第4話 夜の太陽、私のために料理をしてくれる彼
指と鏡の間にはまるで反発力が働いているかのようで、触れていたはずの指が一瞬で弾かれた。
短くぼーっとした後、私は我に返った。
脳内に湧き上がった記憶と感情は途切れたが、先ほど見たもの、感じたことのすべてにまだ完全には適応できていない。
「大丈夫?記憶は戻ったのか?」
楓さんはいつの間にか私のそばに来ていて、心配そうな目で私を見ている。
私はさっき起こったことを簡単に説明した。
すると、楓さんは何かを思い出したようだった。
「祭り……?」
「何か知っていますか?」
「それは後にして。つまり、今のところ家族に関する記憶だけが戻っていて、他のはまだということ?」
「うん、多分」
「じゃあもう一度鏡に触れて、もっと記憶を取り戻せるか試してみて」
その提案に従って試してみたけど、指が再び鏡に触れる直前に弾かれてしまった。
「ダメか……」
「それで、これからどうするの?」
「……だからあいつがここは最初の鳥居の場所だと言ったのか……まあいい。別の『裏界』に行って記憶を取り戻す必要がありそうだけど、次の鳥居の位置を聞かなければならず、すぐには出発できない。ひとまず帰って休もう」
「アッハイ」
もう少しこの辺りを散歩したいけど、楓さんがそう言うならやめておこう。
入ってくる時にくぐった鳥居を通り抜けた。
天辺の月が眩しい光を放っていて、今の空はまるで昼間のようだ。空に浮かぶ半透明のクジラは元の虹色の輝きを失い、ぼんやりとかすんで見えるようになった。
「もう夜だなぁ……」
楓さんがそう呟いた。
「夜?」
「この世界では昼夜が逆転している。昼間は夜のように暗く、夜は昼のように明るい」
「この世界の奇妙な現象は本当に多いね」
「……ところで、どうせ行くところがないんだから、僕と一緒に住めばいい」
楓さんが突然提案したが、その口調は冷たいままだった。
彼の言う通り、記憶を失った私はこの見知らぬ世界で、助けてくれた彼だけが頼りだった。
数時間一緒に過ごした直感で、彼は本当は優しい人だと感じる。大半は表に出さないけれど、彼の私に対する気遣いは絶対に嘘ではない。だから、彼の家に住むことは問題ないはず。
――とはいえ、急に彼をからかいたいと思った。
「どうしてそんなに良くしてくれるの? まさか……何かヤバいことをしたいわけではないよね?」
楓さんが振り返り、困惑している顔で私を見ている。まるで私が何を指しているのか理解できないかのように。
「ヤバいこと?」
「うーん……例えば、夜中に私が寝ている間に部屋に入るとかー」
からかうつもりもあったけど、楓さんの保証も欲しい。
すると、楓さんがやっと気づいたようで、急に顔を赤らめた。
「い、言ったでしょ?君を傷つけるようなことはしない、絶対に!」
元々無表情で冷たい口調だった楓さんが、今はこんなに緊張して恥ずかしそうに慌てて私に保証している。
面白い……!
彼だって照れ屋になるんだ。
思わず笑ってしまった。
「じゃあ、お言葉に甘えて、しばらくあなたの家にお世話になるね。ありがとう」
* * *
キッチンから時折、刻む音や炒める音が聞こえてくる。
今、楓さんが夕食作りに忙しい。さっき手伝うよと言ったのだけど、あっさり断られた。それでお風呂に入った後、私はリビングに行って、今日取り戻した記憶をいつかまた忘れないように記録している。
篠原心優、16歳、幸せな家庭に生まれた。 両親は40代で、父さんは大手商社の部長、母さんは主婦。また、小学1年生の妹、篠原葵がいる。妹が漫画とアニメをよく紹介してくれる。
「本当に5日間で全部の記憶を取り戻せるのか……?」
2ページ書き終わったばかりのノートに目を落とし、思わず疑ってしまった。
もし5日間で完全に記憶を取り戻せなかったら、元の世界に戻れず、家族にも二度と会えない。そんなの嫌だわ……
長いため息をついて、12歳の夏祭りで起きたことを続けて記録する。
そういえば、記憶の断片に出てきたあの顔が黒い線で覆われた人は一体どういうこと?
「夕食ができた」
「はーい」
まあいいや、まずはお腹を満たしてから考えよう。
テーブルにはハンバーグ、豆腐の味噌汁、それに二品のおかずが並んでいる。
「うわぁ、美味しそう!」
「好みに合うか分からないけど、食べたいなら食べていい」
「いただきます!」
ハンバーグを一口大に切り、口に運ぶ。噛んだ瞬間に溢れ出す肉汁とほのかな肉の香り、そして濃厚なソースが完璧に調和している。さらに一口ご飯を添えると、まさに絶品の味わいだ。疲れた体も心も癒されるようだった。
「うまーい!」
え?ちょっと待って、このハンバーグとご飯、なんか冷めてる?
全部の料理を味わったが、どれも冷たかった。
「言い忘れた。この世界では熱さと冷たさが逆なんだ。料理するには氷点下の温度を使わないと食べ物が調理できない」
まるで私の疑問を察したかのように、楓さんはご飯をつまむ手を止めて説明してくれた。
「なるほど、ちょっと変だと思った。 それでも美味しかったけどね」
こうした常識を逆転させることに対してだんだんあまり驚かなくなってきたような気がする。 何しろ、今日はもっととんでもないことをたくさん見てきたのだから。
「ところで、明日は私が朝ごはんを用意するってどう?あなたの家にただ住んで何もしないのはちょっと気が引けるから」
「必要ない。この世界にいる間は僕が世話をするから」
「え?」
「……誤解しないで、君は記憶を取り戻すためにしっかり休むだけでいい。他のことに干渉する必要はない」
彼は顔をそむけ、声も小さくなった。
「まだ何も言ってないよ。 そんなに誤解されるのが怖いの?」
私は笑顔を浮かべながら冗談めかして言った。
「……とにかく、食事は僕が用意する。あと、食事中はあまり喋らない方がいい、料理が冷めちゃうから」
「でも、本来はもう冷めちゃってたんだよ」
「これはただの比喩だ」
楓さんはよく無表情の顔をしているけど、実は結構面白い人。
そう思いながら、私はニコニコしながら野菜をつまんで口に運んだ。