第31話 君がウェディングドレス姿で、僕のもとへ歩いてくる日
涙が頬を伝って落ちていく。いつから泣いていたのか分からない。ただ、記憶の断片を見終え、現在に意識が戻った時には、すでに涙が溢れていた。
力なく地面にひざまずいた。
宮野くんが楓。
宮野くんはもう死んでる。
「どうして……」
どうして私はいつも守られる側なのに、ずっと私を好きで、私を守ってくれている宮野くんを救えないの?結局、私は何も役に立たず、宮野くん一人に迷って、辛さを抱え込ませてしまっているなんて……
彼が死にたくない、彼と別れたくない、彼のことを忘れたくない。
まだ彼に言ってないこと、一緒にやりたいことがたくさんある。現実世界に一緒に戻って、恋人になって、毎日デートして、一緒にご飯を食べて、一緒に遊んで、ずっとそばにいて、ずっと幸せでいたい。
――なのに、私は何もできない、何も変えられない。
体が徐々に透明になっていく——私はもうすぐ消えて、現実世界に戻ってしまう。
……もう時間がない。これ以上ここにいて泣き続けて消えてしまうわけにはいかない。
彼に伝えたいことがまだたくさんある。もう一度彼に会いたい。
涙を拭いながら、立ち上がって城に向かって走り出した。たとえこの足が折れてしまっても、もう一度会うために、城まで駆けつける。
* * *
「もう終わった……」
僕はピアノにもたれかかって、教会の天井を見上げた。
全てはもう終わったんだ。心優さんは現実世界に戻って、これから幸せに生きていくだろう。そして僕は、これからも一人でこの世界に残るんだ。
結局、最後まで自分の気持ちを伝えることはなかった。これが正しい選択だったのかもしれない。忘れたくない人や思い出ができてしまったら、彼女がこの世界のことを思い出した時に、もっと辛くなるかもしれない。恐らく、悲しみから抜け出せなくなってしまう。
彼女には僕のことや、この世界で一緒に過ごした思い出を忘れて欲しくない。でも、こうする以外に、彼女が悲しまない方法はない。
長い間心から好きだった人と別れること、さらには忘れ去られることは悲しいはずなのに、なぜか一滴の涙も流れなかった。心の中の大きな虚無感は孤独を感じさせ、まるで魂を失ったかのようだった。
疲れた……本当に疲れた。
父さん、母さん、ごめん。こうやって先に行くことを許してください。
心優さん、ごめん。もう君の気持ちに応えることはできない。
悠人、ハル、久保さん、これからも心優さんと仲良くしてください。
最後に、もう一つやりたいことがある。
「記録者、最後にもう一つ手伝ってもらえないかな?」
教会の最後の列の席にいる記録者に向かって言った。
城の教会にテレポートさせてから、あいつはずっと目を閉じてあそこに座っていて、心優さん側の状況を何らかの方法で遠隔監視していた。
しかも、なぜかここに来た途端、僕の身につけていた服が結婚式でよく見かけるような礼装に変わっていた。
「お別れの手紙を汝の家族に送るってこと?分かったわよ、じゃあそれは観察対象への特別な報酬ってことでね」
あいつは心を読む能力で、まだ言い出せていないこの最後の願いを知ってしまった。
「ところで、もう終わったのに、なんでまだあそこにいるの?」
「すぐに分かるさ」
「はぁ?」
あいつはもう僕のことを気にせず、再び目を閉じた。
僕はずっとあいつが何を考えているのか分からなかった。
まぁ、どうせ今あいつが何をしているかなんて、もう重要じゃない。
この数日間を振り返ると、全てがまるで夢だったかのようだった。
海底庭園の第五の季節で、心優さんと初めて二人で写真を撮ったり、彼女の生活を世話したり、空飛ぶ電車の中で初めて僕の肩に寄りかかって眠ったり、砂漠の森で何度も距離を縮めたり、あの日から彼女は少しずつ僕に頼るようになった。
宇宙では一緒に初めてゲームをしたし、彼女が僕についてもっと知りたいと思った初めての瞬間があり、間接キスも初めて、もう少しで本当にキスをしそうになったこともあった。
初めて恋人らしくデートをして、初めて手を繋いでスケートをしたり……現実とは全く違うこの世界で、数々の『初めて』を経験したけれど、それは全て現実世界ではありえない奇跡。
心優さんと永遠に別れるなんて本当に嫌だ、こんな形で終わりたくないんだ。
この世界の法則が、ここで起きた全てが現実で実現できないものだと、そして心優さんの僕への気持ちさえもその影響であるかもしれないことも理解している。けれど、それでもこの5日間、共に過ごした時間を簡単に忘れて割り切ることなんてできないんだ。
もう一度彼女に会いたい、自分の気持ちをちゃんと伝えたい。でも、その願いはこの世界ですら叶わない『不可能』なんだろうな。
思わず大きなため息をついた。
「最後に、この叶わない恋のために、フィナーレを……」
指がそっと鍵盤に触れ、心優さんとの物語の終わりを勝手に飾るために、『不可能な恋』という名の曲を奏で始めた。
ほんの少し前に途切れていたピアノの音が、今、静寂を破るように再び響き始めた。
しかし、それは宮野くんが先ほど演奏していた曲とは異なる曲だった。
城の廊下に響くメロディーは、優しく哀愁を帯びた美しさを感じられた。
その音を追いかけながら、必死に廊下を駆け抜けていく。足は疲れ果て、いつ力が抜けて倒れ込んでもおかしくないが、それでも私は一瞬たりとも足を止めることはなかった。
呼吸がどんどん苦しくなって、体の感覚や視界が徐々にぼやけてきて、すごく苦しい……でも、宮野くんが私のためにしてくれたことに比べたら、今のこの苦しみなんて全然大したことじゃない。
数年前の夏祭りから今までの宮野くんとの思い出を振り返ると、涙が止まらず溢れ出てきた。
宮野くんは私のことがこんなに好きなのに、私はずっと知らなかった。
宮野くんが私のためにこんなにたくさん尽くしてくれたのに、私は何もできなかった。
宮野くんを好きになったのに、どうしても一緒になれない。
ふと足がもつれて、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
「痛っ……!」
しかし、もはや息をつく暇もない。
「早く立って……」
ふにゃふにゃになった足を叩いて、震えながら立ち上がり、前へと走り続けた。
初めて心優さんと出会った日のことからの全ての思い出と感情を、この曲に込めた。
重い心を抱えながら、最後の音を奏でた。
エモいに浸っていると、教会の扉が突然開いた。
振り向くと――扉のところに立っているのは……心優……さん?
これは幻覚?僕があまりにも彼女を思いすぎているせいなのか?
心優さんは扉の枠に寄りかかりながら、肩で息をしている。
「……や、やっと……見つけ……た……」
目の前にいるのは確かに心優さんだ。
思わず立ち上がり、二度と会えないと思っていた心優さんを抱きしめたい衝動に駆られた。しかし、その勇気が出ず、結局その思いを胸の奥にしまい込むことにした。
それより、どうしてここにいるんだ?あいつは、全ての記憶を取り戻したら現実世界に戻るって言ってたじゃないか。それに、心優さんの体が半透明になってるのはどういうことだ?
少し息を整えた心優さんは、一歩前に踏み出した。
教会の最後の列にいる記録者が、突然パチンと指を鳴らした。
教会に足を踏み入れた瞬間、身にまとっていた服が一瞬で純白のウェディングドレスへと変わった。ドレスに施された精緻なレース刺繍が高貴で優雅な印象を与え、肩や腕に飾られたビーズは彼女の歩みに合わせて揺れる。
柔らかな月光が透明なガラスの天井を通り抜けて降り注ぎ、彼女の進む道を照らし出し、その美しさを際立たせている。一歩に合わせて、地面を引きずる長いドレスの裾が優雅にゆっくりと広がっていく。
この瞬間、頭の中に浮かんだのはただ一つの思い――美しい。
夢にも思わなかった。心優さんがウェディングドレス姿で、僕のもとへ歩いてくる日が来るなんて。しかし、この世界は、こんな不可能を実現してしまった。
「ひどすぎる……なんで勝手に死んで、勝手に私から離れて、勝手に私に忘れさせようとするの……!」
心優さんが僕の方に歩きながら、声が泣きそうに震えていた。
どうやら、彼女は全てのことを知ってしまったようだ。
「……ごめん」
ごめんとしか言いようがない。
心優さんが僕のもとへ寄ってきた。今の表情を見せたくないかのように俯き、僕の服の襟を掴んだが、体は悲しみで震えている。
「死なないで、私から離れないで……約束して、いい?」
彼女は泣いた。
涙が地面に落ちると、ずっと装ってきた強さと冷たさは完全に打ち砕かれた。
もう耐えることも、偽ることもできなくなった。
僕は心優さんの肩を掴んだ。
すると、心優さんは顔を上げ、その目に悲しみを浮かべ、涙が頬を静かに伝っていった。こんな彼女の表情を見るのは初めてだった。
視線が交わる中、迷わずに彼女の唇にそっとキスをした。
僕も死にたくない。現実世界に戻って心優さんと恋人になって、家族に彼女を紹介して、もっと大人になったら結婚して幸せな家庭を築きたい……でも、それはもう叶わない。
唇がゆっくりと彼女の唇から離れていった。
それから、彼女の涙をそっと拭い去った。
「バカ、泣くなよ。僕が好きな篠原心優は、泣き虫なんかじゃないでしょう?」
僕の突然の行動に驚いたのか、その大きな目はぼんやりと私を見つめている。
前に何度か聞かれたけど、ずっと返事をしなかった。でも、もうキスしてしまった以上、もうこの気持ちを隠したり、我慢したりする必要はない。
「……でも、もう二度と会えなくなってしまうんだよね?そう思うと、泣いちゃいそう」
そんなこと言わないで、君が悲しそうにしているのを見ると、僕も泣きそうになるよ。
最後に泣きながら彼女に別れを告げたくない。彼女が現実の世界に戻ったら、今のことを思い出さないかもしれないけど、泣きながらの別れはあまりにもダサいから。
「僕たち二人の物語はここで終わるけど、君自身の人生の物語はまだ続いていく。だから、脇役のために泣く必要なんてないよ」
心優さんは突然、僕の首に腕を回し、つま先立ちでキスをしてきた。彼女の唇から伝わる温もりと感触に、堪えていた涙が溢れそうになる。
「あなたは脇役じゃないよ。あなたは私の人生の主役で、私が一番好きな人、最も大切な人、最も忘れたくない人」
「……覚えてる?一昨日、僕が使わなかった命令権のこと」
「うん」
「今、この命令権を使う。今ここで、君に命じる、現実世界に戻ったら、僕のことを忘れて、幸せに元気に生きていってくれ」
これでいい。
もし僕のことを思い出して悲しくなるなら、いっそ忘れてしまっていいんだ。未来に彼女のそばにいることはできないけれど、せめて幸せに元気に生きていて欲しい。
「嫌よ、あなたを忘れたくない!」
心優さんがまた泣いてるのを見ると、もう我慢できなかった。堪えきれず溢れた涙が目からこぼれ、頬を伝って流れていった。
「僕だって君に忘れて欲しくないし、ずっと一緒にいたい……でも、もう無理なんだ」
心優さんは泣きながら、何も言わずに黙っている。
心優さんもきっと分かってるんだろうけど、僕と同じでどうしても受け入れられない。
「君のことが大好きだけど、これからはどんな時でも君のそばにいられなくなる。だから、君が幸せに生きていけるように、これが死んだ僕から君への最後の祝福」
「……どんなに時間が経っても、私、ずっと、ずっとあなたのことが好きなんだ。絶対にあなたのことを忘れたりしない」
「君さ、忘れて欲しいって言ったじゃん」
「嫌だよ」
心優さんはわがままになると意外に頑固だな。でも、もう説得する時間はない。
心優さんの体はほとんど完全に透明になりかけている。もしかしたら、もうすぐ現実の世界に戻ってしまうのかもしれない。
「どうやら、そろそろお別れの時間みたいだな」
「でも、まだ言いたいことがたくさんあるのに……」
「……まぁ、そんな表情をしないでよ」
「あなたも泣いてるじゃん」
僕たちは、これからの別れのために涙を流している。
もう変えられない結末を前に、できることはただ別れを告げることだけだった。
「さよなら」
無理に笑顔を作って心優さんに別れを告げたけれど、涙は止まらずにこぼれ落ちてしまった。今の僕、きっととてもダサいよね。
「ありがとう」
心優さんも涙を流しながら、再びつま先立ちで僕にキスをしてきた。
僕たちはお互いを抱きしめ、最期の時間を大切にしようとした。
すると次の瞬間、腕の中の彼女は無数の星の光となり、完全に消え去ってしまった。
僕は急に力が抜けて膝をつき、風に散っていく星の光を見上げながら、抑えきれない嗚咽を漏らした。
本当に全てが終わった。




