## 45話 豪農の家で初めての外泊
## 45話 豪農の家で初めての外泊
テトの実家に着いたのは、太陽が西に傾き始めた15時過ぎくらいだった。馬車を降りると、あたり一面に、干した藁と土の匂いが広がっている。
テトは慣れた足取りで土間に続く戸をガラリと開け放つと、いきなり大声を張り上げた。
「かあさーん! いるー?」
奥の方から、ぱたぱたと足音が近づいてくる。
「はいはい、いるわよ……あら、テトね! おかえりなさい。元気そうね」
出てきたのは、エプロン姿のふくよかな女性だった。顔立ちはテトによく似ているが、柔らかい目元と、包み込むような笑顔が印象的だ。
「うん、よくしてもらってるからね! 父さん、いる?」
「いるわよ。テト、お客さんを居間に案内して」
そう言って、テトの母さんは、俺たちに軽く会釈をする。
「ええと、サラさんとライム君ね? どうぞ中へ」
「お邪魔します」
母さんがぺこりと頭を下げる。俺も、それにならって小さく会釈した。
〈田舎の農家のお宅訪問……わくわくが止まらないぜ〉
玄関から続く土間には、木製の農具がきれいに立てかけられていた。鍬や鋤、それに馬具らしい革の道具が、手入れされた状態で並んでいる。土間の奥には、大きなかまどと、煮込み用らしい鉄鍋。吊るされた干し玉ねぎとニンジン、梁には天井から吊るされたハーブや干し肉――生活と仕事が一体化したような空間だった。
板張りの一段高くなったところが居間になっている。真ん中には、がっしりした木のテーブルと長椅子。壁際には、年季の入った戸棚と、素朴だが座り心地の良さそうな椅子が2脚。大きな窓からは畑と、遠くの丘まで一望でき、午後の光が斜めに差し込んでいた。
そのテーブルの一番奥には、日焼けした肌にがっしりした肩をした男が座っていた。顔立ちはテトによく似ていて、目尻にたくさんの笑い皺が刻まれている。
「父さん!」
テトが嬉しそうに声を上げる。
男はゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返った。
「テト、おかえり。元気そうだな。手紙は読んだぞ。……こちらが?」
穏やかな声だが、落ち着きと、商売人の目つきが混ざった感じだ。
「うん、みんなに良くしてもらってるからね!」
テトはそこで一息ついて、俺たちの方へ手を向けた。
「こちらは、俺がお世話になっている炎の鍋亭の奥様で、サラさん。こっちはその息子さんで、俺のこれからの新しい上司のライムだよ」
「この子が……上司?」
テトの母さんが、思わずといった様子で俺を見た。
「えぇと、サラさん、ライムさん……いつも息子がお世話になっています」
テトの父さんと母さんは、「上司」という単語が頭の中でうまく処理できていないらしく、ちらりと互いに目配せをしている。
〈だよなぁ。いきなり『5歳児が上司です』って言われても困るよな〉
俺は一歩前に出て、できるだけ落ち着いた声で口を開いた。
「はい、テトさんには、いつも本当にお世話になっています。父からも、感謝していると必ずお伝えするように言われてきました」
そう言って、俺は事前に包んでおいた布包みを取り出す。
「こちらは街のお土産です。皆さんで召し上がってください」
テトの父さんが、少し戸惑いながらも、その包みを両手で受け取った。
「え、ええ……ご丁寧に、どうもありがとうございます」
〈なんか、久々に『5歳児がきっちり挨拶して、大人が面食らう』シーンを見た気がするな〉
テトの父さんは、包みをそっとテーブルの端に置くと、少し真面目な顔になる。
「うちのテトは……ご迷惑をかけていませんか?」
先に口を開いたのは、母さんだった。普段の豪快な声より、少しだけトーンを落として、きちんとした言葉を選んでいる。
「夫に代わり、感謝申し上げます。テトは本当に真面目で、気配りのできるいい子です。自分は人より時間がかかるからって、朝早くから店の仕込みを手伝ってくれたり、頼んでもいないのに掃除をしてくれたり……本当に助かっていますよ」
〈母さんって、こんな話し方もできるんだな。
そして意外にも――いや、失礼か――ちゃんと人を見てるよな〉
テトの母さんは、胸に手を当てるようにして、ぱっと表情を明るくした。
「ありがとうございます!」
テトの父さんも、ほっとしたように息をつく。
「本当であれば、私たちの方から伺わなければならないのに、わざわざありがとうございます。また、ヤトもご厄介になるみたいで……」
「はい」
俺は、姿勢を正してテトの両親を見る。
「うちの店で、新しい仕事を始めるので、お二人の力を貸してください」
そこから俺は、洗い屋の配達代行と「ランチボックス作戦」、そしてテトとヤトの2人が俺の指揮下に入る形になることを、丁寧に説明した。
テトの父さんは、時々質問を挟みながら、真剣な顔で聞いていた。
「ですので、本日は……馬も受け取りに来ました」
そう締めくくると、居間の空気が一瞬止まった気がした。
テトの父さんと母さんは、ほとんど同時に俺の顔を見て、また互いに視線を交わす。「本当に5歳なのか?」と、目がはっきり物語っていた。
「え、ええ。馬はもちろん用意してありますが……本当にお代をいただいてもいいのですか? うちとしては、無償でお譲りしても構わないのですが」
「はい」
俺は、その申し出に深く頭を下げつつも、はっきりと首を振った。
「これからさらに、馬が必要になることもありますので、そこはしっかりしておきたいんです。きちんとお代を払って、『買う』という形にしておきたい。必要になったら、その時はまたお願いします!」
テトの父さんの目が、少しだけ細くなる。俺の言葉の裏にある「長く続く取引関係」を、きちんと理解した顔だ。
「……わかりました。その時は、何頭でもいいので声をかけてくださいね」
そこで、母さんが懐から小さな革袋を取り出した。
「約束の、銀貨50枚です。確認してください」
母さんが、いつもの調子を取り戻したように笑った。
「ライムは5歳だけど、とんでもない子よ。だから大丈夫! それに、何かあっても、うちの亭主が必ず責任を取るわ。安心しなさい!」
テトの父さんと母さんは、またしても顔を見合わせる。だが今度は、困惑よりも、どこか肩の力が抜けたような笑いが混ざっていた。
いつもの豪快な母さんの締め言葉に、テトの父さんも母さんも、ようやく本当に安心したようだ。
「せっかくだし、馬も見ていってくれ」
そう言って、テトの父さん――カトさんは、外の馬小屋へ案内してくれた。
外に出ると、畑一面が夕方の光に染まっている。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
〈教科書で見たような『ヨーロッパの農村風景』ってやつだよな、これ〉
小屋の中には、選んでおいてくれたという栗毛の馬がいた。落ち着いた目をした、少し年季の入った馬だが、四肢はしっかりしている。
「この子なら、荷馬車用にちょうどいい。多少年は食ってるが、その分、気性はだいぶ丸くなってる」
カトさんが、やさしく馬の首を撫でる。
「テトもこの子には乗り慣れてるしな。御者を任せるには、いい相棒だろう」
「おお……」
〈なるほど、馬にも性格みたいなのがあるのか〉
しばらく馬小屋で馬の様子を見せてもらい、そのまま畑の端まで案内してもらった。畑の向こうには、豚小屋と鶏小屋がある。豚が泥の中で気持ちよさそうに寝そべり、鶏が忙しなく地面をつついている。
「うちはな、小麦と大麦が主だ」
歩きながら、カトさんが教えてくれる。
「あとは玉ねぎにニンジン、ジャガイモ。葉物はキャベツを多めに作ってる。馬は……見ての通り、何頭か繁殖用と荷役用。子馬は街や領都に売るんだ。豚と鶏は、家で食べる分と、余ったら市場に出す」
「すごい……」
〈小麦と大麦、根菜、キャベツに家畜。
完全に『古典的な混合農業』ってやつだ……!〉
「ライム、そんなに珍しいか?」
テトが、横で不思議そうな顔をしている。
「うん。俺の前の世界ではさ……いや、なんでもない」
あやうく言っちゃいけないことを口走りそうになり、慌ててごまかした。
「こんだけ作物があると、収穫の時期とか、管理が大変じゃないですか?」
俺がそう聞くと、カトさんは少しだけ得意げに笑った。
「だからこそだよ。全部一度に獲れたら、保管も人手も足りなくなる。時期をずらして収穫できるように畑を分けて、品種も少しずつ変えてる。それに、馬と豚と鶏の糞も、畑に戻してやらんといかん。土が痩せちまうからな」
「ふむふむ……」
〈こういうのを、前の世界じゃ『うまく回ってる農業』って呼んでたんだよな〉
夕方になり、空がオレンジ色に染まり始めたころ、俺たちは居間に戻った。テーブルの上には、大きな皿が次々と並べられていく。
煮込まれたジャガイモと玉ねぎのシチュー。こんがり焼いた豚肉に、千切りキャベツを添えた皿。焼きたての大麦パンと、ゆで卵、ニンジンと葉物の酢漬け。
「わぁ……!」
母さんが、心底嬉しそうな声を上げた。
「すごいわ、この『畑のごちそう』って感じ! こういうの、店でも出したくなるわ!」
「お口に合うといいんですけど」
テトの母さんが、少し照れくさそうに笑う。
皆で「いただきます」と手を合わせ、夕食が始まった。
「おいしい……」
素直にそうこぼすと、テトの母さんの顔がぱっと明るくなった。
「よかったぁ。これはうちの畑のジャガイモと玉ねぎなのよ」
「テトの実家の野菜、うちの店でも使いたくなるわね」
「ライム?」
黙り込んでいた俺を見て、テトが首をかしげる。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「また、なんかすごいこと考えてるな?」
「さあ、どうかしらね」
母さんが笑いながら、俺の頭をくしゃっと撫でた。
「ライムはね、こうやって人の話をいっぱい聞いて、あとから急に『いいこと思いついた!』って言い出すのよ」
「ははは。それは将来が楽しみだな」
カトさんが、穏やかに笑う。
食後には、俺たちがお土産に持ってきたお菓子と、テトの家で採れたハーブを使ったお茶が出された。甘い焼き菓子と、素朴なハーブの香りが意外とよく合う。
窓の外は、いつの間にか真っ暗になっていた。満天の星と、遠くで鳴く虫の声。街の喧騒とはまったく違う、静かな夜だ。
その夜、俺はテトの部屋の隅に置かれた簡素なベッドに潜り込んだ。藁を詰めたマットレスから、ほんのりと乾いた草の匂いがする。
「なあ、ライム坊」
隣のベッドから、テトの声が聞こえた。
「ん?」
「ありがとな。馬のことも、ヤトのこともさ。俺、実家にはあんまりいい顔して帰れなかったんだけど……今日は胸張って帰って来れた気がする」
暗闇の中で、天井を見上げながら答える。
「こっちこそ、ありがとう。テトがいなかったら、この計画は始まってないからな」
しばらく、二人とも黙る。外からは、遠くの馬のいななきと、風に揺れる木々の音だけが聞こえていた。
〈……こういう夜も、悪くないな〉
そして、俺の人生で初めての外泊は、ゆっくりと夜が更けるのに任せるのであった。




