第八章:首都の波紋、英雄の功罪
星々の海を駆けた傷だらけの翼は、数多の犠牲と引き換えに掴んだ生還という証をその身に刻みつけ、ようやく束の間の休息を得るべく、母港へとその姿を現した。リベルタス共和国連合の首都、自由首都フリーダムポート。その名は圧政からの解放と未来への希望を象徴するはずであったが、ソフィ率いる第8高速機動戦隊の旗艦『アルテミス』とその僚艦たちが、カストルの死線を越えて巨大な宇宙港のドックに滑り込んだ時、彼女たちを待ち受けていたのは安らぎとは程遠い、熱狂という名の、もう一つの巨大な嵐であった。
フリーダムポートの広大な港湾施設は、かつてないほどの人波で埋め尽くされていた。老若男女、様々な出自の人々が、歴史的瞬間を目撃せんと、あるいは新たな英雄を一目見んと、色とりどりの衣服を纏い、固唾を飲んで帰還を待ちわびていた。彼らの手には「少佐!」「紅き流星!」「連合の女神!」などと熱いメッセージが躍る電子プラカードや連合の星条旗が振られている。その数、数十万か。彼らの期待と興奮の熱気が、ドーム全体を巨大な圧力釜のように満たしていた。
「紅き流星」――その鮮烈な異名は、カストル宙域で救助された兵士たちが絶望の中で見た真紅の艦影とその神業に畏敬の念を込めて囁き始めたものだった。そして、その噂はフリーダムポートに帰還した一人の勇敢な従軍記者の手によって瞬く間に連合全土へと駆け巡った。記者は入手した断片的な戦闘記録映像と生還者の劇的な証言を組み合わせ、『戦場を駆ける紅き流星、ソフィア・ベルナルド少佐! 民衆の希望、ここに誕生!』というセンセーショナルな見出しで報じたのだ。長引く戦争と「永き黄昏」の閉塞感に疲弊していた民衆は、この労働者階級出身の若き女性英雄の登場に渇望していた希望の光を見出し、熱狂的に彼女の名を呼び始めたのである。
『アルテミス』が、美しい真紅の艦体に無数の痛々しい傷跡を刻みながら、ゆっくりと着艦シーケンスに入る。その姿は先の死闘の激しさを雄弁に物語っていた。だが民衆にとってその傷跡は栄光の勲章に見えたのかもしれない。艦が完全に静止した瞬間、港湾施設全体が割れんばかりの地鳴りのような大歓声に包まれた。
「ソフィーッ!」「流星! 流星!」「連合万歳! 我らの女神!」
無数の声援が波のように押し寄せ、ドームの天井を揺るがす。色とりどりの電子紙吹雪が舞い落ち、報道ドローンが飛び交う。それはまるで神話の英雄の凱旋を祝う古代の祭りのような、熱狂的な光景であった。
『アルテミス』のブリッジでは、ソフィとクルーたちが舷窓越しにその異様な光景を呆然と見つめていた。カストルの地獄から生還したばかりの彼らにとって、この場違いな歓迎は現実感を欠いていた。
「…なんだい、これは…? まるで、お祭りじゃないか…」
ソフィは戸惑いを隠せずに呟いた。彼女の顔には当惑と、状況への僅かな不快感が入り混じっていた。自分が成し遂げたことは仲間を救おうとした結果に過ぎない。多くの仲間が死に、自分たちも満身創痍だ。なのにこの熱狂は何だ? 彼らは一体自分に何を期待しているのだろう? 彼女は自分の行動と民衆の反応との間に大きな隔たりを感じていた。
「…少佐。あなたは、今やこの連合で最も有名な軍人であり、多くの人々の希望の象徴となってしまわれたのです」
傍らに立つラサール艦長が静かに言った。彼はソフィの心情を理解し、この過剰な熱狂が彼女を傷つけ、利用しようとする者たちの的になることを懸念していた。「報道が、あなたの伝説を急速に広めています。ですが、今は…今は、彼らの声に応えるのが、我々生き残った者の務め、なのかもしれません」
ソフィは力なく頷いた。生き残った者としての責任がある。彼女は深く息を吸い込み、戦闘服の乱れを直し、指揮官としての仮面をつけようとした。だが胸の内には、これから始まるであろう、戦場とは異なる複雑な戦いへの重い予感が渦巻いていた。
タラップが降ろされ、ソフィがラサールと共に艦外へ足を踏み出す。歓声はさらに大きくなり、無数のフラッシュが彼女の目を眩ませた。待ち構えていた軍高官や政府関係者が作り笑顔で歩み寄り、握手を求めてくる。彼らの手には計算高さや政治的な思惑が潜んでいるように感じられた。
連合政府はこの国民的熱狂を利用すべく、盛大な凱旋パレードを用意していた。ソフィは半ば強制的にオープンカーに乗せられ、メインストリートを進む。沿道は市民で埋め尽くされ、歓声が津波のように押し寄せた。「ソフィ!」「紅き流星!」。その声援は純粋な感謝に満ちていたが、ソフィには期待という名の重い鎖のように感じられた。英雄という名の檻。彼女は深い孤独を感じていた。
「…なんだか、自分が自分でないみたいだよ、ジャン…」ソフィは小さな声で呟いた。
ラサールは彼女の肩に手を置き励ました。「無理もありません。ですが、あなたの存在が今、多くの人々に勇気と希望を与えていることは事実です。今は、胸を張っていてください」彼の瞳には彼女への同情と、彼女が背負う重荷への暗い予感が宿っていた。
パレードの後、ソフィは連合軍最高司令部へと出頭を命じられた。司令部ビル内部は歓迎ムードとは対照的に、冷たく厳粛な空気に支配されていた。彼女を迎えたのは統合軍総司令官マードック元帥。歴戦の勇士だが厳格な規律主義者でもある。彼の執務室は豪華だが人間的な温かみはなかった。
マードック元帥は形式的な労いの言葉を述べた。「ソフィア・ベルナルド少佐、カストルでの君の勇敢な行動は多くの兵士の命を救った。功績は称賛に値する」彼の声は低く重々しかったが、表情は硬く瞳には鋭い光が宿っていた。「しかしだ」彼は続けた。「君の行動は同時に重大な軍規違反でもある。司令部の命令を無視し独断で戦闘を開始した。結果的に多くの命が救われたとはいえ、その行為そのものが軍隊の規律と秩序を根底から揺るがしかねない極めて危険な前例となることを、君は理解しているかね?」
ソフィは元帥の目を真っ直ぐ見返し毅然と答えた。「元帥閣下。私はあの状況下で、仲間を見殺しにすることこそが軍人として、いや人間として許されざる罪だと判断いたしました。規律は重要です。しかしその規律が守るべき命を奪う結果を招くのであれば、私は迷わず命を選びます」
「ほう…」マードック元帥は僅かに眉を動かした。「君は自分の判断が常に正しいと信じているようだな。だが軍隊とは個人の感情や判断で動くものではない。全体の秩序と統制こそが力の源泉なのだ。君のような型破りで感情的な指揮官の存在は、時に組織にとって劇薬となりうるが、同時に制御不能な毒にもなりうる」彼の言葉は軍という組織の論理そのものであった。
元帥はさらに続けた。「今回の件については軍法会議にはかけぬ。君の功績と、そして…民衆の熱狂ぶりを考慮すれば、それは賢明ではあるまい。よって、軍規に基づき、君を中佐へと昇進させる。これは、君の戦功に対する正式な評価だ」
ソフィは予想外の言葉に僅かに目を見開いた。
だが、元帥は冷ややかに付け加えた。「しかし、勘違いするな、中佐。これは、君の独断専行を軍が認めたわけではない。むしろ、君が図らずも手にしてしまったその過大な影響力――特に民衆に対する――を考えれば、より厳格な監視下に置く必要があると判断した結果だ。よって、君には当面、地上での待機を命じる。同時に、厳重な査問委員会を設置し、カストルでの君の行動、判断、その全てについて、詳細かつ徹底的な調査を行う。その間、君に新たな艦隊指揮権や自由な行動は一切認められん。軍人としての自覚と、何よりも規律の重要性を、改めてその身に叩き込んでもらいたい。よろしいな?」
それは昇進という名の、実質的な謹慎処分であった。英雄として祭り上げられながら、組織の中枢からは危険分子として警戒され、冷遇される。ソフィはその理不尽さに唇を噛み締めた。だが感情的になることが立場を悪くすると知り、「…承知いたしました」と短く答え敬礼し、執務室を後にした。背中に元帥の冷たい視線を感じながら。
司令部の廊下を歩きながらソフィは深い溜息をついた。戦場で敵と戦う方がよほど単純だ。この組織内の嫉妬や保身、権力闘争の方がよほど陰湿で厄介だ。彼女の心は鉛のように重く沈んでいた。
その日の午後、ソフィは最高評議会へと召喚された。議場は荘厳な雰囲気で、議長アダムスが満面の笑みで迎えた。彼はソフィの手を両手で握りしめ、大げさな賛辞を述べた。「おお、ソフィア・ベルナルド中佐! 連合の英雄よ! 君の帰還を心から歓迎する! 君の勇気と活躍は我々全てに希望の光を与えてくれた! まさに民衆の中から現れた真の英雄だ!」
アダムスの言葉は滑らかだったが、その瞳には計算高い政治家の冷めた光が宿っていた。彼はソフィの人気を自身の政治基盤強化に利用しようとしていた。
評議会はソフィに最高の名誉「自由勲章」を授与すると告げた。そして盛大な授与式や各地での記念式典、メディア出演など様々な「公務」が予定されていると伝えた。それは表向きは英雄への称賛だが、実質的には彼女を政治的なプロパガンダの道具として利用しようという意図の表れであった。ソフィは内心で強い嫌悪感を覚えながらも、その役割を受け入れざるを得ないと悟り、「…身に余る光栄です」と儀礼的な笑顔で答えるしかなかった。
評議会からの帰り道、ソフィは付き添っていたラサールにぽつりと漏らした。「…疲れたよ、ジャン。戦場で死ぬ方がまだマシかもしれない…」
ラサールは痛ましげな表情で彼女を見つめた。「…お察しいたします。ですが今は耐える時です、中佐。あなたは大きな力を持ってしまった。その力をどう使うか…あるいはどう使わせないかが、これからの戦いになるでしょう」
「戦い…か」ソフィは自嘲するように呟いた。敵はもはや帝政軍だけではない。自分たちの内部にも見えない敵がいる。そして自分自身の中にも…。
その夜、ソフィは公式レセプションや取材依頼を全て断り、一人基地内の自室に閉じこもった。質素な部屋。壁には故郷と両親の写真。彼女はベッドに倒れ込み天井をぼんやりと見つめた。民衆の歓声、軍上層部の冷たい視線、政治家の笑顔、そしてカストルで散った仲間たちの顔が次々と浮かぶ。
自分は何のために戦ったのだろう? 仲間を救うため? 自由を守るため? それは価値があったのか? それとも利用される駒になっただけか? 英雄とは何だ? 民衆が作り上げた虚像か? 重い責任と孤独を背負う生贄か?
答えの出ない問いが彼女を容赦なく苛む。カストルの戦場で感じた純粋な意志はこの首都の喧騒と複雑な人間関係の中で輝きを失うように感じられた。深い孤独感が冷たい霧のように心を覆う。このままでは、自分という人間が、この巨大な都市と人々の期待に飲み込まれて、消えてしまうのではないか――そんな漠然とした、しかし抗いがたい恐怖が、彼女を襲った。
だが彼女が完全に絶望に沈むことを許さなかったのは、仲間たちの存在だった。翌日、謹慎中の身ながら訓練施設へ足を運ぶと、カストルを共に生き延びた第8戦隊のクルーたちが集まっていた。彼らはソフィの姿を見つけると階級関係なく駆け寄ってきた。
「中佐! 大丈夫でしたか!?」
「昨日のパレード見ましたよ! さすが隊長!」
「でも無理しないでくださいね。ゆっくり休んで…」
彼らの言葉は飾り気なく素朴で、心からの心配と変わらぬ信頼に満ちていた。彼らにとってソフィは祭り上げられる英雄ではなく、共に死線を越えた仲間でありリーダーだった。
ソフィは彼らの笑顔に触れ、強張っていた心が少しずつ解きほぐされるのを感じた。彼女は彼らと共にシミュレーターに乗り込み模擬戦闘訓練を行った。そこには政治的な思惑も組織のしがらみもない。ただ互いの腕を信じ連携し敵を打ち破る喜びがあるだけだった。汗を流し冗談を言い合い競い合う。その時間はソフィにとって何物にも代えがたい心の安らぎを与えてくれた。だが、訓練が終われば、また息苦しい現実が待っている。彼女の葛藤は、まだ終わってはいなかった。英雄という仮面と、本当の自分との間で、彼女の心は揺れ動き続けていた。
さらに数日後、カストルで救助された第17駆逐隊の兵士たちが治療を終え基地に復帰し、ソフィに会いに来た。彼らは改めてソフィに深々と頭を下げ涙ながらに感謝の言葉を述べた。「あなたがいなければ私たちは生きてここにはいられませんでした」「あなたは私たちの命の恩人です」「紅き流星! あなたは連合の希望です!」。彼らの言葉には裏がなく、純粋な感謝と生き残った喜び、そしてソフィへの絶対的な信頼が込められていた。
ソフィは彼らの言葉を静かに真摯に受け止めた。そうだ、自分は彼らを生かすことができたのだ。多くの犠牲はあった。だがゼロではなかった。自分が行動したことには確かに意味があったのだ。だが、その意味の重さが、今の彼女には苦しいほどに感じられた。彼らの純粋な感謝が、かえって彼女の罪悪感――救えなかった命への――を刺激するかのようだった。
英雄という重荷。組織との軋轢。政治的な利用。そして、救えた命と救えなかった命への想い。それらが、首都フリーダムポートの喧騒の中で、ソフィの心を複雑に、そして深く揺さぶり続けていた。彼女が自らの進むべき道を明確に見出すには、まだ時間が必要であった。若き英雄の魂は、カストルの戦場とは異なる、静かだがより深刻な嵐の中で、次なる成長への試練に晒されていたのだ。