第四章:地獄への降臨、紅き閃光
時空の歪みが収束し、漆黒の宇宙に眩い光の点が弾ける。
リベルタス共和国連合が誇る精鋭、第8高速機動戦隊が、運命の座標、カストル宙域へとその姿を現した瞬間であった。
だが、彼らを待ち受けていたのは、予測された危険や困難といった生易しいものではなかった。
旗艦『アルテミス』のブリッジに据え付けられた巨大なパノラマ・メインスクリーンに映し出された光景は、彼らが持ちうる最悪の悪夢として想像し得たものを、遥かに、そして無慈悲に凌駕する、まさに地獄の縮図であった。
そこは、もはや戦場と呼ぶことすら憚られる、一方的な蹂躙と虐殺が行われる処刑場であった。
あるいは、星々そのものが断末魔の悲鳴を上げ、宇宙が血の涙を流しているかのような、絶望と死の色に染め上げられた煉獄の様相を呈していた。
リベルタス共和国連合の軍艦旗――自由の星を誇らしげに掲げていたはずの駆逐艦の残骸が、夥しい数、まるで打ち捨てられたブリキの玩具のように、虚空に静かに、そして無残に漂っている。
あるものは艦体を中央から巨大な獣に食いちぎられたかのように引き裂かれ、捻じ曲がった内部構造を宇宙空間に醜く晒し、あるものは内部からの連鎖的な爆発によって原型を留めぬほどに歪み、燃え滓となり、またあるものは、今もなお断末魔の苦しみのように赤い業火を虚空に噴き上げながら、力なく回転し、ゆっくりと死の淵へとその身を沈めていく。
かろうじて艦としての形を保ち、生き残っているように見えるものも、そのほとんどが船体の至る所に深い傷を負い、黒煙を吐き、満身創痍で、弱々しく姿勢制御スラスターを点滅させているに過ぎない。もはや戦闘能力はおろか、自力での航行さえも覚束ないように見えた。
そして、その絶望的な死の舞踏が繰り広げられる舞台の中心で、圧倒的な数の敵艦隊――黒地に髑髏と稲妻の禍々しい紋章を掲げたヴォルフガング・シュタイナーの私掠艦隊が、まるで飢えたハイエナの群れが瀕死のライオンに群がるかのように、あるいは、悪趣味な狩りの獲物を嬲ることに愉悦を見出すかのように、生き残った艦にとどめを刺さんと、容赦のない攻撃を執拗に続けていた。
不気味な緑色のレーザー光線が絶え間なく虚空を走り、ミサイルが白く長い不吉な曳光を描き、新たな爆発の閃光が、この死せる海を、一瞬だけ悪夢のようにオレンジ色に染め上げる。
それは、剥き出しの暴力による完全な支配と、抵抗する者への一切の慈悲を排した殲滅の意志を、そして何よりも、生命への冒涜とも言える冷酷さを、何よりも雄弁に物語る光景であった。
「…ひどい…これが…同じ星から生まれた、同じ人間のやることか…」
ブリッジの片隅で、若い女性オペレーターのエミリーが、かすれた、吐き出すような声で呟いた。彼女の顔は蒼白で、その瞳には涙が滲んでいる。それは、この惨状を目の当たりにした、ブリッジにいた全ての者の、言葉にならない怒りと嫌悪感、そして深い悲しみを代弁していた。
指揮官席に立つソフィもまた、その光景に一瞬、息を飲み、言葉を失っていた。彼女の顔からは血の気が引き、その大きな栗色の瞳は、信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、固まっている。彼女の豊かな想像力をもってしても、遥かに超えた惨状。計算された軍事作戦行動というよりは、ただ破壊と殺戮そのものを愉しむかのような、狂気の宴。
彼女の胸の奥底から、これまで感じたことのないほどの激しい、そして純粋な怒りが、熱い、灼熱の溶岩のように込み上げてくるのを、ソフィは感じていた。
「…なんてことを…! 許さない…絶対に、許さないッ!」
彼女の白い手が、指揮官席のアームレストを、指が食い込むほど強く握りしめ、微かに、しかし激しく震えた。
だが、彼女が義憤や感傷に浸り、あるいは個人的な怒りに身を任せることを許される時間は、一瞬たりともなかった。
敵艦隊の一部――おそらくは外周を固めていた警戒部隊であろう――が、突如としてこの宙域に出現した自分たち、第8高速機動戦隊という新たな「闖入者」の存在に気づき、その重々しい、しかし油断なく磨き上げられた艦首をゆっくりと、しかし確実にこちらへ向け始めていたのだ。
ブリッジのレーダーコンソールには、急速に接近してくる複数の敵影を示す赤い識別信号が、けたたましい警告音と共に次々と表示される。彼らにとって、新たな獲物が現れた、とでも言うのだろうか。あるいは、邪魔者を排除せんと、その牙を剥いたのか。
ソフィは、瞬き一つする間に、燃え盛る怒りの炎を、氷のように冷静な、しかしより鋭利で危険な輝きを宿す闘志へと昇華させていた。
彼女の天賦の才である、戦場における超人的な集中力と、まるで未来を予見するかのような状況判断能力が、極限状態の中で瞬時に覚醒したのだ。
彼女の頭脳は、この絶望的な、そして一刻の猶予もない状況下で、常人には到底考えも及ばぬ速度で回転を始める。
眼前の司令官用大型立体戦況ディスプレイに映し出される、敵味方の詳細な配置、複雑に漂うアステロイドの位置と予測軌道、敵艦隊の陣形とその僅かな乱れ、動きのパターン、そして味方(第17駆逐隊)のかろうじて残存している艦艇の位置と損傷状況…。
膨大な情報を瞬時に統合し、分析し、彼女は、ただ一つの、しかし、あまりにも大胆で、あまりにも常軌を逸した活路を見出した。
それは、分厚い絶望の闇の中に、まるで稲妻のように差し込んだ、一条の、狂気と紙一重の閃きであった。
「ラサール艦長! 全艦に通達!」
ソフィの声は、先ほどまでの怒りに打ち震えていた響きとは対照的に、氷のように冷たく、そして研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。それは、もはや感情に流される若き士官の声ではなく、艦隊の命運を一身に背負う指揮官としての、明確な、そして揺るぎない命令であった。
「これより、我が第8戦隊は、敵主力艦隊の中枢目掛け、最大戦速にて突撃する!」
「なっ…!? 少佐、本気ですか!?」
冷静沈着を常とするラサール艦長が、彼のキャリアの中でも珍しいであろう、素の驚愕の声を上げた。ブリッジにいた他の幕僚たちも、ソフィの言葉に耳を疑い、信じられないといった表情で、あるいは顔面蒼白になって彼女を見つめた。
「少佐! それは無謀です! 敵の防御が最も厚い場所、恐らくは敵将ヴォルフガング・シュタイナーの旗艦がいるであろう中枢へ、しかも我々のような少数、しかも戦闘準備も万全ではない部隊で飛び込むなど、それは…それは自殺行為に等しい! 犬死にです!」経験豊富な航海長が、声を震わせて叫んだ。
「罠です! 間違いなく我々をおびき寄せるための、敵の罠です! あまりにも危険すぎます!」戦術士官が、必死の形相で警告を発する。
「我々の戦力では、正面からの衝突は…全滅は必至です! どうか、ご再考を!」ラサールの副官が、懇願するように訴える。
反対と懸念の声が、次々と上がる。それは、長年の軍務経験と、戦場における合理的な判断、そして何よりも生き延びたいという生存本能に基づいた、あまりにも当然で、理性的な反応であった。
しかし、ソフィは、彼らの必死の訴えを、強い意志を宿した、燃えるような瞳で制した。彼女は、一歩も引かなかった。
「分かってる! 無謀なのも、危険なのも、死ぬかもしれないことも、百も承知だ!」
彼女は、ブリッジ中央の、広大な宇宙空間を精密に再現した立体星図へと歩み寄り、その発光する表面を指し示しながら、早口に、しかし一点の曇りもない確信に満ちた声で説明を始めた。
「だが、よく見て! この絶望的な状況を! 敵は、我々の突然の出現に一瞬動揺し、陣形を再編しようとしている。だが、その動きはまだ鈍い! なぜか? 彼らは油断しているからだ! まさか我々が、この圧倒的な戦力差の中、この状況で、真正面から、しかも一番危険で防御が固い彼らの心臓部、司令部機能があるであろう中央に突っ込んでくるなんて、夢にも思っていないはずだ!」
彼女の細い指が、敵艦隊の中枢部に位置する、ひときわ大きく、そして異様な威容を放つ艦影――間違いなくシュタイナーの旗艦であろう『アラクネ』を示す。さらに、その周囲で連携の乱れを見せる敵巡洋艦の動きを指し示した。
「ここを突く! 敵の思考の死角、常識の壁を突き破る! 意表を突き、大混乱を引き起こす! 奴らの計算を、予測を、傲慢なまでの勝利への確信を、根底から覆すんだ! その混乱の渦を作り出し、第17駆逐隊の生き残りを一人でも多く脱出させる! それが、我々に残された、唯一の、そして最後の道だ!」
彼女は、通信回線を通じて、不安げな表情を浮かべているであろう僚艦の老練な艦長――かつて彼女の亡き父と共に戦場を駆け、その背中を見てきたという、白髪のベテラン、オルセン艦長に、真っ直ぐな視線を送るかのように語りかけた。
「オルセン艦長、貴方の豊富な経験からすれば、これは狂気の沙汰にしか見えないかもしれません。無謀な若造の、血気にはやった愚かな突撃だと。でも、この膠着し、絶望的な盤面をひっくり返すには、常識という名の、古びて重いだけの鎧を、今ここで脱ぎ捨てるしかないんです。私を信じてください、とは言いません。戦場に絶対はない。でも、私には見えるんです。この一点に、僅かながらも、確かな勝機が! この一閃に、我々の、そして第17駆逐隊の未来を、賭けてみませんか?」
ソフィの瞳には、もはや狂気の影はなく、戦場の流れを読み切り、未来を予見するかのような、冷静な、そして燃えるような強い光が宿っていた。それは、常人には到底理解し得ない、彼女だけが持つ特別な才能――戦場の女神に愛された者の、抗いがたい輝きであった。
通信の向こうで、オルセン艦長はしばし沈黙した。彼の脳裏には、長年の経験で培われた戦場の鉄則と、目の前の若き指揮官が放つ、理屈を超えた圧倒的なカリスマとの間で、激しい葛藤が渦巻いていたのだろう。だが、彼は決断した。彼は、かつて共に戦った勇敢な友の面影を、その娘の中に見たのかもしれない。あるいは、この膠着した「永き黄昏」の時代を変える、新しい風の到来を予感したのかもしれない。
「…分かった、ベルナルド少佐。若き獅子よ。貴女のその瞳、その魂を信じよう。我ら老兵も、貴女という新しい時代の風に、この身を賭けてみようではないか! この老兵の最後の戦場が、語り継がれるべき伝説の始まりとなるのなら、それもまた一興というものだ!」
彼の力強い、覚悟を決めた言葉が、他の僚艦の艦長たちの最後の迷いをも断ち切った。ブリッジに、そして通信回線を通じて繋がる艦隊全体に、死地へ向かう者たち特有の、悲壮な、しかしどこか高揚した決意の空気が、電流のように満ちていく。僚艦のブリッジでは、若い士官たちが「俺たちも続くぞ!」と拳を握りしめていた。
「よし!」ソフィは、力強く頷くと、艦長席に座るラサールに向き直った。その表情には、感謝と信頼が浮かんでいた。「ラサール、作戦は決定した! 全艦、最大戦速! 目標、敵艦隊中央! 行くぞ!」
「了解! 全艦、最大戦速! 目標、敵艦隊中央!」ラサール艦長は、ソフィの命令を、冷静に、しかしその声には確かな覚悟を滲ませて復唱し、ブリッジクルーに具体的な指示を淀みなく飛ばす。航海長が、震える手で、しかし正確に舵を切り、機関士が、祈るようにエンジン出力調整レバーを最大まで押し上げる。艦内の全てのシステムが、戦闘モードへと移行する。
真紅の旗艦『アルテミス』の艦尾に連なる、芸術品のように洗練された巨大な推進器から、青白い、網膜を焼くほどに眩いばかりの光の奔流が、雷鳴にも似た咆哮と共にほとばしる。
艦体は、あたかも檻から解き放たれた猛獣のように、あるいは、神が天から放った怒りの矢のように、信じられないほどの、物理法則を無視するかのような速度で急加速を開始した。
それは、もはや艦艇というよりは、宇宙そのものを切り裂く巨大な赤い槍、あるいは、全てを焼き尽くさんとする復讐の流星そのものであった。
続く僚艦もまた、それぞれの司令官への絶対的な信頼と、名も知らぬ仲間を救うという崇高な決意を胸に、『アルテミス』が描く鮮烈な光跡を、死をも恐れず追う。
彼らは知っていた。これから始まるのは、生と死の境界線上で繰り広げられる、狂気の沙汰ともいえる死の舞踏であることを。
だが、彼らの心には、目前に迫りくる死への恐怖よりも、若きカリスマ指揮官への絶対的な信頼と、そして、この絶望的な戦場で不可能を可能にし、歴史に残るであろう奇跡を起こさんとする、熱い、燃えるような興奮があった。
「紅き流星」が、今、地獄の戦場へと降臨する。
そのあまりにも大胆で、あまりにも予想外の動きに、敵味方双方のセンサーが、けたたましい、甲高い警告音を発し始めた。
戦場の全ての視線が、漆黒の宇宙空間を切り裂き、敵艦隊の心臓部へと恐るべき速度で突き進む、その一条の鮮烈な赤い閃光へと注がれていた。この瞬間、銀河の片隅で、新たな伝説が産声を上げたのだ。