## 8話 帳簿という名の「数字」
## 8話 帳簿という名の「数字」
父さんへの説得材料を思案しながら、俺は炎の鍋亭の隣にある洗い屋の扉を叩いた。石鹸と、布を煮るための灰汁の匂いがふわりと香る。
「ごめんくださーい」
「はーい!」
店の奥から、元気な声と一緒に小さな影が走ってくる。
「あ、ライム!」
「よお、クララ」
そこにいたのは、俺の幼馴染、クララだ。まだ5歳だというのに、自分より大きな洗濯カゴを一生懸命運んでいる。湯気で少し頬を赤らめた姿は、前世の記憶を持つ俺から見ても、文句なしに「めちゃくちゃ可愛い」。艶のある黒髪は、この西洋風の街並みでは少し珍しい。
奥では、クララの母親――サクラさんが大きなタライでシーツを洗っている。
「クララ、遊びにきたよ」
「待ってて!今、お母さんのお手伝いしてるの!」
「あら、ライム君、いらっしゃい」
サクラさんが、濡れた手で髪をかきあげながら微笑む。
「クララ、今日はもうそれくらいにしておきましょうか。ライム君と遊んでらっしゃい」
「やった!ライム、何して遊ぶ?」
店の前の日向に2人でしゃがみ込む。
「リバーシやろうぜ」
俺は懐から、小さな革袋を取り出した。中身は、手製のリバーシ。マルタさんにもらった端材を薄く切り、片面を炭で黒く塗ったコマと、廃材の板に線を引いた盤だ。
最近、このゲームをクララに教え込んでいた。
「ふふん。昨日、お父さんにルールを教えて、一緒に練習してたんだ。今日はライムに勝てるかも!」
「ほう、クララさんや。ならば、わたくしがリバーシの真髄というものをお教えしてしんぜよう」
「むー!負けないもん!」
5歳児同士の、やけに高度な頭脳戦が始まる。
〈……うお、危な〉
クララは本当に賢い。油断していると、平気で角を取ってくる。5歳児に負けるわけにはいかないという、大人のプライドで何とか勝利をもぎ取った。
「あー!また負けた!」
「まだまだ修行が足りんな、クララくん」
「次は絶対勝つんだから!」
悔しそうにコマを片付けるクララに、俺は今日の最大の懸案事項を、子どものフリをして相談してみた。
「なあ、クララ。俺、父さん母さんの仕事の手伝いをしたいんだけどさ」
「お手伝い?」
「うん。うちの店、最近忙しいみたいでさ。でも、父さんも母さんもなんか大変そうで……どうやって手伝ったらいいかなあ」
俺が漠然と尋ねると、クララは『なーんだ、そんなこと』という顔で答えた。
「お母さんの家計簿のお手伝いをさせてもらったら?私も、うちのお母さんの家計簿を手伝ってるよ。お金の計算も教わってるの」
〈……家計簿!〉
まさに灯台下暗し。父さんを説得するための『数字』、その原簿がそこにあるじゃないか。
「なるほど!流石のクララさんや!」
「えへへ」
「よし、じゃあ今から一緒にうちのお母さんのところ行って、『計算の勉強』しに行こう!」
「うん、楽しそう!」
俺たちは連れ立って炎の鍋亭に戻った。
案の定、母さんは、店のテーブルで帳簿の束と計算盤を前に、まだ頭を抱えていた。
「うーん、なんで鉛銭が3枚合わないの」
「母さーん!ただいま!」
「お、クララちゃんも一緒なのね。どうしたの?」
できるだけ無邪気な5歳児の顔を作って、俺は言う。
「母さん!俺、クララと計算の勉強をしてるんだ!だから、うちの家計簿を使って、計算の練習させてよ!」
「え?これで?」
母さんは一瞬きょとんとしたが、すぐにニヤリと笑った。
「いいねえ!ちょうど行き詰ってたところよ!手伝ってくれるなら大歓迎だよ!」
〈よし、食いついた!〉
母さんから羊皮紙の束を受け取る。
〈……うわ、ひどい〉
案の定、中身はめちゃくちゃだ。計算が合っていないのはもちろん、支出(仕入れ)と収入(売上)が同じページにごちゃ混ぜに書かれている。これでは母さんが混乱するのも無理はない。
「母さん、これじゃ分かりにくいよ。こっちのページには『入ってきたお金』だけ、こっちには『出ていったお金』だけ書こうよ」
「え?そうなの?」
「クララもそうやってるよな?」
「うん!そのほうが見やすいよ、サラさん!」
〈ぶっちゃけ、母さんより俺の方が計算できるんだけど、まあいい〉
俺は「計算の勉強」という名目で、実質的に店の帳簿の整理を始めた。母さんとクララと3人で、計算盤をパチパチ弾きながら数字を追うのは、存外に楽しい。
やがて夕暮れが近づき、クララは家に帰っていった。母さんも「ライムのおかげで助かったよ!」と上機嫌で夕飯の支度に戻っていく。
一人、店に残った俺は、綺麗に整理し直した帳簿の束を眺めた。
「ふふふ……これで、うちの店の経済状況は丸裸だ」
薪代、食材費、酒代……。
父さんを説得するための「具体的な数字」は、すべてこの手の中にあった。




