『卒業』とシュノーケル
花嫁を教会から奪って逃げる場面だけが有名な映画、『卒業』を観た。そこだけを切り取って「あの後上手くいく訳ないよねえ」なんて世間話ばかり聞いてきたので、別に観たくもない映画だなと思って生きてきたのだが、これが大間違いだった。あの映画では、当の駆け落ちだけが唯一正気な話なのであって、狂ってるのはその他一切の方なのだ。社会というもの全て、生活というもの全てが、そこに馴染めない主人公ベンジャミンにとっては奇怪で無意味で不条理なものに見える。それを鮮烈に示すパーティーやらで大人達の振舞いを描く導入は、今日の日本社会の我々にもさして遠いものではないのじゃなかろうか。ベンにウェットスーツを着させてプールに潜らせ、大人達皆が嘲笑混じりに喜び祝うというシーンなど、本当に身につまされるものを感じた。どう考えても身動きが取りずらくするだけの制服を、我々は「着た方が良い」という助言の元に着させられる。その状態では歩くのが困難な程に視界が狭まる。声も聞こえない。聞こえないが、半分馬鹿にして嘲笑っているだろう事は伝わってくる。そして、息が継げない所で与えられたシュノーケルを使いながらじっとしている…
きっと殆どの人が、この映画を観ないで駆け落ちシーンだけを語っていたのだ、と思い込みたい気持ちになる。もしMrs.ロビンソンがベンやエレーンにもたらした捻れや、ベンから見える社会の奇異さを目の当たりにしていて、それでも他を不問にしつつ「結婚式をぶち壊す様な事だけはいけない」と言えてしまうなら、一体我々はその自分達の強固過ぎる頑迷さを、どう扱えば良いのだろうか?映画を観るのに、それをヒット作にも仕立て上げるのに、それでいて何も観なかった事にする、という我々の頑迷さを。ベンジャミン青年製造機でありつつそれを自覚しないという、この映画の訴える不条理そのものが、その映画に対するいい加減な評価という形で、スクリーンやテレビモニターから現実に染み出してしまう。
ちなみに、卒業のラストカットは教会からの脱出ではなく、その後にある居心地の悪そうなバスの場面だという話は、何かのバラエティ番組でも取り上げられた事があるらしい。「そう上手くはいかない」は既に映画で明示されている。そしてベンを取り巻く社会は、例え十字架で式場に閂を掛けても、駆けた末に落ち延びた、このバスの座席にもあった、という訳だ。彼のドラマチックな奮闘も関わらず、至る所に。乗客が怪訝に振り返るという挿入があり、これを見落としておいて「あの二人はその後上手くいかないよ」と宣う事は許されないだろう。この二人を上手くいかせないのは私達でもある、という意味がここに明示されている。