日常のワンシーン
トウマは、アシェの研究棟がある庭先で、ビャクレンと並んで座禅を組んでいた。
互いに向かい合い、距離は五メートルもない。
トウマは涼しい顔だが、ビャクレンは汗を流し、呼吸が乱れていた。
「──そこまでだ」
「っ」
トウマが言うと、ビャクレンは肩で息をして前のめりになる。
「二十七回、お前は死んだ」
「……はい」
「わかるか?」
「ええ。師匠の殺気で、斬られました」
ただの座禅ではなかった。
座禅を組み、心を無にし、無のままで『殺気』を放つという矛盾の修行……ビャクレンはトウマの殺気が読めたが、心を無にした状態で、殺気の放つ斬撃を回避できなかった。
「俺の気を読み、身体を動かして回避する……実際に身体を動かすんじゃない、お前の『気』が回避に反応できるかどうかを見たが、まだまだ甘い」
「……はい」
「実際に汗を流し、身体を鍛える修行だけが全てじゃない。心を座し、体内の気を巡らせ、いかなる事象にも対処できるようになる……先読みも容易になる」
「なるほど……さすが師匠でございます」
ビャクレンは正座のまま首を垂れる。
すると、母屋の方からメイドのルーシェがやってきた。
ティーカートを押し、朝食を運んできてくれたようだ。
「朝から精が出るね、トウマ」
「おうルーシェ。朝飯か?」
「うん。アシェは……まだ作業中?」
「らしいな。昨日もグラファイトのところから帰ってずっと、部屋でマギアいじりしてたぞ」
アシェの『イフリート』は、枢機卿との戦いで壊れてしまった。
現在、急ピッチで修理をしており、食事や睡眠の時間も削っているようだ。
ルーシェは、ティーカートを押してトウマたちの元へ。
カートの上にあったカゴを開けると、色とりどりのサンドイッチが並んでいた。
「ここで食べちゃう?」
「いいね。ビャクレン、メシにしよう」
「はい、師匠」
さっそく、おしぼりで手を拭き、サンドイッチを食べる。
ビャクレンは、サンドイッチを頬張るたびに幸せそうな笑みを浮かべていた。
ルーシェは、クスっと微笑む。
「美味しそうに食べるね。なんだかこっちも嬉しくなるよ」
「はい。月では合成ゼリーが主な食事なので」
「なんだ、そりゃ?」
「完全栄養食品です。生命維持に必要な栄養素を全て混ぜ合わせたゼリーで、ひとつ食べるとお腹の中で膨れて、その日はもう食事の必要がなくなります。味がしないので、地上の食べ物は刺激的ですね」
「……微妙に興味あるな、それ」
ビャクレンは「食べますか?」と、懐から白いパックを取り出し、中にある白い指先ほどのグニャグニャした球体をトウマに見せた。
トウマ、ルーシェは顔を見合わせる。
「ど、どうする?」
「なんか怖いけど……トウマ、どうぞ」
「……よ、よし」
トウマは、意を決してゼリーを口の中へ。
そのまま飲み込んで数分経過すると。
「……あれ、なんか満足感が」
「お腹の中で膨れたみたいですね。今日はもう、食事の必要はありませんよ」
「……変な感じするな。まあ、いっか」
お茶は飲めたので、ルーシェの淹れた紅茶を飲む。
残りのサンドイッチは全部、ビャクレンが食べた。
それから、しばし三人でお茶を楽しむ。
「ねえねえ、月ってどんなところ? そもそも、どうやって来たの?」
ルーシェは、ビャクレンが月の民であることを疑わなかった。むしろ興味津々といった感じで、恐れることなく質問する。
ビャクレンも、師であるトウマと同じ人種である人間の接し方ががらりと変わり、誰にでも丁寧な態度になっていた。
「月は、そこまでいいところじゃありませんね。宇宙空間では呼吸ができませんし、食事の大半は完全栄養食品ですし。ムーンベースには娯楽がありませんし、月面には危険しかありません」
「ムーンベース……?」
「月の民が住む街です。町といっても、住居があるだけで、地上みたいに娯楽があるわけじゃありません。月詠教の管理がないと、月の民は生きていけないんです」
紅茶を飲み干すと、ルーシェがおかわりを二人に注いだ。
「月詠教が地上を目指すのは、月神イシュテルテ様のご命令の他に、新天地を求めるって意味もあるんですよ」
「新天地……地上が?」
「ええ。皆さんには当たり前ですけど……」
ビャクレンは周囲を見渡し、羨ましそうに言う。
「綺麗な緑の植物、柔らかな香りを運ぶ風、青い空、白い雲、見たことのない生物、地形の変化……月にはありません。月には平坦でゴツゴツした陸地、触れるだけで病魔に侵される『月晶石』や、ドームから出れば呼吸ができずにすぐ死ぬ。魔獣なんていないし、動物もいない……ただ、月詠教の庇護下じゃないと生きていけない」
「「…………」」
「おっと。これ以上言うと『執行者』が来ちゃいますね。『新月』様の執行者は、私たちにすら遠慮なく殺しにかかりますから」
ビャクレンは苦笑する。
トウマは言う。
「なあ、月光の三聖女だっけ……そいつら、生きてるのか?」
「……その意味、私も聞きたかったです。なんでそことを?」
「二千年前、俺が殺したからだよ。後釜ができたのか?」
「私も、天照十二月に任命されたのが千五百年くらい前なのでよくわかりませんが……外見的なことで言えば、私や師匠と代わりないですよ」
「うーん。まあいいか。二代目ってことで」
すると、研究棟のドアが開き、フラフラしたアシェが出てきた。
「修理おわり~……ルーシェ、水飲みたい。お腹もへった~……」
「あ、アシェのこと忘れてたわ。アシェ、こっちで食べちゃいなよ」
「ん。あれ、トウマに……ビャクレン」
アシェは座り、サンドイッチをモグモグ食べ、紅茶を豪快に啜った。
「あー疲れた。新学期に間に合ったわ」
「新学期……ああ、学園だっけ」
「そうよ。明後日から再開になったからね……あー、間に合ってよかった」
「なあなあ、地の国の通行許可証」
「わかってる。マールにお願いして、カトライアからもらうよう言っておく」
「……お前が言わないのか?」
「……苦手なのよ、カトライア」
アシェがそれだけ言い、大きな欠伸をした。
「ふぁ……とりあえずトウマ、地の国に行くの、少し待ってて。お父様もアンタと話をしたいって言ってたし……」
「わかった。じゃあ、王都観光でもすっかな。ビャクレン、行くか?」
「お供します」
「……ルーシェ、アンタ案内してあげて」
「はいはい。ちゃんと見張っておきますよん。気になるもんね~」
「そうじゃないし!! ったく……」
こうして、トウマたちはしばらく、王都に滞在することになった。