」
許可をもらい、レノが帳簿を手に取る。ぱらぱらとページをめくり、利息の欄で指が止まった。
「……月利10%、ですね」
「そう書かれていますね」
ガレンさんが、気まずそうにうなずく。
レノは、頭の中で数字を組み立ててから、短く言った。
「……これは、完全に『詰んでます』ね」
空気がぴしっと固まる。
「す、すみません。でも事実として。
売上180、コスト160で利益20。利息20で相殺。
税金と細かい出費を入れると、毎月じわじわ赤字です」
レノが、言いにくそうに続ける。
「貯金で何とか持たせてこられたのは分かります。
ですが、このペースだと……『あと半年持てばいいほう』ですね」
「そんな……」
奥さんの顔から、血の気が引いた。
「契約では、『利息を満額払えなかった月が出た時点で、蔵と土地を担保として差し押さえる』と書かれています」
ガレンさんが、絞り出すように言う。
〈月利10%って……やばいどころじゃない〉
〈『何とか返済が終われば』ってレベルじゃなくて、終わらないように組まれてる〉
「他には、借りる当てはなかったんですか?」
俺は、前の世界の記憶を引っ張り出しながら尋ねる。
「他には、もう当てがありませんでした」
ガレンさんは、遠くを見る目になった。
「借りた当時は、まだ『売上が今の3倍』近くあったんです。
月金貨500〜600あった頃なら、返済20枚は『重いが何とかなる』額でした」
「ですが、領都エステルから『大手のエール』が流れ込むようになって……
少しずつ、うちの取引が削られていきました。今の180枚は、その結果です」
ヤブタさんが、ぽつりと呟く。
「味は守った。誇りも守った。
じゃが、『商売』としては、読みを外したんじゃ」
誰も、返す言葉がなかった。
「今の現状は――」
俺は、自分に聞かせるように整理する。
「エールの商圏は奪われつつあって、借金は利息しか払えてない。
売上を増やす算段も、このままではない。
レノさんの言う通り、このままだとあと半年で、ガラワ組に差し押さえられて一家はバラバラ。
100年の歴史も、誇りも、味も……全部消える」
ヤブタさんが、拳を握りしめた。
「何も言えん。全部わしが悪かったんじゃ……みんな、すまん」
奥さんが、その手にそっと自分の手を重ねる。
重い沈黙の中で、俺はあえて前に出た。
「炎の夜明けの方針は、さっき言った通り変わりません」
なるべくはっきりした声で言う。
「屋号や土地、設備みたいな資産は、炎の夜明けのものになります。
みなさんと、今の従業員さんたちは『炎の夜明けの従業員』になってもらう」
一拍置いて、続ける。
「つまり――サント酒造という看板は、なくなります」
事務所の空気が、再び重く沈んだ。
「……でも」
ここから先は、もう繰り返しになるから、短くまとめる。
「さっきも言った通り、『味と人と誇り』は俺が守りたいです。
炎の夜明けのもとで、こだわったサントエールづくりと、新しい酒づくりを続けてほしい。
サントエールを、このまま終わらせたくない」
それだけを、改めてはっきり告げた。
しばし沈黙が流れたあと――。
「……分かりました」
ガレンさんが、静かに口を開く。
「今日は、本当にありがとうございます。
一度、家族や従業員たちと話をさせてください」
「もちろんです」
俺はうなずく。
「あと、条件だけ把握しておきたいので……ガラワ組との借用書を見せてもらえますか?」
「ええ。それくらいなら」
借用書を受け取り、レノに渡す。
「少し拝見します」
レノは素早く目を通し、自分のノートに写し取った。
「写し、これで大丈夫です」
「ありがとう」
借用書を丁寧に畳み、ガレンさんへ返す。
「じゃあ、今日はこれで失礼します」
事務所の出口まで、4人が見送りに来てくれた。
「今日は……ありがとうございました」
「こちらこそ。返事は、ゆっくりで大丈夫です」
門を出て、少し歩いたところで、俺は一度だけ振り返る。
夕方の光の中のサント酒造が、もう『他人の蔵』には見えなかった。
〈あと半年〉
〈借用書の条件〉
〈サントを守るには――ガラワ組をどうにかしないといけない〉
懐のノートの重みを感じながら。
俺は、次の相手――ガラワ組との一手を、頭の中で組み立て始めていた。




