序章:星々のまばたき、運命の胎動
遥かなる古、我らが祖先は、緑豊かな揺籃の地、太陽系第三惑星――後に「古き地球」と呼ばれることになる母星を後にした。
飽くなき探求心と、時に生存への渇望に突き動かされ、彼らは星々の大海原へと乗り出したのだ。
それは、人類という種が、その矮小な惑星の引力圏を振り払い、無限の可能性を秘めた銀河へと、その歩みを印した瞬間であった。
コールドスリープという仮初の死による長き眠りと、光の速さに限りなく近づかんとする亜光速航行という、気の遠くなるような旅路の時代を経て、人類はついに時空を歪め星々を結ぶ奇跡の航法、超光速ドライブを手にした。
その瞬間から、人類の版図は、あたかも神が宇宙に撒いた種が一斉に芽吹くかの如く、爆発的な勢いで銀河系全域へと広がっていった。
数多の星々に新たな故郷を見出し、植民し、あるいは星々そのものを改造し、人類の文明は宇宙の深淵へと、その根を深く、広く張り巡らせていった。
だがその栄光の陰には、皮肉な運命が潜んでいた。
広大すぎる宇宙は、その距離と時間の隔絶によって、かつて一つの種として共有していたはずの絆を、徐々に、しかし確実に蝕んでいったのだ。通信は遅延し、文化は多様化し、やがては価値観そのものが分岐していく。
統一性は失われ、銀河に散らばる無数の星間国家群は、長い時間をかけて、二つの巨大な潮流へと収斂し、そして、宿命的な対立の時代を迎えることとなる。
一つは、銀河系オリオン腕にその覇を唱える、クロノス帝政。
数世紀に及ぶ歴史を持ち、神の如く崇められる皇帝を終身元首として頂点に戴く、壮麗なる専制君主国家である。
その帝都クロノポリスは、人類の工学技術と帝国の絶対的な権威の粋を集めて建造された巨大人工惑星であり、天を摩する黄金と白亜の尖塔群、歴代皇帝の威光を示す壮麗な宮殿が林立し、既知宇宙に比類なき威容を誇っていた。
厳格な階級制度に支えられたその秩序は、揺るぎない安定をもたらす一方で、世襲貴族による特権の独占とそれに伴う腐敗、そして過去の栄光に固執する硬直した官僚主義という、深い影をも内包していた。
そしてもう一つは、ペルセウス腕を中心に広がる、リベルタス共和国連合。
帝政による苛烈な支配と搾取に対し、独立戦争という血塗られた試練を経て自由を勝ち取った、多様な惑星国家群の集合体である。
その名の通り、自由と平等を国家の基本理念として掲げ、各々の主権を尊重しつつ、対帝政という共通の脅威の下に連合を形成していた。
その首都フリーダムポートは、様々な形状、出自を持つ宇宙ステーションが寄り集まった、巨大にして混沌とした複合都市であり、絶えず新しい文化、技術、そして情報が行き交う、活気あふれる坩堝であった。
だが、理想として掲げられた民主的な意思決定は、しばしば各惑星・国家代表による利権争いや大衆迎合主義に堕し、汚職や利権誘導が後を絶たなかった。自由の名の下に経済格差は拡大し、社会には不安定な熱気が渦巻いていた。建国の経緯から強大な発言力を持つ統合軍の存在もまた、連合の未来に複雑な影を落としていた。
人類という単一種から派生しながらも、統治理念、社会構造、文化、その全てにおいて水と油の如く対照的な道を歩む二つの巨大な星間国家。
両者の間には、独立戦争以来の百数十年以上にわたる、血で血を洗う記憶と、決して消えることのない根深い不信と憎悪が存在した。
銀河は事実上二分され、星間航路の要衝や資源豊かな星区を巡っては、幾度となく大規模な艦隊戦が繰り広げられた。
数えきれない若者の命が一瞬の閃光と共に宇宙の塵と消え、惑星数個分の年間予算にも匹敵する莫大な資源が、ただ破壊のためだけに費やされていった。
しかし、宇宙暦788年。銀河は奇妙な静けさに包まれていた。
長きにわたる消耗戦の末、両国の力は拮抗し、互いに決定的な打撃を与えられぬまま、戦線は膠着状態に陥っていたのだ。
散発的な国境紛争や、水面下での情報戦、経済的な締め付け合いは続くものの、かつてのような銀河の命運を賭けた大会戦は鳴りを潜めて久しい。
人々は、終わりの見えない対立に倦み、戦争があることが日常となり、一種の諦念と共に、ただ日々を生きるようになっていた。
それはあたかも、太陽が沈みきらぬまま地平線に長く留まり、世界を薄紫色の憂鬱な光で満たす、黄昏時にも似ていた。
後世の歴史家が言う、「永き黄昏」の時代の到来である。
銀河は、二つの疲弊した巨人が互いに睨み合ったまま動けずにいる、巨大な構造的疲労を起こしていた。
ただ静かに、次なる時代の激しい胎動を、あるいは全てを終わらせる終末への序曲を、息を潜めて待っているかのようであった。
そして歴史の歯車は、しばしばそうであるように、中心から遠く離れた、辺境と呼ばれる場所から、その新たな一回転を、静かに、しかし確実に刻み始めるのである。
***
リベルタス共和国連合の広大な支配宙域の片隅、カストル星系。
その名を聞いて、連合市民の多くが思い浮かべるのは、おそらく荒涼とした辺境、あるいは無法者が跋扈する危険な宙域、といった程度の認識であろう。
その外縁部に広がるアステロイドベルトは、特に悪名高かった。
かつてこの宙域で起こった大規模な戦闘、あるいは不安定な重力が引き起こした天体衝突の果てか、砕け散った星々の残骸が、まるで神に見捨てられたかのように永遠に漂い続けている。
航行は困難を極め、レーダーは役に立たず、しばしば姿を現すという所属不明の宇宙海賊の存在も相まって、いつしか人々はこの宙域を、畏怖と侮蔑を込めて「悪魔の三角宙域」と呼ぶようになっていた。
その死と静寂が支配する暗黒の海へと、共和国連合軍第17駆逐隊は、哨戒任務の命を受け、あたかも古き時代の海の巡礼者の如く、慎重なる歩みを進めていた。
彼らが乗り込むのは、歴戦の勇士たちが魂を注ぎ込んでいるとはいえ、もはやその艦齢を隠すことのできない旧式の駆逐艦たち。
それは、連合の広大な版図を守るには、いささか心許ない、忘れられたかのような戦力。それが、彼らに与えられた現実であった。
行く手には、巨大な岩塊――アステロイドが、太古の神々が作り上げたまま忘れ去った彫像のように、あるいは、宇宙との戦いに敗れた巨人の骸のように、静かに、そして無数に漂っている。
それらは時に、遥か彼方にある恒星のか細い光を鈍く、まるで古傷から滲む血のように赤黒く反射し、時に、絶対零度の深淵たる影を長く、長く艦隊へと伸ばし、この星なき海に不気味な濃淡を描き出していた。
航行の困難さもさることながら、そのあまりにも荒涼とした、生命の息吹など微塵も感じられない光景は、鍛え上げられた熟練の兵士たちの心にさえ、言いようのない不安と、見えざる脅威への予感を、冷たい霧のように漂わせるのであった。
旗艦『プロメテウス』のブリッジは、金属特有のひんやりとした感触と、数多の計器類が放つ緑や橙の微かな光、そして誰もが口には出さぬものの、皮膚を刺すような張り詰めた空気で満たされていた。
艦隊司令を務めるグレイブス中佐は、その深い皺を額に刻み、メインスクリーンに映し出される、息をのむほどに荒涼たる、しかしどこか死せる荘厳さすら漂う宇宙の景色を、微動だにせず凝視していた。
その双眸には、長年の軍務で培われた、些細な変化も見逃さぬ鋭い警戒心と、この危険な任務を完遂せねばならぬという重責が、色濃く浮かんでいる。彼が背負うのは、艦隊だけでなく、その先に広がる連合の辺境の平和そのものであった。
彼の背後では、まだ若い士官たちが、額に玉のような汗を滲ませながら、古びたコンソールを懸命に操作し、一方で、百戦錬磨の古強者たる兵曹長たちが、経験に裏打ちされた揺るぎない落ち着き払った様子で、各部署の状況を監視していた。
「こんなオンボロ艦で『悪魔の三角宙域』とはな…」若い通信士が、誰に言うともなく吐き捨てた。「司令部は、俺たち第17駆逐隊のことなんざ、とっくに忘れちまってるんじゃないのか? まるで、厄介払いだ…」
「黙れ、ルーキー!」隣に立つ、顔に生々しい古傷を持つ厳つい顔の兵曹長――マスター・サージェント・レックスが、低い、しかし鋭い声で叱咤した。「貴様のその腐った根性を叩き直すのが先だ。文句を言う暇があるなら、センサーの感度を一目盛りでも上げろ。この『悪魔の三角宙域』では、一瞬の油断が命取りになるのだぞ」
彼は、ブリッジの壁に掲げられた、色褪せた一枚のホログラフ肖像画を、無骨な指で示した。それは、百数十年前、圧倒的な軍事力を誇るクロノス帝政の圧政に敢然と立ち向かい、多くの犠牲を払いながらも自由を勝ち取った、連合建国の英雄の一人の姿であった。
「我らが祖先は、これよりも遥かに劣る装備、粗末な補給で、あの強大な帝国と戦い抜き、我らに自由という名の尊い遺産を遺してくださったのだ。艦の古さを嘆く前に、己の魂を磨け。我らは自由の子、リベルタスの盾なのだという誇りを、片時も忘れるな!」
新兵は、兵曹長の言葉の重みに気圧され、反論の言葉を飲み込み、黙ってコンソールに向き直った。
艦内に漂うのは、危険極まりない辺境任務への避けられぬ緊張感と、それを乗り越えんとする静かな闘志、そして、この死の海を無事に渡り切り、再び愛する家族の待つ故郷の土を踏みたいという、人間としての切なる、そして普遍的な願いであった。
彼らはまだ知らなかった。この航海の果てに、想像を絶するほどの深い絶望と、そして、彼らの運命を、いや、銀河の歴史をも変えることになるであろう、奇跡的な邂逅が待ち受けているということを。
この名もなき辺境での出来事が、やがて銀河中を駆け巡ることになる一つの鮮烈な伝説の、まさに序章となるということを。
***
一方、時を同じくして、カストル星系からさほど離れてはいない、比較的に安全とされ、定期航路も設定されている宙域では、全く異なる、平和でさえある光景が繰り広げられていた。
漆黒の宇宙のキャンバスを切り裂くように、流麗なフォルムを持つ一機の戦闘艇が、まるで重力という名の古臭い鎖から解き放たれたかのように、自由闊達に、そして挑発的に舞っていた。
その機体は、まだ量産前の試作機であることを示す、鮮やかな真紅に塗装されており、リベルタス共和国連合軍の制式採用機が持つ、どちらかと言えば実用本位で無骨なデザインとは明らかに一線を画す、鋭さと官能的な美しささえ兼ね備えている。コードネーム『ラピッド・フェザー』。次世代の主力高速戦闘艇として開発が進められている、連合の技術の粋を集めた最新鋭機のプロトタイプであった。
その機体を、まるで自身の翼のように自在に操るのは、ソフィア・“ソフィ”・ベルナルド少佐。
共和国の底辺とも言える労働者階級の出身という、軍のエリート街道とは無縁の異例の経歴を持ちながら、その天賦の才としか言いようのない操縦技術と、型破りでありながらも不思議と部下や仲間を惹きつけずにはおかない天性のカリスマ性によって、若くして高速機動戦隊の指揮官に抜擢された、連合軍の中でもひときわ異彩を放つ存在であった。
彼女は今、この新型機の性能テストという、本来ならば地味で退屈な任務の最中にあった。だが、彼女の手にかかれば、それすらもスリリングな舞台へと変わる。
老練なパイロットが操る、教科書通りの動きしかできない機体を、まるで戯れる俊敏な猫のように翻弄し、予測不能なアクロバティックな機動で、その鼻先をかすめ、背後を取り、次々とそのプライドを打ち砕いていた。それは、定められたテストプログラムの項目を、遥かに逸脱する、いかにも彼女らしい奔放な飛行であった。
「ラサール、見てた? 今の! あのパイロット、完全にキレてたよ。ブリッジまで怒鳴り声が聞こえてきそうだった! まるで尻尾を踏んづけられた、図体ばかり大きい老猫みたいだったね!」
コックピットから、まるで音楽のように快活で、楽しげな声が、彼女が所属する第8高速機動戦隊の母艦であり旗艦でもある、『アルテミス』のブリッジへと届く。
『アルテミス』は、新型戦闘艇の運用母艦として改装されたばかりの最新鋭駆逐艦であり、そのブリッジでは、若き日のジャン・ラサールが、冷静沈着な艦長として指揮を執っていた。
生真面目で、規律を重んじる性格のラサールは、ブリッジで眉間に深い皺を寄せながらも、その口元には微かな苦笑を浮かべて、通信に応答する。
「少佐。マニュアル通りの飛行テストプログラムを遵守していただきたいと、今朝のブリーフィングで、何度申し上げたか、お忘れでしょうか…貴女の感性は時に芸術の域に達しておりますが、常に軍規違反という名の断崖絶壁と隣り合わせです。もう少し、慎重さというものを…」
「もぉ、ジャンは固いんだから! 結果が良ければそれでいいでしょ? この子の本当の力、限界ギリギリまで引き出してあげないと、可哀想じゃない。それに、私がパイロットとして退屈なテスト飛行をするなんて、私らしくないしね!」ソフィの声は、悪戯っぽく弾んでいた。まるで、これから始まる冒険に胸を躍らせる少女のようであった。
ブリッジのクルーたちは、そんな二人の、もはや日常となった感のあるやり取りに、慣れた様子で微笑みを交わしていた。
ソフィの型破りで予測不能な行動に、時に肝を冷やし、振り回されながらも、彼らは彼女の曇りのない人間性と、何よりも仲間を決して見捨てないその熱い魂、そして、いかなる困難な状況下でも活路を見出すその非凡な才覚を、心の底から深く信頼していた。
この若き女性指揮官のためならば、火の中、水の中、いや、真空の宇宙の果てまでも、と。
テスト飛行プログラムを(彼女なりに)終え、ソフィは『ラピッド・フェザー』を、まるで手慣れた馬を厩舎に戻すかのように、『アルテミス』の広大な格納庫へと、完璧なソフトランディングで着艦させた。
ヘルメットを脱ぐと、テスト飛行中のGで額に張り付いた、汗に濡れた栗色の髪が、ぱらりとかかった。その瞳は、星空のように輝いている。
彼女は軽やかにコックピットから飛び降りると、駆け寄ってきた整備兵たちに機体の詳細なチェックを指示しながら、格納庫の片隅に設えられた自身の小さなロッカーへと、弾むような足取りで向かった。そして、中から取り出したのは、最新鋭の電子機器が並ぶ艦内には不釣り合いな、古びた真鍮製の航海用コンパスであった。
それは、かつて民間の宇宙貨物船のパイロットだったが、不慮の事故で若くしてこの世を去った、彼女の父親の、数少ない形見であった。
ソフィは、そのコンパスを、まるで宝物を扱うかのように、柔らかい布で丁寧に、愛情を込めて磨き始めた。ガラスの向こうで、針が微かに北を指し示している。いや、この宇宙空間では、それは意味を持たない。だが、彼女にとっては、それは常に進むべき道を示す、心の拠り所であったのかもしれない。
「父さん、見てる? 私、ちゃんと飛んでるよ。あなたが夢見た、どこまでも続く、自由な空を…」
彼女は、誰に言うともなく、優しい声で呟いた。
規則や階級、出自といった、くだらない地上のしがらみに縛られず、ただ純粋に、自身の翼で大空を翔ること。そして、信じられる仲間と共に、どんな困難にも笑顔で立ち向かうこと。それが、彼女の力の源泉であり、彼女を彼女たらしめる、燃えるような魂の核であった。
だが、その時、ソフィも、ラサールも、そして銀河の彼方にいるであろうもう一人の宿命の星も、まだ知る由もなかった。
この辺境の宙域での、一見平和でささやかな日常が、間もなく、音を立てて崩れ去ることになるということを。
そして、彼女の持つ、太陽のように明るい自由への渇望と、燃える炎のように熱い仲間への強い想いが、やがて彼女自身を、そして銀河全体の未来をも巻き込む、激動の運命の渦へと、否応なく導いていくことになるということを。
「永き黄昏」の時代は、まだ重く銀河を覆っている。
しかし、その沈滞した、息苦しい空気を打ち破る、二つの強烈な、そして対照的な光芒…その一つが、今まさに、この辺境の空で、その眩いばかりの輝きを、静かに、しかし力強く増し始めようとしていたのである。
その輝きは、やがて一つの名前で呼ばれることになるだろう――「紅き流星」と。辺境の空に灯った小さな希望の光は、これから始まる壮大な叙事詩の、確かな始まりを告げていた。