## 79話 水と酵母と老舗の悩み
## 79話 水と酵母と老舗の悩み
「まずは『水』からじゃな」
ヤブタさんが、蔵の奥の扉を押し開けた。
建物の脇、小さな中庭のような場所に出ると、真ん中に石で囲った井戸がどんと座っていた。
「ここが、うちの水の取り口じゃ」
ヤブタさんが、井戸の縁に手を置く。
「ノール川の支流から伏せてある水脈を、この井戸まで引いとる。山からの水も混ざっとるでな。冷たくて、少し硬い」
桶で水を汲み上げると、自分の手の甲にかけて、残りをひしゃくに移した。
「触ってみい」
「わぁ、冷たい」
クララが目を丸くする。
俺も指先を浸してみる。
〈普通の井戸水より、どこか『キリッとしてる』感じだ〉
「冬と夏じゃ味も違う。雨の年とからからの年でも、匂いが変わる」
ヤブタさんは、当たり前のように続ける。
「水は『材料』やなくて、『土地そのもの』じゃ。
よそへ蔵を移したら、同じやり方をしても同じ酒にはならん」
〈水の質って、レシピじゃなくて『立地のスペック』なんだろうな。もし将来、新しい工場をどこかに建てようとしたら、それだけで味が変わる〉
「さて。次は――酵母じゃ」
ヤブタさんが、また蔵の中へと戻っていく。
――
仕込み場からさらに奥に入った、小さな部屋。
人が数人入るといっぱいになりそうな空間に、壺や小さめの樽がぎっしり並んでいた。
「ここが、『酵母の部屋』じゃ」
ヤブタさんが、小樽の蓋をほんの少しだけ開ける。
ふわりと、さっき発酵槽からかいだ匂いよりも、濃くて複雑な香りが漂ってきた。
「代々、継ぎ足し継ぎ足しで守ってきた『うちの菌』じゃ。
サント酒造の味は、こいつらの仕事じゃ」
「へぇ……継ぎ足ししてずっと」
ベック爺さんが、うなずきながら言う。
「サントの香りはのう、この酵母と水があってこそじゃ。
それにヤブタの頑固さが混ざって、今の味になっとる」
「ベック、お前は余計なことを言うな」
ぶっきらぼうに言いながらも、ヤブタさんの口元は少し緩んでいた。
〈水と酵母。この2つを押さえてる時点で、『ここでしか作れないエール』になってる〉
「よし。ひとまず、見せるところは見せたじゃろう」
ヤブタさんが、ぽんと手を叩く。
「続きは座って話そうか。喉も乾いたじゃろ」
――
蔵の一角に、簡単なテーブルと椅子が並んだ小さなスペースがあった。
ガレンさんが、そこで木のコップを用意してくれる。
「大人の方には、エールを少しだけ。
子どもたちには、麦茶です。エールの香りだけ、ちょっと嗅いでみてください」
「ありがとうございます」
クララとテトと俺は麦茶を受け取りつつ、エールの入ったコップを手元に寄せて匂いだけ楽しむ。
さっき樽でかいだ香りより、少し丸くなっていて、柔らかい。
軽い世間話がひとしきり続いて、場が少し和んだころ。
俺は、前から気になっていたことを切り出すことにした。
「あの……」
自然と、声が真面目になる。
「さっき、門のところで……ちょっとだけ、聞こえちゃって」
「……ああ」
ガレンさんは、苦笑いを浮かべてうなずいた。
「聞かれてしまったものは、仕方ないですね」
木のコップを両手で包み込むように持ちながら、ゆっくり話し始める。
「先代の頃に、一度大きな投資をしたんです。
樽を新しくしたり、水車を直したり。
蔵も少し増築しました」
「そのときは、まだ『攻め時』だと思ってたんですよ」
ガレンさんは、視線を少し遠くにやる。
「でも、そのあとで――領都エステルに、大きな酒造がいくつもできて。
値段でも量でも、とても勝てなくなってきました」
〈やっぱり、そこか〉
「こっちが売り先を増やす前に、向こうの酒がどんどん入ってきてしまって。
それでも、長く働いてくれた人たちを、すぐには切れなくて……
『もう少し頑張れば』と、少しずつ先延ばしにしているうちに、じわじわと苦しくなっていきました」
「わしがな」
ヤブタさんが、ぽつりと言葉を継いだ。
「『手を抜くくらいなら、店を畳んだほうがましじゃ』と、ずっと言ってきてしもうてな」
静かな声だった。
「味を落とすくらいなら、量を減らせ。
値段を下げて安酒にするくらいなら、売る先を絞れ。
……そう言い続けてきた」
「その結果、今みたいな状況になっていることは分かっているんです」
〈完全に『味と誇り』に全振りしてきたタイプだ。ビジネスとしては危ないけど、ブランドとしてはむしろ強い〉
クララが、もう一度エールの香りをかいで、素直な声を漏らした。
「ねえ、ガレンさん」
「はい?」
「わたし、このエールの匂い、本当に好きだよ。
さっきから、ここにいると落ち着く」
「……そうですか」
ガレンさんの目元が、少し緩む。
テトも、真面目な顔で言葉を足した。
「炎の鍋亭でも使われてるよね? なくなったら、嫌だな」
その一言に、ガレンさんは、ほんの少し救われたような表情をした。
「ありがとうございます」
小さな声だったけれど、ちゃんとした礼の声だった。
「俺は――」
そこで、俺も口を開いた。
「今日、見学してみて、ここでしかできないことなんだなって分かりました。
昔から『これがサントの味だ』って信じて、一生懸命守ってきたんだなって」
一度、息を整えてから続ける。
「炎の夜明け商会として、ライムいち個人として、この味がなくなっちゃうのは嫌です。
『どうしたらこの蔵がもっと楽になるか』は、ちゃんと考えてみたいです」
「……楽に、ですか」
ガレンさんが、少し驚いたように目を瞬かせる。
「はい。
借金のことも、エステルの酒造との競争も、すぐにどうにかなる話じゃないってのは分かってます。
でも、『この味』と『サント酒造』って名前を守ったまま、立て直す方法がないか――それは探ってみたいと思ってます」
ヤブタさんも、俺の顔をじっと見ていた。
「生意気なことを言ってるのは分かってます。
だから、まずは『約束』だけ」
俺はきちんと頭を下げた。
「今日、見せてもらったことを全部踏まえて。
炎の夜明け商会として、何ができるかを考えます」
少しの間、静かな時間が流れる。
それから、ヤブタさんがふっと鼻で笑った。
「……まあ、『考えるだけ』ならタダじゃからな」
「親父」
ガレンさんが、呆れたように笑う。
「ええじゃろうが。
わしらだけで抱え込んで、ここまで来てしもうたんじゃ。
たまには、外から来たやつの目ってのも、悪くない」
「ありがとうございます」
――
それからもう少し蔵の話を聞いて、見学はひと段落した。
「よし。今日はここまでじゃな」
ヤブタさんが、立ち上がりながら言う。
蔵の外に出て、馬車のところまで戻ろうとしたところで、俺は前から決めていたことを切り出した。
「あの、ヤブタさん」
「なんじゃ」
「今度、俺が作ってる『新しい酒』を持ってきてもいいですか?」
ヤブタさんの眉が、ぴくりと動く。
「エールを蒸留して作った、『ウイスキー』って酒なんです。
まだ試作ですけど……ちゃんと、『酒として』飲んでもらいたくて」
「ふん」
ヤブタさんは、鼻を鳴らした。
「自信があるなら持ってこい。
わしの舌は厳しいぞ」
「はい。そのつもりで持ってきます」
「わしも楽しみにしとるぞい」
ベック爺さんが、にかっと笑う。
門のところで、ガレンさんがもう一度頭を下げた。
「今日はありがとうございました。
また、いつでも来てください」
「はい!」
「ありがとうございました!」
クララとテトも大きな声で礼を言う。
俺たちは馬車に乗り込み、サント酒造をあとにした。




