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免罪符(前編)

作者: Ln_Metal

未来の自分が過去の自分を変える。

その地下通路があまねく光で満たされた時

人間は世界そのものとなる。

免罪符



未来の自分が過去の自分を変える。

その地下通路があまねく光で満たされた時

人間は世界そのものとなる。



1.免罪符屋

 たった一人の家だった。

 帰るなり僕は、玄関のドアを開けて、石畳の上に設置された下駄箱を開ける。左の扉

を開けると便器、右の扉を開けると中には下り階段。玄関の右奥には正方形の寝室が一

つ。寝室の奥にはもう一つの玄関があり別の僕の家に通じている。今日は疲れているの

で、下駄箱の右扉を開けて階段を下ろう。その先には地下の商店街がある...。商店街

には宿泊所があって、そこではベッドのうえで眠れるのだ。きっと安らかに夜の静寂を

聞きながら、とこしえの眠りにつけるに違いない...宿代だって高くはない。これほど

すばらしい娯楽は労働に埋没する日々には殆ど見あたらないのだから。

 僕は階段を下り、宿泊所にログインする。映像でできたフロントには、瞬きを繰り返

しながら来客の目に視線を合わせてくる幻像の受付係がいる。こいつは相手をしても良

いし無視したって構わない(戦うこともできるし十分な資金があれば購入すら可能であ

る)。生体情報でホテルのサーバーにログインさえすれば、あとはこっちのすきな部屋

に泊まることができるのだ。彼または彼女はなつかしい世界における通過儀礼としての

形式的人形でしかない。

 部屋番号は何号室だって構わない。希望の景色を頭に浮かべれば、その通りに建造物

が組みあがって、僕は地上8000階の無人の神殿にも行けるし、地球中心よりも深い

地下にだって部屋をとることができる。死に祈る様に望めば神の台座にだって、深く沈

める胎内の壁の内側にだって眠る事ができるのだから...。

 僕は地上30階程の海の見える部屋を予約した。眠る前にメイドとの遊興を楽しむ

オプションを付ける。彼女は僕の目の前に突然現れると、僕がまばたきをするたびに

被覆を一枚ずつ脱いで行く。最後に被服ではない裂け目がみえるから僕はその中に

コントローラーを挿入しておもむろに放電する...。全部自分で考えた通りに事は進む。

肉体的な感触は実感できるし、それは現実として全く疑いようのない”感覚”なのだけ

れども、彼女の身体は折り紙でできた鶴の中の空間の様に、実在の僕を否定しない

優しいほほえみを見せながらも、電荷を受けとめた途端、ティッシュの様にそれを包んで、

ゴミ箱に放り捨てる様に跡形もなく消えてしまう...。彼女の動きは全く僕が頭に描いた

動線に沿っているだけだ。決して不意打ちで僕を喜ばせたりはしない。だから僕は

放電の後の虚脱感に眠ることはできても、剣を地面に差し込んだ様な巨大な安堵を

得ることのない朝を迎えるのだろう...。

 朝はやってきた。今日は休日だ。せっかくだからこの虚構世界を楽しんでいくことに

する。チェックアウトを済ませて宿の外に出ると、僕は地下への階段を探した。ビルの

谷間に吹く風の、冷房の廃熱を受けながら、自分が黴だらけの空調機フィルターになっ

た様な気分で、路地と路地、また別の路地へと、その隙間を、ゴミをあさる犬のごとく

下だけを見ながら、美しくもない死んだコンクリート壁の、コーキングの継ぎ目を引き

裂く様に、口を開き、スクロールする様に唯、壁を見ながら歩いて行った。

 ふと目の前に僕の家とそっくりな建物が現れた。僕が迷わず玄関の扉を開けると、目

の前には果たして更に地下へと続く階段が暗く誘い込む様に穴をのぞかせていた。幻の

世界に自分の家があらわれたって不思議ではないと、僕はその階段を下に下にどこまで

も降りて行った。

 山を登るのと下るのとではどちらが大変だろうか。地上の山であれば運動量において

登りのほうが大変だし、足下に慎重でなければならない事においては下りの方が大変で

ある。しかし今は山が上下逆さまである。僕は山を登る前に下らなくてはならない。肉

体の運動に先立って、精神がまず試されるのだ。先に行くほど暗くなるその隧路は山頂

で終わりを迎える事に目標を定めた現実世界での登山に比べれば過酷でありうる。

 もっとも、状況を過酷に感じるかどうかなんて、その時点での想像力と知識によって

変わる。大変なのは最初だけで、あとになるほど楽になるのかもしれない。ずっと変わ

らないのかもしれない。あまり考えたくはな事だけど、後になるほど大変なのかもしれ

ない。現時点では何も判断できないのは確かだから、このままさらに山を下ろう。

 暗がりの階段を下りきった所には長い地下街が開けていた。左右の壁には店ごとに

様々な看板がぶら下がっていて、ずっと奥のほうまで続く商店街になっている。左手を

手前から見ると最初の店はファストフード飲食店。次が携帯端末ショップ、開店前から

人が並んでいる。その次が賭博遊技場、客の出入りでドアが開くたびに騒音と臭いが外

に漏れてくる。

 右手を手前から見ると、花屋、書店、眼鏡店。そんなに珍しい店は見当たらない。花

屋の軒下には柱サボテンが生えていて、看板の代わりを果たしており、棘をさける様に

烏が止まっていた。

 少し奥の方に進むと、ショーウインドーのガラスがモニターになった衣料品店があっ

た。ガラスの上にネットワークブラウザーが表示されており、検索用のボックスには意

味不明の文字列が自動入力されては、それと関係があるのかないのかよくわからない検

索結果が表示され続ける。そんなことを延々と繰り返している。

 遊び半分にテキストボックスを指で撫でてみた。すると意図せずに文字が入力された。


 [黒猫屋 検索]


 しらない店名。宣伝なのだろうけど、だまされたつもりで行ってみよう。僕は[検索]

と表示された部分に指を押し込んだ。店の場所が地図で示される。地図の通り進めば、

曲がり角の場所で進む方向に地面が光るらしい。検索結果は僕自身に関連付けられると

の事であり、到達するまでの間、僕専用の道案内が見えるらしい。

 

 路地を何度か曲がった突き当りにその店はあった。


 §黒猫屋§ 雑貨と幸福


 雑貨屋だという事は分かるが、幸福とは何だろう。

 中に入ってみた。店内に入ると小さなカウンター。小さなひょうたんをたくさん紐で

つなぎ合わせた黒い暖簾の奥に人がいる様だ。だが今は見えない。左側にはほぼ正方形

のフロア。その奥にも別の出入り口があるが、頑丈な閂が差してあって開きそうにはな

い。僕の家を左右逆にした様な間取りである。

 天井を見上げると、表面を焦がし木目のくぼみを墨で塗りつぶした、うづくりの木の

板が打ち付けられている。部屋を左右に二分する様に、人の字型に黒い寒冷紗が掛けら

れている。葬式の写真にかけられた黒いリボンの様だ。

 壁は真っ黒なベルベット生地が貼られている。高級な椅子にも使われそうな触感の良

いものだ。そうでありながらも難燃繊維と書かれている。内側には静電気を抑制するた

めに導電スポンジが貼られている感触があるが、はがして中を確認する訳にもいかない

だろう。

 床には真っ黒なセラミックのタイルが敷き詰められている。傘の水がたまれば足が滑

りそうだが、ここには雨なんて降らないだろうし、その心配もなさそうだ。首を上げて

みれば、天井が床に見えなくもない。上下が逆さまの家の様だ。


 店の入り口ドアに立って見渡すと、左右の壁には天井まで届く作り付けの棚。左の壁

にも、右の壁にも商品が並んでいる。


左の棚

・酸素ボンベ

・猫の鈴

・松明

・黒檀の缶詰(6個入り)

・マッチ


右の棚

・火消し壺

・犬の首輪

・不燃性サンダル

・ジルコニア製ナイフ

・消火器


カウンターの品書き

・黒猫      非売品

・パートナー   無料

・免罪符     一生の年収分


 カウンターの端には絵が描けてある。題名は「闇夜の黒猫」。ただ真っ黒に塗りつぶ

しただけの帆布にしか見えない。客をからかっているのだろうか。

 僕は「松明」「黒檀の缶詰」「マッチ」「火消し壺」「不燃性サンダル」を、入り口

の横に積んであるかごに入れ、カウンターの真ん中に乗せた。

 「これください」

 黒い暖簾の奥から店の人間が出てきた。顔を真っ黒に塗っているせいなのか表情が分

からない。どうやら人間らしいが、背を伸ばした大きな猫が化けているのかもしれない。

店員は品物の代金を述べると、僕はその金額を支払った。真っ黒な紙に真っ黒な文字の

レシートが手渡された。角度を斜めにしてみると、インクの反射でやっと文字が読める。

 「闇夜の黒猫」の前に同じ色の猫がやってきて丸くかがみこむと、見えなくなった。

店員の言うには「この場所が暖かくて好きらしんですよ」とのこと。天上から暖房の風

が出ていて、手を差し出すと確かに周囲より気温が高い事が分かる。指先に猫の触感。

 「ところで」

 「何でしょう」

 「パートナーはいりませんか。無料ですが」

 「それは人間のことでしょうか、また売買するものなのですか」

 「人間です。人身売買する訳には行きませんから値段などありません」

 「無料という事ですか」

 「......」

 どんな人間なのか。僕は男だから、女の子を紹介するという意味なのだろうか。ある

いは男が出てくるのだろうか。

 

 女の子が出てきた。

 「はじめまして」女の子が言った。

 「はじめまして」僕が答えた。

 「あなたも免罪符をお探しですか」

 「あなたは誰ですか」

 「あなたのパートナーです」

 「あちらのカウンターのメニューに書いてあるものですか」

 「そうです」

 「失礼、主語が曖昧でした。改めて。あなたはカウンターのメニューに書いてある

『パートナー』であり、あなたは僕に、僕が自分のために『免罪符』を探しているのか

否かということを質問しているのですか」

 「ですから、私はあなたのパートナーです。もう一度お聞きします。あなたも免罪符

をお探しですか」

 「パートナーは欲しいけどね。だから免罪符って何ですか。」

 「皆さん決まって、この店にはそれを買いに来られるからお聞きしているのですよ。

他の物を買われる方もいるにはいますけど、そういう方は珍しいですね。」

 「質問に答えて欲しいな。」

 「罪を許される札のことです...ああ、パートナーを注文される方も久しぶりだわ」

 「...いわゆる贖宥状のことでしょうか」

 「ああ、それです。全くその通り。」

 ちょっと馴れ馴れしい子の上に、話がかみ合わない。外見は平凡で悪い人相ではない

から、単に自分のペースでしかものを言えないだけなのだろう。


 「ちょっとまって。僕はパートナーを欲しいとは言ったけど。」

 「私ではいけませんか」

 「...いいけどさ。いやそうじゃなくて...。」

 それにしてもなにか腑に落ちない。もしパートナーが無料で、免罪符が高額商品であ

り、両者が抱き合わせだとすれば、それは見積書の名目をどう書くかという問題と変わ

らない。本当は、パートナーが人身売買の対象であり、ただの紙切れである免罪符は当

然ながら無料だという事をすり換えて言っているだけなのかもしれない。

 「ところで免罪符だけど、高すぎて買いようがないよ。」

 「そうですよね」

 

 そこへ店員が割って入ってきた「パートナーをお求めの方には免罪符を無料で1枚お

付けしております」

 「ただより高いものはない」

 「では、免罪符はパートナーの被覆とお考え下さい。彼女が来ている服の様なもの

です。免罪符を取り払えば彼女は裸になりますが、それは店が行うことではありません。

お求めになられた方ご自身でご判断いただいております」

 幸運なのだろうか。上手に交際相手を押し付けられたのだろうか。だけれど、どう考

えた所で僕が独り身であることに変わりないのだから、ここはパートナーを得る一手で

ある。

 「両方ともください」

 「ありがとうございます!先ほどお買い上げの松明などはすべて返金致します。品物

はそのままお持ちください」


 商品を持ち手つきの箱に詰めてもらってる間、近くのソファーに腰かけた。電車のロ

ングシートを3人掛けの長さに縮めて、生地を黒くしたものだ。女が隣に座ってきた。

 「よりかかっていいですか」

 「いいけど」

 女が僕の左肩に頭をもたれてきた。つむじのあたりが耳の下に触ってくすぐったい。

彼女は梱包を手伝わない様だ。(『彼女が「商品」だからだろう』と考えかけて、僕は

その言葉を頭の中で必死に消去した。)

 店員がやってきて僕の右脇に購入物の箱を置いた。僕はその箱を右腕で抱きかかえた。

左腕は彼女がのしかかってくるので動かすことができない。緊張していたからだ。


 「ご出発はあちらからでございます」店員が言った。どこにさ。店の入り口の扉がひ

とりでに閉じた。その後で奥の扉の閂が自動的に外れた。

 「さっき入ってきた方から帰りたいんだけど」

 「戻ることはできません」

 僕は立ち上がろうとしたが、女の子が寄りかかってきており動く事ができない。別段

彼女が重たいわけではない。いつの間にか催眠術にでもかかった様に体が呪縛されてい

たのだ。

 「お客様は黒檀の缶詰をお買い上げになったではありませんか。早速ですがソファー

の脚にセットさせていただきます...」かろうじて動く首で後ろを振り返ると、店員は脚

一本ずつに缶詰を取り付けた。脚の切り欠きに横から缶を差し込む構造の様だ。

 閂の外れた扉が重く開いた。向こうにはトンネルが続いており、両側の壁には等間隔

で壁に埋め込まれたろうそくが灯っている。先は真っ暗だ。

 「それでは行ってらっしゃいませ」

 店員がソファーの背中にあるボタンを押すと、6個の黒檀の缶詰へ一斉に缶切りの刃

が下から突きあがって缶詰が回りだす。缶切の刃が少し傾くと切り抜いた蓋が持ち上が

り、黒檀がストンと脚の内部の空洞に落ちていった。空洞の中でイグナイターの音がカ

チカチすると、揮発性の油のにおいに合わせて木刀の焼けこげる匂いがした。脚の下か

らバーナーの様に炎が下に向けて噴射され、ソファーが浮かび上がった。

 ソファーの前方が持ち上がり背中が後ろにそれた。次に後方が持ち上がると前のめり

の姿勢となった。ソファーはヘリコプターの様に前に進み始め、閂の扉をゆっくりくぐ

り抜けると、重たい扉が勢いよく、地震の縦波が突き上げた時の様な恐ろしい音を立て

て閉まった。

 

 ソファーが動き出すと元の水平姿勢に戻る。僕はストップウォッチで10秒を数える

様に壁の灯が目の横を通過する時間間隔を測定する。約10メートル間隔を10秒。歩

くより少し遅い。女はよりかかったままだ。いつの間にか寝ている。彼女を揺さぶり起

こそうにも、僕は体をうまく動かせない。


 トンネルを少し進むと外に出た。つづら折りの坂道に差し掛かり、昇っていくと小高

い踊り場でソファーは止まった。快晴の空に乾いた冬の風が吹き、唇が乾く。およそ青

色というものをはじめて認識した時の感覚がよぎった。なにかの会話が聞こえるけれど、

意味は分からない。動物の鳴き声なのだろうか、いや意味という言葉の意味すら分から

ない状態だった。

 風が止んで、体とソファーが温まる。心地よさを感じながらとソファーはまた動きだ

した。あまりの安らぎに僕はまた眠ってしまった。

 

 「いらっしゃいませ」

 黒猫屋の声がした。

 気が付くと僕は、松明と黒檀の缶詰、そして免罪符を手にしていた。全部、黒猫屋の

ロゴが印刷されたビニール袋にごちゃまぜに押し込む様に入っている。それ以外の変化

といえば、さっきまで履いていた靴がサンダルになっている事だ。

 女の子はいない。

 店のメニューを見ると「パートナー」の文字が消えている。店員に確認したが、最初

からそんなものは売っていないとの事。そんな人権問題になることを店がするわけがな

い。勝手に話をでっち上げられて迷惑そうな顔をしていた。

 女の子は夢だったのだろうか。むなしい。しばらく僕はソファーに座ったまま、うつ

むいていた。

 

 「!」

 

 後ろから女の子の声がした。

 「あなたも免罪符をお探しですか」

 店員ではなく客の様だ。

 「さっき購入した”らしい”けど、知っててこの店に来たわけじゃないよ」

 「?...そうですか、私も免罪符を買いに来たんですよ。偶然でしょうね」

 「私も」と女の子は言うけれど、僕には免罪符を購入できる店についての予備知識が

なく、彼女にはそれがあったから、その点でお互い話の入り口が違う。だけれども、今

の僕に必要な知識とは、衝動買いとは言え購入してしまった免罪符の有効な使い方につ

いてであって、入手のきっかけではない。だからそんな些末なことを指摘する気にもな

れなかった。

 

 「免罪符をなんに使うの」

 「私ね、原虫に追われているの」

 「原虫ってなんだい?」

 「起きている時に人を操るの。世界が鏡になるの。すべてが既視感として現れる事が

あるのよ。寝ている時に夢にでてくる事もある。現実の世界のすべてに紐をつけて操る

人形師の事。人形師自体に善悪があるのかわ分からない。私の心にあるものが映し出さ

れているのかもしれない。そうであれば原虫は心に巣食う虫なのよ。実体を見たことは

ない。人形師も結果として私が心だと思っている場所に映る影像かもしれない。」

 「何の事か、さっぱりだね。」

 「いいわ」

 「でも、心の在りようが結果を生み出すという事であれば分かるけどね」

 「私にも確証はないわ。私は結果すらも幻として見ているだけなのかもしれない」

 いったい僕はこの女の子と対話をしているのだろうか。あるいは二人で行う独白など

という事が可能なのだろうか?不思議な接続に見守られて、何も躊躇することなく"二人"

の会話は進んだ。

 「もし」

 「?」

 「心が言葉の宿る場所だとすれば、私は生まれる前の雛鳥だわ。真珠質の内側ででき

た殻の中で言葉が生まれて、孵化の瞬間に世界が再構築されるのならば、私は大いなる

言葉の風の一つとなり、死ぬために孵化するのでしょう。」

 「ただの諦観かもしれない。」

 「あきらめとはまた違うわ」

 「たった一つの言葉になるために君は死ぬのかい。」

 「そうかもしれない、違うかもしれない。確実なのは、まだそれが実現していないと

いう事。」

 諦念があるのならば、願望の火は消えてはいまい。

 原虫などというものがあるとすれば、言葉を生み出すための苦しみそのものか、その

苦しみを与える何者であるか、あるいはもっと漠然とした「何か」ということになる。

彼女のいうことはまだ要を得ないが、そのいずれかなのだろう。 そうであれば免罪符

とは何だろうか。罪を遠ざけるための札なのか、敢えて知恵の実をもぎ取って唇に触れ

るための入園券なのか。あるいは...。

 「!」

 彼女が僕の名前を呼ぶ。

 「あまり難しいことじゃないわ。感じるだけであとは全てが望み通りになるの。」

 「罪から解放されたいのかい。」 

 「そうね」彼女はただそう答えた。

 

 今目の前にあることが、後でやってくる結果の方から呼び起こされた事だとすれば、

彼女は最初から答えを知っており、今はその未来に向けて、来るべき影像の立場から

現在をして立証せしめんとしている事になる。そうであれば確かに彼女は人形であり、

彼女もしくは彼女の認識を操る糸を垂らしているものは、「『人形使い』あるいは

『何か』」である。

 罪から解放される事とは、そもそも何かをすることなのか、何もしないことなのか、

そう考えて僕はふと気がついた。何かをするかしないかという二択思考とは、全く労働

に対する防衛反応の様なものであり、決着としての罪からの開放に対しては何んら効力

をもたない堂々巡りなのだ。そうであれば彼女は、自分の生き方を肯定するとも否定す

るともせず、生きながらにして死に、死にながらにして生き、在りながらにして無く、

無いままにして在るという状態を選び続けている事になる。もしかすると、彼女が男に

して女であり、女にして男なのであれば、相似的に彼女は僕であり、僕は彼女であり得

るのだ。

 

 だけど僕が彼女と等価だとしても、べつに僕は女になりたい訳ではない。彼女と一緒

に居たいだけだ。第一、等価だなんて根拠もない。

 もし僕が彼女に全く包含される存在なのだとすればどうだろう。僕は女である事を否

定できないし、この場合「原虫」とは僕の事でありうる。確かに、僕が原虫となって、

彼女の心を包囲するほどの幻を見せることができるのであれば、彼女は僕を包含し、僕

は彼女を包含し、お互いにしっぽを飲み込みあう2匹の蛇であり、あるいは相互に吸い

込みあう2つのクラインのツボなのだ。

 罪がそれ自体で閉じた構造を持つ大きさの無い空間だとすれば、僕らは2人でたった

の1人だ。

 だとしてかけがえのない1人を2人に分断することがどうして罪からの解放と言える

のだろうか。

 もし「免罪符」がこの2つをばらばらに分かつものなのだとすれば、こんな札は永久

に罪から解放されないための枷でしかないのだ。

 僕はどうしてこんなものを「買ってしまった」のだろうか?

 

 

 「もしもし」

 彼女の唇がかすかに開き、ささやく様に僕の耳元へ空気の塊をぶつけた。

 その声を聴いて僕は、循環的な仮説へと没頭するあまり、まったく彼女と同化した自

分しか想像できなくなっていた事に気が付いた。

 

 たしかに、この女の子はかわいい。映像や論理などではなく、ただ愛おしさを感じる

子だ。そういう感情を論理にしようすれば、どうしても最初も終わりもない、果てしな

く細分化された言葉が必要となり、その量に圧倒され、疲れ果てて気絶してしまうこと

だろう。

 恋なんて時間を相手に永久の一時停止を申し入れる様なものだ。止まった時間の氷の

上で、因数分解と展開を延々と繰り返す。その不毛な回転の生み出すわずかな、隠れ家

ともいうべき面積に二人の居場所を確保しようとするのであれば、二人はかならずや逃

亡者にならざるを得ない。溶けない氷などないし、時間自体に敗北など有り得ないの

だから...。

 今やぼくは停滞することに負けたただの子犬だ。この子を好きだという気持ちを永久

に保留することなどできない。そうであれば一つになりたいという気持ちを伝えられず

にいられようか。気持ちを伝えること自体が儀式で、儀式が時間の次元を持つ長大な線

路なのだとしても、それが恒星にぶつかり溶ける先に身を投じてしまうことに何のため

らいもなかった。恋が身を焼くほど苦しいものだという事に根拠はないし、苦しいから

恋だという事も言えない。けれども、少なくとも苦痛を忘れてしまえうための魔法であ

ることに違いはなかった。これがすなわち罪から免れるという事なのだろうか。恋と

はすなわち逃亡なのだろうか。

 

 

 「外に出ませんか」

女の子がそう言った...と思う。自分の思考にとらわれて彼女への認識がおろそかになっ

ていた。

 「いきましょう」僕はただそう答えただけだった。


 「たしかに」この女の子はかわいい。だけど僕はなぜそう思ったのだろうか。

確かに?何が確かなのか。そう思うのだとすれば確証に至るまでの途中段階がなければ

ならない。それは夢の中で出会ったパートナーのことなのだろうか?分からない。夢が

確証を与えることなどあるのだろうか。

 もし人間に確証を与えるものが夢でしかありえないのだとすれば、僕は夢に恋して、

現実の女の子に憐憫の情を感じて、またその中に夢を見出そうとしているのかもし

れない。なぜなら堂々巡りが現実の中だけで完結しているという証拠はないからだ。

 僕と夢とはバトンの端と端の様に、いつまでもお互いを廻りながら追いかけているの

かもしれない。

 

 

 「椅子に座りませんか」

女の子がそう言った...と思う。この子は現実だ。

 店の奥には長椅子があり、その前には木の扉があった。僕が右、彼女が左に座った。

長椅子の足をまさぐると、くぼみがあり、僕はそこに黒檀の缶詰をセットした。椅子は

浮かび上がり、わずかな高さで空中をふわふわと上下した。 ひじ掛けには「新しい時

間の創造」とかかれたクレーンゲームの様な大きなボタンがあった。僕は迷わずそれを

押した。椅子が前へと滑る様に走り出し、木の扉が自動的に開き、誘われる様に暗い通

路を進みだした。

 通路には松明があり、等間隔に並んでいる。1つ、2つ、...僕はその時間間隔を数え

る。その間隔は次第に短くなっていった。10の次が100で、100の次が1000

で、あまりの速さに逆方向に走っているかの様に思えるほどだった。

 

 通路の先に光が見えた。その次の瞬間には僕と彼女は椅子から放り出されていた。

 その衝撃でしばらく僕らは、うつぶせのまま起き上がることができなかった。

 

 熱い、熱い。

 出口だと思っていた光は、太陽ではなかった。僕はようやく頭を持ち上げると、目の

前には洞窟と溶岩と地底湖が広がっていた。

 湖は青い光を放っていた。魚はいなかった。

 のどが渇く。

 僕らは湖の水を手ですくって飲んだ。まざりっけの無い味。硬度のとても低い軟水だ。

 水を飲むと僕の体が青く光った。彼女の体は光らなかった。これがチェレンコフ光で

あれば僕は数時間もすれば死ぬレベルの被ばくなのだろう。だけど、この水を飲む以外

に灼熱の壁に張り付いてその硬い皮膚になることから解放される術は今やないのだ。

 洞窟を進もう...マグマに向かって...その噴出に乗ることができれば、僕らは死んで

外に逃れることができるのだ。

 僕らは床と壁を、壁と天井を、天井と壁を、壁と床とを歩いた。黙々と、雲の上にで

もあるはずの故郷を目指す様に。ほどなくして分かれ道に突き当たった。僕が右だとい

うと、彼女は左だと言った。僕は自分の思う方向に進んだ。彼女はもう片方の道を進み

だした。彼女がどんどんその道を歩き始めるので、僕は道の分岐まで戻って、彼女を追

いかけた。彼女は走って逃げだした。どんどん、どんどん遠ざかっていく。道は急激に

右に折れ曲がり、彼女はその向こうに消えた。僕がやっとのことでその角を曲がると、

その先には火消し壺が置かれてありその下には彼女の靴が落ちていた。

 

 僕は火消し壺の蓋を開けた。...何もなかった。

 彼女はどこに消えたのだろう。僕はその場に立ち尽くした。

 

 蓋をもう一度しめて開けなおしたが、やはり彼女はいない。

 壺を持ち上げてひっくり返したけれど、木炭の灰粉がすこしだけ舞うだけだった。

 通路を少し戻って振り向いてみた。火消し壺がある。そっと近づいて勢いよく

 蓋を開けた...やはり誰もいない。

 

 また一人になってしまった。

 

 

 僕はしばらく通路を進んでいた。自分の選んだほうの分岐だ。遠くで炎が見える。近

くからも溶岩の熱が伝わっているはずだが、殆ど感じない。真夏の暗い田んぼの中をど

こまでも蛙に追いかけられながら帰路につく気分。戻る先もよくわからない。単に、こ

の洞窟から脱出しようという漠然とした目標があるだけである。

 

 「もうどこにもいやしないよ。消えたんだ!」

 道の奥から黄色い帽子の男の子がやってきた。

 「やあ、おじさん!いやお兄さんと言わないと失礼かな。その手に持っているものを

見せてよ?松明と免罪符だね。大事にしなよ。もちろん免罪符が一番大事で、松明はそ

の次さ。」

 僕は男の子に免罪符を見せた。そんなに特別なものなのだろうか。

 「これは正真正銘、黒猫屋の免罪符だね。携帯のカメラで見ると赤外線で猫の絵が浮

かび上がるから。」

 「真贋なんてあるのかい」

 「あるよ、黒猫屋の免罪符はいつも一番さ。この間も偽物の免罪符で騒ぎがあったけ

ど、黒猫屋の評判は落ちることがなかったね。印を見極めることのできない奴だけが、

偽物をつかまされたのさ」

 僕も自分の携帯をかざすと猫が浮かび上がった。カメラで撮影している様に見せかけ

て別の映像を見せているわけではなさそうだ。男の子の言うことは正しそうである。

 「もう一度言うけど、それを大事にしなよ、じゃあね」

 黄色い帽子の男の子は消えた。

 

 男の子が消えると、本当に誰もいなくなった。

 この世界には本当に人間なんているのだろうか。

 

2.カモメ

 火消し壺の灰を一握りだけ、袋に入れた。袋は黒猫屋で買った物の入った、店のロゴが

印刷されたビニール袋。商品だってぐちゃぐちゃに詰め込まれている袋なのだから、い

まさら中身が灰まみれになったところで、大した違いはない。

 彼女が消滅した事は不幸なのかもしれないし、あるいは幸福なのかもしれない。もし

あのまま彼女の進んだ分岐を進んでいたら、僕は溶岩の中に落ちていたかもしれないのだ。

根拠はないけれど、みぞおちのあたりに、きっとそうだという確証を感じる。

 急に灼熱の感覚が身体に戻ってきた。僕は今のところ生きている。脱出しなければな

らない。だけど通路は一本道だから前にすすむしかない。横穴を掘るにはあまりに労力

がかかるし、道具も術もありはしなかった。

 少し進むと人形が落ちていた。等身大の裸の女。天井にくっつく様に浮かんでいる。

ヘリウム入り風船の様だ。寂しさのせいか、僕は人形を取りわきに抱えて進んでいった。

 もう少し進むと行き止まりになった。どうしよう。分岐からはだいぶ遠くまできた。

戻ってあそこからやり直すのか?もしかすると溶岩に下っていく、もう一方のあの分岐

の方に...とてもそんなことは出来やしない。

 いや。

 上を見上げると縦方向に大きな穴が空いていた。僕は携帯のライトをかざしてその深

を確認しようとしたけど、真っ暗で何も見えない。空洞は相当大きなものの様だ。

 さっき拾った人形で上まで飛んでいけるのだろうか。だけどたった一体では浮力が足

りない。

 「*p!」

 洞窟の向こう、今まで歩いてきた方からとてつもなく低い共鳴音がした。擬音で表せ

ばヴォーという音。何度か鳴った後で、大砲の様な熱風が飛んできた。僕は空洞の上に

飛ばされる。とっさに人形へとしがみついた。体が渦を巻きながら上のほうへ吸い込ま

れる。いまやこの人形は落ちない様に空中へしがみつくための浮き輪代わりだ。手を離

せば奈落の底に落ちる...。

 身体はどんどん上に上がっていく。熱風で割れないだろうか。人形次第だ。

 

 上に光が見えた。

 もう少し耐えれば脱出できる。

 人形の手足が伸びてきた。割れずに、持ちこたえているけど、伸びた個所からガスが

抜け出している。光までもうすこしなのに、届かない。ついに人形の足に穴が開いた。

人形から笛を吹く様な音がした。

 擬人的に言えば、人形は最後の力を振り絞って、ガスを噴出することで上昇力を生み

出したのだった。みるみるしぼんでいく。光の穴に突入すると同時に完全に抜け殻に

なってしまった。

 光の穴は火口だった。僕は勢いよく外に放り出された。

 脱出しても、このまま火山の地面に叩きつけられるのだろう。飛びたい。

 するとカモメがやってきた。僕はその足にしがみついた。カモメの右足が僕の右手、

左足が左手。ゆっくりと滑空していく。

 

 火口を周回すると周囲は海であることが分かった。火山島だ。

 青く切ない海。

 

 青を見ると、意識が何もなかった詩的な世界の頃に戻るのはなぜだろう。およそ人間

の目では見ることのできない、ごく淡い色彩変化の連続が、人間の持つ視力の限界を

はっきりと浮かび上がらせるからなのだろうか。澄んだ色の水の精霊が無数に空に向け

消えていくことで、無彩色の世界は鮮やかに色づき、精霊は世界を形作る......。

 人間には水の精霊を見ることはできても、色なんて幻なのかもしれない。だから空の

淡い色に一生懸命目を凝らすことで、精霊一つ一つの新たな誕生ともいうべき消滅を見

収めようとするのだ。

 そう考えると途端に寂しさが込み上げてきた。

 人間に見ることができるものはごくわずかだ。

 なぜ、この世界に人がいないのか。世界そのものが空虚だからなのだろう。

 

 ―いや、精霊が消えるなんて事はない、単に姿を変え続けるだけだ―

 どこからともなく声がした。

 

 独楽に巻かれた紐の様な軌跡を描き、僕はカモメにぶら下がり、火口をらせん状に

下っていく。日の当たる斜面と影の側とが交互に現れ、ふもとまでたどり着いた。午後

三時。

 地面に立ち、太陽が次第に傾いていく方向を向くと、右手に道が続いていた。けもの

道というよりはもう少し広く、自動車が1台通れるぐらいの幅だ。遠くに薄青く海が見

える。

 海の方に下って歩いた。日が暮れそうな頃に村が見つかった。入り口のアーチから

松明の明かりが等間隔に続いている。

 火口を出て以来、いや黒猫屋を出発してから何も口にしていないことを思い出した。

 ゆるやかな坂を上ると食堂があった。僕は焼いただけの麺を注文した(それぐらいの

簡単なものしかメニューにはなかった)。食べ終わると、そのまま反対側の村はずれに

ある宿に泊まった。

 僕はしばらくこの村に滞在することにした。

 海行きの電車に乗り、海岸で石を拾い、食堂で軽食を取り

 山行きの馬に乗り、池を一周して村に戻り、食堂に行き

 自転車を買い、海に行き、山に行き、昼寝をして、夕方に食堂に行く。

 単調な生活が続いた。

 

 石が風化して砂になる以上の速度で何かが変わることのない村では、変化を作り出そ

うにも、自分が石にでもなる以外の方法で、その緩慢さをせめてもの音楽として楽しむ

ことは出来そうにもない。そんな事を考えながら、もう少しで高い岩場に出る海への道

を歩いていた。

 見晴らしの良い岩の上に座り、ポケットから取り出した最後の十円玉を食べる。奥歯

が感触もなく硬貨を突き抜ける。味はしなかった。

 食べ終わると僕は立ち上がり、また歩き出す。するとやにわに、地面に埋まった小石

に躓いて僕は転び、使い古して両足とも先っぽが笑う口の様に裂けたサンダルの底が、

ついにどちらも剥がれてしまった。

 すりむいた膝を抑えながら立ち上がると、僕は地面に立っている感覚がないことに気

が付いた。エアーホッケーのパックの様に、僕は地表からわずかに距離を保ちながら

立っている。

 

 サンダルの底がはがれれば、その分だけ宙に浮かび上がるのだ。

 どうして今までこんなことに気が付かなかったのだろう?

 

 このまま海へ行ってみよう、と思った。ただそう、そう頭の中で言葉にしただけで

サンダルは進みだした。

 最初はゆっくり、半クラッチをつなぐ様に慎重に、一速、二速...徐々に加速していく。

 向こうからマラソンの学生の列が走ってきた。僕とぶつかりそうになると、列はファ

スナーの様に二手に分かれて、僕の後ろでまた一列につながって行った。

 三速、四速...マニュアルカーの様に無駄のないダイレクトな駆動感。

 サンダルは北に向かっている様だ。携帯のコンパスを見ると、西に七度と少しずれて

いるから、真北ではなく北磁極の方だ。

 サンダルは加速していく。五速、六速...帰巣本能に忘れられた夜の高速道。七速、

八速...崖に差し掛かる。

 九速、十速...ついに足元から地面がなくなった。僕はこのまま落ちてずっと下の岩

礁に叩きつけられるのだろうか。

 そこにカモメがやってきた。僕はその両足にしがみつく。岸壁から大きく離れ、後ろ

を振り向くと、どこまでも遠く断崖が続いていた。

 

 あまりの高さに僕は気を失ってしまった。

 

3.サンダル島

 気が付くと、僕は海岸に倒れていた。波に合わせて丸い石が転がり自らを洗濯してい

る。どれほどの時間をかけて集まった石なのだろうか、電気泳動の様な力の働きなのだ

ろうか。

 空を見上げると真っ暗だった。星はたくさん見えるけれど、見たこともない星座で

埋め尽くされていて、知らない流れ星が次々に落ちていくのが見えた。

 小高い丘が見える。丘の上を見ると窓明かりのない家の影が星明りに浮かんでいた。

その横からは虫の柱の様なものが夜空に向かい立ち上っている。

 何だろうか。丘を登って行った。向こうに女の姿が見えてきた。虫の柱のなものは

その人から放たれている様だ。

 家に近づいてみた。何のひかりもない真っ暗な家。壁に窓枠はあっても扉ははめられ

ていない。家というよりは廃墟である。

 女は庭に立ち、足にはサンダルを履いていた。庭にはきゅうりの様なつる草が生い茂

り、その先には小さなサンダルが実の様にたくさんなっていた。実は2つずつが対に

なっており、それぞれ右足と左足の形であった。

 女は実の中から自分の足の大きさまで育ったものを見つけてはもぎ取り、夜空に向け

て放っていた。弦から切り離されたサンダルは綿毛の様に浮かび上がり、次第に高く

舞い上がる。女が休みなくそれを繰り返すので、サンダルは隊列をなして上に登って

いく。煙の様であり、龍の様でもあった。

 僕は女に声をかけた。めったに人と話したいと思わない僕だが、この女には何も抵抗

感なくそれができるのだった。女は「何でしょうか」と答えたがこちらを向くことはな

かった。僕は女に近づいて顔を見た。整った顔だけれど、視線というものが無かった。

 瓦礫の町で拾った溶けた窓ガラスの様な目。

 「(...これは義眼だ)」

 女は目が見えない様だ。だから僕の言葉の方に顔を向けないことでその事を伝えてい

たのかもしれない。

 「何をしているの」

 「...」女は井戸の水を汲み、たった今弦からもぎ取ったサンダルの実にかけた。サ

ンダルの実は青く光った。

 「そのサンダルは井戸の水で光るの」

 「そうよ」

 「水をかけなかったらどうなるの」

 「産まれないままよ」

 「...よくわからない」

 女は青く光るサンダルを左右対に持つと、空に放った。最初は弱々しく、次第に加速

し、高く舞い上がると遠く小さくなり、ついに見えなくなった。女は次のサンダルをもぎ

取り同じ様に空に放った。

 サンダルはどこに行くのだろうか。僕がそう思っただけで女が答えた。「どこかの瞬

間の色だわ」途方もない答え。女が飛ばすサンダルとは僕が目を凝らして自分の目に見

た海の色の青いノイズの様なものなのだろうか。

 目の前に一組のサンダルが飛んできた。長旅をしてきたのか、薄くすり減って、鼻緒

も切れかけている。ようやくの事で地面に降り立つと、張り詰めた鼻緒がしぼむ様に垂

れ下がり、そのまま動かなくなった。

 「死んだのか?」

 「サンダルだもの、死ぬとか生きるなんてないわ」

 女は動かなくなったサンダルを持ち上げて地面に埋めた。その上で新しく小さなサン

ダルの実がなった。そしてまた成長した実を見つけては水をかけ、空に放つのだった。

 サンダルの群れは一列になったかと思えば、平面の格子状にならんだり、立体格子に

ならんだり、球状に集まったり、渦を巻いたり、てんでばらばらにならんだりしながら

次第に夜空に溶けていった。

 

 天上からは極光がさしていた。冷たかった。見えない目で遠ざかるサンダルを見つめ

る女は祈る顔で星々へと彼らを迎えいれてくれる様に懇願するかの様である。2時間前の

焚火を見る様な遠く寂しげな目だった。

 円は円に沿ってみれば無限の直線だ。球は球の表面を動く限り無限の平面だ。無心に

祈る気持ち。ゼロをゼロで割り算する。

 

 昇天するサンダル...。

 昇天といえば、僕は免罪府の事をすっかり忘れていることを思い出した。黒猫屋で

パートナーの付属物としてもらったものだ。いまさら必要ないし、しかも免罪符は3枚

もあるのだ(黒猫屋は1枚だと言っていたが実際には同じものが3枚重なっていた)。

あのパートナーの女の子が生きているのか死んでしまったのかは分からないけど、彼女

が消えてしまったのであれば、その1枚だけでも供養すべきだろう。

 

 「あなたのサンダルはボロボロね」女がそういった。ここで言うサンダルとは何の事

の事だろうか、と思いかけて、自分の足元を見て気が付いた。僕が今はいているものは

底がなくなって薄っぺらくなった文字通りのサンダルである。

 「あなたのサンダルも脱いで飛ばしましょう」女が僕の頭に直接語り掛けてきた。僕

はその通りにした。ついでにサンダルに1枚免罪符を貼り付けて...。水をかけると

青く光った。底の厚さも元に戻った様に見える。僕は裸足だ。サンダルは夜空に消えた。

 僕は代わりのサンダルを蔓草からみつくろって履いた。普通のものとなんら変わらな

い。

 だけど、水をかけなければ生まれなくて、死ぬとか生きるなんてない物、とは何だろうか。

 サンダルは無生物だから人間とは違う筈だ。だけどサンダルが意識を持つとしたらどう

だろうか。意識を持つことがすなわち生まれることなのであれば、水を掛けられる事で

意識に気がついたサンダルは生まれながらにして生死などない事になる。

 僕が青い海を見て極めて刹那感じた精霊がこのサンダル達の生まれ変わりなのであれば、

ひいては魂を吹き込まれた後の精霊を人間と言うのだろうか。

 人間が自分自身で思う生死など幻でしか無いのだろうか。

 無生物に命を与える母というものに原型があるのだとすれば、それが実態の形を得て

自分の母親の姿となり、母の原型はまた僕にも命を与え、僕の姿を形作る。世界は絶えず

流転する精霊に満ち溢れていて、そこに命を注ぎ、精霊でもある僕の体を動かす。


 「殆どのサンダルは戻ってこないわ」

 女が不意にそう言った。「水をかけても育つとは限らない。青い光もすぐに消えてしまう。

暗い空の中で自らの光を失い、迷子になって震えながら消滅するの」

 「見たことあるのか」

 「なんどとなく。光を失わないのはごくわずかだわ」

 

 サンダルの1つ1つが小さな宇宙なのであれば、成長していく宇宙もあるし、消える

宇宙もあるということになる。小さな宇宙が重なって大きな宇宙を作っている。その外

側も同じ構造の繰り返しなのかもしれない。牧神は再帰的に存在し得る。

 水の精霊というものがこの小さな宇宙ひとつひとつなのであれば、小さな宇宙自体は

無精卵の様なものであり、ごくわずかに受精した宇宙だけが光を放つのだろう。大多数

を占める無精卵のままの宇宙は有精卵となった宇宙の形を支える。

 「やっぱり、戻ってきたサンダルは生きていたんじゃないのか」

 「サンダルに帰る場所なんてないのよ。あのサンダルはついに産まれなかったの。

産まれる事を拒んだのね」

 

 産まれなかったサンダルはまたサンダルの実になる。

 

 「産まれたサンダルはどうなるのさ」

 「どこかで星になるわ。惑星を従えることもあるし、星だけのこともある。いくつか

の星があつまってお互いに群れることもある。それらがさらに巨大な集団を作り、この

宇宙世界の大きさを決めていくのよ」

 「家族の様だ」

 「人間の世界にはそう映る。星の世界には惑星系や銀河に映る。たった一つ産まれた

サンダルが無数の似かよった像を作る。」

 「亡霊みたいなものかね」

 「亡霊だらけ。でもあなたは実在だわ」

  宇宙はたくさんあるけれど、1つだけでは大きさなどなくて、たくさんの宇宙が重なって

幻を生むときだけ大きさが存在するのかもしれない。

 「ならば、産まれる前の僕はサンダルだったのかな」

 「あなたはサンダルではなく、水の方ね」

 「そういうものかい」

 「...そうよ」

 何のことだかわからないけど、きっとそうなのだろう。もちろん確証などないけれど、

話す前から心を読み取る女だから、疑ったところで、その疑いごと僕の方が包含されて

矯正されてしまいそうだ。

 「もういちどサンダルに水をかけて飛ばしましょう」

 僕がサンダルの実をもいで井戸の水をかけると、サンダルが青く光り出した。

 「そのまま見ているとわかるわ。あなたの真似をするわよ」

 しばらくすると、サンダルは僕の様な形になり、ゆらゆらと揺れだした。僕は直立すると

かならずふらふら揺れる癖がある。

 僕がすわるとサンダルも座った。僕が笑うとサンダルも笑った。

 「かわいいでしょ?」

 「変な気持ちだ」

 「でも寂しくはないはずよ」

 「そう、かもしれない...」

 僕は慰められたのだろうか。

 

その後、少しだけ打ち解けた「僕」は消えてしまった女の事を話した。「きっと生き

ているわ。もう会うことはないでしょうけど」との事。彼女も話をしてくれた。学校で

好きだったクラスの男に子に送った手紙とサンダルの事...。夜通し話した。

 

 水平線が生き返る様に明るくなりだした。僕の知っている太陽に近い色。なんという

名前の恒星なのだろう。

 「また会いましょう」と女は言った。

 僕は自分の足元に水をかけた。サンダルが青く光り浮かび上がった。明けの明星の様

に明るい空の点を目指して飛び始めた。女の姿は見えなくなった。島に朝が来た。

 サンダルは高度を増していく。光の雲を突き抜けて、成層圏を泳ぐ魚の様に、僕は両

足を揃えて宙を蹴る。島が小さく小さくなっていく。

 「サンダル島、風力3...」頭にラジオの声が響いた。

 

 高くから見るとこの星はほとんどが海の様だ。僕がこんど無数のイルカに生まれ変わっ

たのならば、頭を海に沈め、尾ひれをそらに向け、力を合わせて宇宙を蹴り、星の海を

進んでいこう...。

 

 「竜巻に注意してください」とラジオの声。

 突然下降気流に巻き込まれた。僕は失速して落ちて行く。固い水面に頭をぶつけたの

だった。

 

4.再生

 僕は目を覚ました。「ああ気が付いた」と母親の声。どうやら脳震盪で気を失ってい

たらしい。たった今の瞬間まで僕は自分の上では存在していなかった。

 天井を見ると蛍光灯と紐。紐の先には小さなサンダルのアクセサリーが結び付けて

あって、ベッドに寝ている状態のまま引っ張りやすい長さになっている。

 気を失っている間、僕は死んだんじゃないかと騒がれていたそうだ。医者を除いては。

 そういえば一人暮らしを始めてからというもの、母親の顔を見るのは初めてだ。「あ

なた、今日は死んだり生きたりしたわね」と言われた。まあ、そんなところだろうけど...。

 その日は実家に一晩泊まり、次の日は一人暮らしの自分の部屋に戻った。

 出発するとき、母からゴミ捨てを頼まれた。「火葬、土葬、鳥葬の順よ、今日は金曜日

だから鳥葬ね」

 生ごみの袋を捨て場に出した。ごみ袋にかぶせる鳥よけネットが無かったので、そのま

まごみ山の一番上に自分の持ってきた袋を積み重ねただけ。積んだあと、袋が自分の重み

で、溶けた時計の様に垂れ落ちそうになったが、そのまま静止した。安定した載置状態を

確認した僕は、そそくさとその場を立ち去り、駅まで歩いて行った。

 振り返ると、僕が遠ざかるのを見とどけたカラス達が、ごみ山に寄ってきて袋をつつき始

めた。一羽のカラスが山の一番下の袋を引っ張ると、今しがたぼくが捨てた袋が下に落ち

てくる。もう一羽のカラスがその袋をつついて破ると、鶏の骨付き肉の食べかすを引き当

てた。昨日僕が夕食に食べたものだ。カラスは肉を包む油取り紙を嘴で器用に外しながら

軟骨にわずかに付着した肉の繊維を食べる...。あんなものが旨いのだろうか?きっとそう

なのだろうけど。

 もっとも、鳥が残飯を掃除してくれるのであれば、彼らに任せたほうが良い。人間との

共存関係が成り立っているのだから、止める理由は僕にはない。

 僕は、掃除の一部始終をすべて見ることなく、そのまま帰路に着いた。

 

 たった一人の家だった。

 帰るなり僕は、玄関のドアを開けて、石畳の上に設置された下駄箱を開ける。部屋の

玄関の時計を見ると日曜日だった。今日は疲れているので、下駄箱にサンダルをしまって

そのまま寝てしまった。翌朝汗ばんだ状態で起きた。目覚ましにシャワーを浴びた。

 仕事に出かけよう。いつもの部屋に訪れたわずかな変化といえば、下駄箱の中身が全て

サンダルになっていたことぐらいだ。

 さあ、出ようかと思い、玄関の時計を見るとまだ日曜日だった。

 おかしいと思って仕事場にいくと誰もいない。電車もバスも休日ダイヤだ。やはり

今日は日曜だったのか。

 次の日も起きて出かけようとしたが、玄関の時計も電車もバスも日曜日を主張して

いた。次の日も、また次の日も日曜は続いた。

 月曜日はいつくるのだろうか。つまり働く日の始まりのことだ。

 労働とは何だろうか。社会の生産性を維持、または高める作業の事だとすれば、個々

の生存可能性を広げるための共済活動である。最も、個人すべてにおいてそれが求めら

れるかといえば自明ではないし、求められない事こそが最も完成された共同生活の形で

ある。

 僕は労働なんてまっぴらなのだ。そのうえ、僕は自分の生存に無頓着でありながらも

自分だけはいざというとき助かると思っている。僕に限らず、皆がそう思いこみながら

も、結果としてそれが成立することこそが真の幸福な社会であり得るからだ。

 だけど、このところ毎日日曜日が続いている原因が、労働からの開放ではなく、その

完成された幸福からの逃避願望が現実化したものであればどうだろうか。僕が求めている

ものは幸福なのか、不幸なのか?幸福だとすれば、以前よりもっと高い力のバランスの

上に成り立つ幸福だろう。不幸だとしても同じことが言えるから、僕は消極的な安定な

んて求めていないことになる。しかし労働はまっぴらなのだ。僕は自分が幸福であるか

不幸であるかなんてことには無頓着でありたい(「ありたい」に傍点)。

 そうだ、自分の幸不幸に無頓着でいられることが僕の望みなのだ。幸福なんて人間が

自分の中から定義するには荷が重すぎる...。だけど、人間以上の存在がそれを定義する

のだとすれば、僕はそこからも遠ざかりたいと思う。自由とは全く、徹底した矛盾の

追求を休まず続けることだし、その活動こそが僕にとっての真の労働なのである。

 せっかくだから日曜を楽しもう。一生懸命...いや緩慢に。

 

 僕は街でPCの自作用パーツを買ってきた。組み立ててネットワークにつな

ぐ。星占いやニュース、天気や地震の情報。そして今日の曜日も確認する...やはり日曜

だった。

 日曜を楽しむにしても僕は今のところ一人だけだ。このままだと僕は労働にすべてを

捧げたあげく、たった一つの痕跡も残せないまま寿命を迎えてしまうに違いない。要す

るに交際相手が欲しい。異性のである。

 手段はどうしようか。なぜか僕は端末をを自作してしまったので、これを使わない

手はない。ひらめきがひらめきだとわかるのは後からの場合だってある。

 

 メール掲示板に登録してみる。アカウントのアイコンには僕の自画像を使った。

シャープペンシルと色鉛筆で描いただけの絵。僕によく似て居るが、ネット上の仮想

人格であってあくまで僕ではない。僕のコピーだ。

 アカウントにはプロフィールも入力した。職業:会社員、性別:男、年齢:26歳、

住んでいる市(あまり細かくは書かない)。

 SNSでも良いけど、いきなり知らない相手からメッセージをもらったら防禦される

だろう。一対一のメールであれば、興味がなければ返事をしなくてもいいし、何よりも

秘密めいていて、恋愛に発展させるためには具合が良い。連絡手段はどんどん新しいも

のが登場してきているし、これからもそうに違いない。そのうちコピーの方が僕以上に

僕らしくなってしまうだろう。

 とりあえず異性らしきアカウントにメールを送ることから始める。僕の現実的な側面

が作動し始めた。

 

 1人目 看護学校生

 「はじめまして。僕は26歳の会社員です。プロフィール拝見致しました。お仕事は

  いそがしいですか?」

 「メールありがとうございます。仕事は...とても忙しいですね。なんとか頑張っています。」

 ⇒挨拶だけで返事は途絶える。実際忙しいのかな。

 

 2人目 アニメ好き

 プロフィール「私はロボットアニメが好きです。」

 「僕は26歳の(以下同文)..ロボットアニメのどんなところが好きですか?」

 ⇒返事なし。女かどうか怪しい。

 

 3人目 呉服店店員

 「僕は(以下同文)..呉服っていいですよね。大島紬とか結城紬とか。」

 ⇒呉服についてネットで調べただけの単語レベル知識で数回やりとり。その後、携帯の

 調子が悪いためメールできないとの返事があり、以降音信不通となる。まあ仕方ない。

 

 4人目 不明(趣味:散歩)

 今日の天気について書いてみたが、数日たっても返事なし。僕も送信したことを忘れて

 しまった。

 

 5人目 不明(趣味:映画鑑賞)

 今上映している映画の話を持ち掛ける(僕もまだ見ていないのだが)

 ⇒返事なし。

 

 6人目 不明(趣味:音楽鑑賞)

 音楽の趣味を聞いてみると歌謡曲との返事。僕はクラシックが好きと答える。

 「クラシックはよくわかりません」という答えが返ってくる。

 ⇒以降返事なし。

 

 7人目 美容師

 男のひとが好きな髪形を聞かれたので、ポニーテールだと答える。

 「男の人ってそうですよね。。」との回答。

 ⇒以降返事なし。仕事の参考にしただけなのかもしれない。

 

 8人目 ドライブ好き

 「僕は免許取り立てです。まだ車を持っていませんけど、ドライブは楽しいですか」

 返事「車買え~」

 ⇒愚問だったかな。

 

 9人目 同性の友達募集

 「男ですけど、メールさせていただきました。よろしいでしょか。」

 ⇒返事なし。

 

 10人目 コンビニ店員

 普通に自己紹介をすると向こうからも自己紹介の返事があった。日常の内容メールが

 1か月ほど続く。取り合えず会ってみた

 

 11人目以降は忘れた。とにかくメールを打ちまくる。僕は行動しだすと早い。

 あいさつだけなら返答率は半分程度。3回以上継続する人は20%程度。メールを送

りつけて返事をもらうなんて、川に行って竿でクジラを釣り上げる確率ぐらいだと思って

いたから思ったよりはずっと多い。

 コンビニ店員とはしばらく交際したけど、ある日電話にまったく出なくなった。家に

行ってみたがもぬけの殻である。部屋の中には雑草が生えていた。女の名前を呼んでみて

も返事はない。交際中はたしかにここに居たし、部屋に泊めてもらったこともあるのに。

 しばらくその部屋を見回してみたが、女の行方を知るための手掛かりは何もみあたらな

い。僕は雑草を抜いてその場に投げ捨てた。

 廃墟同然のこの部屋にはまた新しい住人がやってくるかもしれないけど、僕には関係

のないことである。

 釈然としないが、僕はその女の事を忘れる以外に出来ることがなかった。

 雑草は抜かれたことで、一層種を撒きちらしたのだから。僕は雑草にとっての恩人で

ありうる。確証を得る術もないし、得られるとう根拠もないのだが。

 

 気を取り直そう。今度はスマホでSNSの利用登録をする。アカウントにはメール掲示板と

同じ画像とプロフィールをつかった。一対一のやりとりもできるから出会い探しには十分だ。

しばらく人のアカウントを眺めては人間同士の距離感を目測していた。SNSの種類にも

よるけれど、僕の登録したサービスは、メール掲示板よりは人同士の距離が近い様である。

 数人にメッセージを送る。軽めの会話にする。

 

 1人目 靴屋店員(趣味:読書)アイコンは女性会員であれば自動的に設定される初期絵だ。

 「サンダルを新調したいのですが、右足だけ売っていますか?」

 「さすがに片足だけというのはありませんけど(笑)、たくさんありますよ。」

 ⇒しばらく連絡が続く。

 

 2人目 ホームセンターアルバイト店員

 アイコンは丸と棒で書かれただけの落書き人間。

 「面白い話が好き」との事。

 ⇒しばらく続く。詩と笑いネタをきまぐれに書いて送る。

 

 最初から話が通じる相手が見つかったので、メール掲示板と違い、今度は多くの人に

メッセージを送る気が起こらなかった。変わりつつある世界では、同じ道を二回たどる

必要はなさそうである。

 真っ暗闇で闇雲にメールを打っても返事は帰ってこないのに、今回は自動追尾ミサ

イルに進化した魔女のほうきを飛ばすかの様に、目を閉じていても文面が浮かぶし、

メッセージを送信する前から返事が来る確信があった。

 2人同時に文通というのは、嬉しいものだが、交際に発展させるためには、どちらかを

選ぶ必要がある。どうあがいたところで、僕は一人しかいない有限の存在だからだ。

 一か月ほどやりとりを続けた後、靴屋の店員と会う約束をした。

 会う段階になってようやく、僕はお互いの顔を知らないこに気が付いた。もちろんそ

んな事は、最初のメッセージ送信時点から考えなかった日はなかったけれど、そもそも

の出会いがテキストであり、顔や体格、地域縁、職場縁ではなかったので、相手の外見

についてはあまり重要度の高いことではなかった。なので「気が付いた」という言い方

をした。靴屋の女も同じ言い方を文面で返してきた。

 外見は文章に比べると情報量は多いといわれることもあるけれど、「うまくいく」と

いう確信の元では文章も同じだけの情報量を持つのだろうか。そうだ、情報の源は文章

から想起される領域、いわば文章を生み出す彗星のふるさとの雲の様な場所にある。外見

だって本質は同様だ。その人の姿形のもとになる時間なり場所なりがあって、その結果

として人が作られるのであれば、僕はその原型の領域を見ているのかもしれない。文章

だけだと余分な情報がないから、想像力が研ぎ澄まされて、現実がきっかけである場合

よりもよく相手の事が分かるのであろうか?もしそれが本当であるのならば、人間から

発せられた言葉は、文字の情報となった時点で、その人間の従属物ではなく、彼、ある

いは彼女の存在を決定づける支配者へとなるのだ。

 ―何かの暗示的な言葉が聞こえて僕にそう言わしめたのだ...水の精霊の消滅と生成を

想起したときとは反対の、もう一つの異なる声が―

 僕は自分の写真の中で一番写りの良い一枚を選んで、メッセージに添付して送った。

 「ありがとうございます、土曜日に駅で待ち合わせしましょう」向こうからの顔写真

の送付はなかった。

 僕も男だから、交際の目的には性的な関係への期待も多々含まれている。顔は知りた

いといえば知りたいし、肩透かしだったけど、もうすぐわかる事だから、今それを急ぐ

理由はない。時間が解決するさ。

 

 土曜日

 駅に行く。砂時計の砂の様に構造物の間を流れていく人々。僕はその中から動かない

砂粒を探さねばならない。

 僕は砂流の湧き出す噴水の前まで歩いて行った。人々が円形の皿に群り、ある人は皿

の端に腰を掛け、ある人は砂を浴びながら自らの姿の包絡形状を掌で確かめ、ある人は

砂に上半身を埋めて足をばたつかせていた。

 季節は冬、年末セールの時期だ。スカートをはいた女性のサンタクロースが足の血管

を紫色にしながら、笑顔でチラシを配っている。無理をしなくてもいいのに、サンタが

渋った顔をする訳にはいかないからというだけの理由でそうしているのだろう。

 僕は待ち合わせの場に軽装で来てしまったけど、いざ人と待ち合わせるとなると、吹

き抜けを通る風が冷たい。駅前広場の催し物会場で、半ば衝動的にフード付きのフリー

スを買ってしまった。準備不足だし、もったいないけれど、風邪をひいて医者にかかる

よりは余程ましだ。どちらに金を使うかというだけの違いであれば、形に残る衣服の方

が良い。数年は使えるだろう。

 購入の際に福引補助券を3枚もらった。5枚集めると1回だけ八角形の福引抽選機を

回す権利を獲得する事ができる紙片だ。とはいっても、あと2枚のために無理やり何か

を買う理由もない。こういう痕跡はただ捨てるのも惜しいから、財布の中にしまってお

いて、期限が切れて十分時間が経過したあとで、その他のレシートを帳面に記録する際

に、一緒にゴミ箱に入れるのが、いつもの僕なりの処分方法である。いまは取っておこ

う。

 人と出会う事は、期待すべき、もたらされるべき喜びであると同時に、空虚との邂逅

である。自分にない違った個性を知ることによって、その個性の見る世界の広大さを知

る機会でもあるし、再認識するためのまたとない時間の発見である。仮にその経験によ

って世界を形作る原型の片鱗がわずかに見えるだけであっても、自分が見た世界は明ら

かに彼にとっての、いや「私」にとっての事実であり、真理であるし、その望遠鏡を覗

く行為にしか自分のあかしを見出すことが出来ず、その行為そのものが自分の存在理由

であるのならば、出会いとは、まったく、完全な幸福そのものでしかない。僕はそのこ

とをただひたすら嬉しいと感じる。でもその外側はどうなっているのだろうか。途端に

何も無い世界が広がっているのかもしれないし、空間すらないのかもしれない。普段は

そんな事を考えるのも忘れているけど、出会いという有限の幸福への期待が高まるにつ

れ、突然透明な塊として僕の意識にぶつかってくるのを感じた。

 噴水の向こうには、向こうには、向こうには...。

 一人だけサンダルを履いて立っている女がいた。よく見るとわずかに宙に浮いている

のだが、周りの人達は気が付いていない様だ。

 僕はその女に近づいていく。この人がメッセージをやりとりした相手だろうか?確認

のために声をかける前に、僕は砂で手を洗った。砂から手を抜くと掌にも指の間にも何

も残らない。爪の間にさえ。粒は細かいのにまったく摩擦も粘性もない様だ。僕は刹那

自分の手が実在であるかを疑ったが、やはり手はそこにあった...。

 横目で女の足元をちらと見る。サンダルの下からわずかに砂粒の様な煙が吹き出てい

る。それが砂でないことは明らかだ。吹き出た粒は周囲に堆積せず、空気に溶け込む様

に、その端々へと消えているからだ。

 サンダルはよくあるフラットなものではなく、指先がキレイに見えるものだ。水引き

の様に交差する細い皮の紐が、アキレス腱や足の甲に合わせて巻いてあり、ちょうどけ

がをした人が巻く包帯の様に可動性を意識しつつも意匠性の高いデザイン。指の爪には

赤いペディキュア。僕はファッションデザインは知らないけれど、人体を熟知した機能

性のある形は自然と美しくなるものだから、コモンセンスの部分でただそう感じる。も

しかすると現在よりも進んだ科学による形状なのだろうか?そういう想像はたとえ妄想

であれ、楽しいものだ。

 

 「あの」

 「はい」

 「福引補助券が2枚あります。よろしければどうぞ。差し上げます。」

 「ああ、僕もちょうど補助券を3枚もっていますす。これで5枚だ。1回だけ回せますね」

 「あなたがどうぞ」

 「あなたも来ませんか。」

 「『喜んで行きましょう!』」女は歌い出す様にそう言った。何かのお芝居の様だ。

 ふたりとも体が抽選会場の賑わいへと向く。歩き出すと「あなたが『!』さんですね

?」「そうです」僕の本名だ。僕は返しに彼女の名前を聞いてみた。メッセージで聞い

ていた名前である。たぶん本人だろう。それにこの女の人がサクラであったとしても、

僕には奪うほどの財産もないし、夢中で財産を貢ぎたくなる様な怪しい雰囲気は感じな

い。第一印象でその人のすべてが分かる訳でははないが、今この場で立ち去るべき理由

となる危険性は感じない。

 福引所。僕の隣には誰だか知らない女。順番を待つ人たちの列。僕たちは最後尾に

立っている。一等は温泉旅館宿泊券。シテール島行きの乗船券は誰のもとに行くのだろ

うか?

 抽選の順番を待つ間、目の前で二等賞と四等賞のあたりが立て続けに出た。一等と三

等はまだ残っているらしい。

 

 一等 温泉旅館宿泊券2名様分(1名分×2枚)

 二等 ステンレス調理器具セット

 三等 利き酒セット

 四等 商品券

 

 順番を待つ間、僕は女と話した。旅行は好きか(彼女は好きらしい)、靴はどんなも

のを履いているか(だいたいサンダルだ)。女から見て男の出したラブレターはどう思

うか(嬉しいとの事)。女も自分が出したレターの事を話してくれた。誰宛てに出した

かは言わなかったけれど...読んでもらえたかも不明のままだということだった。

 くじ引きの順番がきた。抽選器の持ち手に手をかけ、すこし逆回転方向に回してから

勢いよく順方向に回す。樹脂のメスネジにオスネジを締め付ける時は、最初逆方向に回

してネジ山をストンと合わせてから、おもむろにねじ込んでいくとすでに切られたネジ

山を破損しない。いわゆる馬鹿ネジ防止の要領だ。福引には関係ないけど、運命を咬み

合わせる作業であり、要するにゲン担ぎである。

 金色の球が出た。

 一等だ。

 「え...」

 「すごい。」

 「まさか当たるとはね。」

 「お二人さん、運がいいですね。」福引所の係が手持ちの鐘を勢いよく鳴らした。

 「二人分の宿泊券だからどうしよう。5枚のうち2枚は君の補助券、僕が3枚だから

お互いに半分は権利があるよ」

 出会っていきなり温泉宿泊券。しかし2名分。福引で得たものなので、僕が全て引き

取って権利分の代金を彼女に払うのも変だ。

 「一緒に行こうか」と言ってみた。冗談でもこういう時は許されるだろう。

 「SANDALNIGHTさん(僕のID名だ)、家族と行って来たら?」

 まあそういうのが普通だろうか。

 「有効期限は無期限と書いてある。しばらくとっておくよ。」僕がそう言うと

女は別に否定する様子でもなかった。

 

 昼食。ハンバーグ定食の店に行く。2人ともサービスランチを頼む。値段は他の店で

食べる昼食と同じ程度だ。目の前で2人ぶんを同時に焼いてくれた。絵に描いた様な

ふっくらとした焼き上がり。

 「上から見た飛行船の様だ」

 「ああ、それいいわね」

 「ナイフを入れたら墜落しちゃうけど、食べよう」

 「ええ、そうしましょう」

 飛行船の屋根を突き破ると肉汁があふれてきた。鉄板の上で線香花火の様に飛び散る。

燃え上がるヒンデンブルグ号の様に美しい。

 「飛び跳ねる脂をじっと見ているわ。あなた面白いわね」

 「肉のエネルギーが燃えているんだ」

 「ふうん...」何かに関心した様なそぶり。

 ランチを食べ終えた。代金は僕が支払おうと思ったが、彼女が先に会計をしてくれた。

僕はただ「ご馳走様」と言った。直接的には食材および人件費、光熱費に

対する対価への返礼としてであるが、なによりも彼女と過ごした時間に対する感謝として

である。それで十分だろう。今度は僕が払おう。

 

 午後をどう過ごすか。

 町の中は物資であふれかえり、物思いにふける人たちが生活の形を夢見ながら商品を

手に取る。その人々を見ると、グレゴリオ聖歌の響きがどこかの過去から聞こえてきて

人間の形をなしているかの様に思えた。人の思いは必ずどこかの時代に漂着するからだ。

今、ぼくが目にしているものは、物質的な豊かさを求めていた人達が実体化している姿

なのだ。商品を買った人たちは、また夢の沼に沈みながら遠い幸福の記憶を呼び覚ます

ために、めいめいの家で、集団の祈りを重ねるのだろう。決して見えない場所で...。

 物質が街にあふれかえっているからといって、それらの作る空間が加算的だなんて根

拠は僕には見出せない。世界の大きさなんて本当はゼロであり、すべてが幻なのかもし

れない。現実である確証などどこにもないのだ。幸福とは幻影の維持であり、維持によ

り残響の再生を試みる遠い松明の灯である。灯がなければ夢を見ることもかなわない。

 ―マッチ売りの少女の話があっただろう?彼女は灯の中にこそ自らの生きた証を見出

し、誓いを立てたのだ。燃え盛るヒンデンブルグ号の炎の中に―

 つい今しがた、暖かなハンバーグを食べることができたのは、幻の中に浮かんだ幸福

の島でしか見ることの出来ない美しい涙に映った願望なのかもしれない...。この料理を

僕の目の前にいる彼女が作ったものであるならば...。

 

 現実の町と切り離された昼下がり

 孤島の家に僕は今立っている

 土壁の陰に吹き込む熱風で眠りから目覚まし

 汗ばむ身体

 台所には妻となった彼女の陰が立っている。

 近づくと誰もいなかった

 体温計を見ると37.5度、微熱

 いない女が存在しない料理をつくり、架空の皿をならべていく

そして透明な微笑...。

 窓を開けると風が吹きこみ

 女の形であった砂とサンダルは頭のてっぺんから流れ去り、

 ついには足元まで消えた

 

 この町は現実なのか。僕はまだ彼女とこうして一緒にいることが夢の様であるのだ...。

街を歩くこともデートとしては悪くないけれど...けれど僕はこの町を外から眺めてみたい。

 衝動に駆られて、彼女を連れて小高い丘に登った。

 丘の斜面の『見晴らし台』に立つと、街の全貌が良く見える。ビルが熱気に揺れなが

らも立体を保っていた。丘を周回する一本道を歩いてみる。半周したところで頂上に行

く道があった。さらに登ると、頂上には白い慰霊塔があった。

 慰霊塔の中には狭い螺旋階段があり、上った先にはテラスがせり出している。その上

には灯台についているものと同じ形の旋回灯が付いていた。これが点灯すれば夜の街の

どの場所でさえも照らすことのできる強力な光源だろう。今は午後3時だから、電源は

入っていない...。

 螺旋階段を上りテラスに出る。誰もいない。何らかの霊がいるのかもしれないけれど、

僕には何も感じなかった。むしろ、人工音のない静けさの全てが、巨大な霊の集合に吸

い込まれてしまった現実世界の、喪失した証であった。塔の内側には、聞こえない聖歌

がこだましていた。

 街をながめながら二人で抱き合いキスをした。この場所では、時間こそがただ一つの

道しるべであり、愛し合う二人がその果てに落ち合うテラスの浮かぶ海なのだ...。誰

もいない、ということは二人が存在する根拠にはならないけれど、お互いの存在を確認

するための障害がない事は確保されていたと僕は確信する。約束した目的地で出会う漂

流者達はすでに旅人ではない、時間に根をおろし、新たな旅人を導く標なのだ。たとえ

それが二人だけの場所であったとしても、永遠に幸福の火が消えることはない。

 キスをした後、女はきょとんとした目をしていた。驚きというよりは、僕の要望を理

解しようとして、つかみかねている、という表情である。

 

 手をつなぎ螺旋階段を降りて丘を下る。さっきまで、方向感が分からなくなるほど、

僕の体を包み込んでいた風の熱気が急激に失われていくのを感じた。上空の強い寒気に

絹雲が流れていく。僕の胸にも雲が触れてそのまま心臓を透過していく...。

 先ほどの『見晴らし台』に戻ると夕暮れが見えた。薄くなる日の光に砂を固めて作ら

れたビルが立体を失ってゆく。日が沈む刹那、ついに全ての建物が平面に吸い込まれ、

砂漠だけが目の前に広がった。形が無くなり見渡せない場所というものも無くなってし

まったのだった。

 慰霊塔に設置された旋回灯は灯らない。塔自身をわずかに照らす明かりが灯るだけで

ある。たった数本の松明の様に、揺れる暗い光で、塔の下に設置された照明により、孤

島の様に弱々しく、丘の上に浮かんでいた。生まれたての太陽、もしくは死を迎えた恒

星の最期の姿の様であった。

 自分の居場所すら分からない幸福に気が付くということは、とても孤独なことである。


5.堕天使

 神が世界の全てであるとすれば、天から堕ちるとはどういう意味だろう?神は実体を

持たない揺らぎであり、その証を立てるためには写像の世界を無数に作る必要があり、

そのために、思い思いの世界に散っていった片鱗たちを堕天使というのだ。彼らは天か

ら追放されたのではなく、自ら選んでその様にした。

 神が宇宙を形作る源そのものならば、この現実世界としての宇宙とは、堕天使の歌う

郷愁の歌なのだ。


6.立体構築

 慰霊塔の丘を下り、砂の噴水の前でその日は別れた。続きはSNSのメッセージもしくは

メールで送信することだけ決めておいた。別れ際に軽いキス。

 帰ってから今日のお礼のメールをする。今日返事をもらう必要はないし、また、そう

しなくても良いという意味で敢えてメールにした。旧式のコミュニケーションは即時性

がない分、こういうときに具合が良い。

 次の日に返事がきた。慰霊塔でのキスには驚いたけど、またしましょう、靴だって左

右で一組ですからね、との事。うまいたとえなのかどうか良く分からないけれど、好意

的な返事だ。

 メールを書きながら、僕はモバイル端末にフリーソフトをインストールしていた。家

の外観と間取り図が自動的に描かれるものだ。時代、建築様式、気候区分、植生、動物

の分布、立地条件、部屋数屋根の形、庭の配置、玄関の向き、車の有無、花壇の有無...

各設定を選んで、『生成』ボタンを押せば、自動的に家が描かれる。繰り返す度に違う

形が出てくる。

 建物を描くと今度は、画面の中を住人が動き回る。建物の時代、建築様式に応じて人

物の服装や人種まで変わる仕掛けだ。とても凝っているので、見ていて飽きない。

 また、建物が描かれるごとに、文字列が画面の隅に一緒に出てくる。気に入った形が

出てきた場合はその文字列をコピーして保存しておけば良い。またその文字列を入力す

るだけで同じ建物が描かれる様になっている。

 このソフトには2つのモードがある。1つ目は自由に各種設定を変えられるモード。

もう一つが文明進化モードだ。後者では、動作時間がある程度経過するごとに、文明の

程度が進み、高度な建築が出来る様になっていく仕様だ。

 僕は文明進化モードを選んだ。開始直後は最初は何も設定することができないので、

画面上の『生成』ボタンを押すだけだ。ボタンを押すと小さな洞穴が描かれた。家の中

には僕の姿に似た原始人の男が一人で住んでいる。しばらくすると原始人は女を連れて

きてきた。しばらくすると男の子が生まれて、原始人の男は死んでしまった。今度はそ

の子どもが成人となり、女の子をつれてくると、同じ様に男の子が生まれた。延々とそ

れを繰り返すだけであった。

 あまりに変化が遅いので、僕は耐えかねて操作制限解除のためのコマンドを入力した。

そして画面上の時間スライダーを『現代』まで動かした。原始人はその場所にいたまま

ワイパーで拭かれた窓の様に画面から洞窟が消えて、鉄骨のアパートが現れた。原始人

は戸惑っていたが、そこが居住空間だとわかると、そのまま生活を始めた。

 原始人は部屋にあるテレビを見始めた。最初は言葉の領域が空白の様であったが、慣

れると現代の言葉を理解し始めた。原始人の頭の中は画面の『脳内メッセージウインド

ウ』に表示される。ウインドウには原始人のみた映像や文字、夢などが表示される。最

初は原始人の想像した、悪霊の影の様な、ぼんやりとした対象物への影像が現れるだけ

であったが、言葉を覚えると、影像と文字の結びついた表示へと変化していった。意味

が発生して、しだいにそれらが接続される様が見えると、最初見ていた悪霊の影は次第に

消えていくのだった。

 僕はこのアパートの見える画面、ゲーム上の現代世界を表す文字列テキストをコピー

してテキストエディタに貼り付けておいた。明日も続きを観るためだ。

 次の日、ソフトを起動して、控えておいた文字列を入力した。画面には昨日と同じ形

の洞穴が再現された、ただ一つ、機能とは表示に大きな違いがあった。原始人がいない。

僕は画面をスクロールさせて彼を捜す。どこにもいない。やはり消えていた。

 保存されるのは建物だけなのだろうか?

 僕は別の原始世界を『生成』して、同じ様に原始人の住む洞穴を表示させる。操作

制限解除コマンドを入力し、時間を『現代』まで動かす。今度は少し形の異なる鉄骨

アパートが表示される。昨日とは違い、原始人がまだアパートの機能や備え付けのテレビ

から聞こえる声を理解する前に画面上の、世界を表す文字列を保存した。再びソフトを

起動して文字列を再入力する。

 今度は原始人がそこにいた。アパートの扉を石で叩き壊そうとしている。消えた彼と

は異なり 粗暴で下品な顔つきをしている。

 僕はすっかりこのソフトを使い続ける気がなくなってしまった。インストールした

きっかけは家の間取り図を検討して、彼女との生活を想像することであったのだが、

目的から逸脱して、付属物の方に夢中になってしまっていたのだ。

 だけれども、原始人は本当に建物の付属物と言って良いのだろうか。建物の形はそこ

で生活する人間が作るものなのだから、間取り図だけがあるだけでは片手落ちであり、

その必然性を示すためには、どうしても登場人物としての住人が必要になる。そこまで

考えて作られたソフトなのだとすれば、僕の役割はただその成り行きを眺める事以外に

見当たらない。人間に神の気持を理解せしめんための、方便としての影像なのだろうか。

 もともと、僕がこのソフトをインストールした理由はごく単純なものだ。彼女に画面を

見せて、二人の住むであろう鳥の巣箱の形を提示したかったのだ。ここへ一緒に住もうと、

直接的な言い方をしても悪くはないけれど、たとえ画面上の幻であれ、視覚として認知

可能な、具体的な生活の存在する、来たるべき時間の存在を画像としてを見せることで、

幸福への想像を共有、いや一緒に構築してみたかったし、そういう会話をして過ごす時間

を過ごす事こそが真の幸福であるからだ。仮に男女の愛という約束自体が幻なのだと

しても、その証文だけは、巣箱という実在として作成可能である。その準備をしたい。

 もし巣箱に窓があるのであれば、僕はその窓から幻の空を見て飛び立つ鳥になりたい。

 

 二週間後、彼女とまた会った。待ち合わせ場所は砂の噴水の隣にある、砂漠の薔薇と

呼ばれる小さな待合室。花の様に結晶化した砂がそのまま小屋の屋根として使われている。

屋根の下は日差しがさえぎられていて、出入口はトンネルになっている。中はほの暗い

空間だ。長椅子が置かれていて、下を向き黙とうする様に時間を待つ人々の姿がそこに

あった。待ち合わせの人がやってくると、トンネルの出口に重なり、外光との対比で中

の空間に長い影を作る。約束に現れた人は逆光で影しか見えない。

 以前はここに噴水があったらしい。待ち合わせの人たちが皆、水没した彫刻の様な顔

に見えるのは、その暗さのためだけではなく、本当に時間が止まってしまうからなのだ

ろうか。

 僕が海底で息を沈めて待つと、彼女がトンネルの光に立つのが見えた。足元から長い

影がのびているが、影と足の間にはわずかな隙間があり、揺れながら影の境界線をトン

ネルの壁をかすめていた。玄関ではなく窓から飛び込んできた鳥の様だ。

 僕は一万年ぶりに酸素に触れた大理石の様に、意識を回復すると、トンネルの影を辿り

ながら彼女のほうへと近づいた。強い逆光のため、目の前に来るとようやく顔が見えた。

その直前まで、僕はこの影が靴屋の女であるという事について、確証を持つことは出来

なかった。

 「?」僕は靴屋の女の名を呼んだ。「そうです」との返事。ああよかった。

 

 今日は慰霊塔と反対の方に行ってみよう。バラ色の水晶の丘。とても希少な鉱物がこ

こではあたり一面に広がっている。あまりの美しさにハンマーで割って持って帰ってし

まう人が後を絶たないので、入退場時は手荷物検査場を通らなければならない。。

 丘の小路に立って見渡すと、桜の花見の様な光景が広がっていた。慰霊塔と違い、こ

こには穏やかな暖かさが満ち溢れている。自然の造形が作り上げたアーチを潜り抜け、

コテージの並ぶ坂道に向かう。

 冬でも風もなく晴れ渡った今日は、水晶の表面に触れるとわずかに暖かかった。丘を

掛ける日差しに星の様な光が所々から遠望されるのだった。

 コテージの一つに僕は今日、一泊分の予約を入れてある。部屋ごとに鍵がかかっていて

顔認証だけで中に入ることができる。帰る時だって誰にも顔を合わせる必要はない。

(もっとも、丘の入り口にあった手荷物検査場だけは通らなけらばならないが)無人式の

簡易宿泊施設である。

 温泉宿泊券はまだとっておいてある。無期限と書かれているし、ここよりずっと良い

宿に泊まれるからもったいない。もう少し親交が高まってから行けば良いだろう。

 部屋についてドアを開ける。外からは水晶の山にしか見えないが、中は快適な小屋だ。

天井にはブラックライト。薄暗いバーのカウンターの横には二人掛けのブランコ。ブラ

ンコの前には壁紙に描かれた大扉。大扉は開かれていて、南国の鳥とジャングルの楽園が

覗いており、遠くには火山と小さな滝、滝つぼには虹が見える。

 僕はバーのカウンターにある、足の長い椅子に座った。下まで足が届かない。彼女は

カウンターの向こう側に回ると、店員の女を演じ始めた。僕はウイスキーを注文すると、

彼女は水わりの氷とマドラーを取り出し、良い香りを攪拌し始めた。回転に合わせて香り

が飛び出してくる。

 僕はモバイル端末をカウンターの上に取り出し、彼女に原始人の出てくる建築描画ソフ

トを操作してもらった。彼女は僕と異なり、自由に設定を変えられるモードを選んだ。

時代や部屋数なでの各種設定には『ランダム』を選んでから『生成』ボタンを押した。

すると大聖堂が現れた。これはなんだろう。

 大聖堂の中を見ると、消えたはずの原始人の彼がそこにいた。目をつぶり、何かに祈り

をささげている様である。彼の頭の中では神や悪魔の影像が出来つつある様だった。影

像の元になるものは壁や天井に描かれた絵画であった。

 足音もなく、彼のもとに女がやってきた。修道女の姿をしている。女はしばらく彼の

様子を見届けていた。

 祈りを終えた彼が顔を上げると女がそこにいた。あなたはだれかと、彼は修道女に尋

ねた。修道女は名前を答えずに服の中から一枚の札を取り出すと、彼に手渡した。彼は

腰のポケットにそれをしまった。彼女は一礼すると去っていった。彼はまた一人になって

しまった。

 僕の彼女がその様子を見て、「彼を元の時代に戻してあげよう」と言った。彼女がス

ライダーを動かすと彼はまた原始時代に戻った。大聖堂のあった空間が消えてそのまま

洞穴の壁面に変わった。ただ、少しだけ元の世界と違う様に見える。

 「結晶の格子をスライドさせた様なものね」ふいに彼女が僕の耳元でそう言った。

 「時間を進めたり、戻したりする事がかい?」

 「そうよ」

 そうであれば、彼が元々居た格子の中には戻してやれず、隣の部屋にずれてしまったの

だろうか。

 「気にしても仕方ないわ。彼が元いた世界に殆ど似ているわよ。違うのは地形ぐらい」

 地形が違えば大きな差だろうけど、気候も植生も動物の分布もほとんど同じだから、

確かに実生活は元の世界と変わらないだろう。

 彼は時間が突然戻った衝撃で気を失った様だ。しばらくして目を覚ますと、湧き水を

飲んで、洞穴の奥に向かって「&p!」と大きな共鳴音の声を上げた。

 すると原始人の仲間が数人やってきた。男もいれば女もいる。彼は大聖堂で見た天使の

絵を洞穴の壁に描き始めようとした。記憶が薄れているのか、動物の絵にしか見えない

羽の生えた馬の様である。

 彼は自分の見た神や悪魔の姿を仲間に伝えたそうだった。しかし馬に羽が生えている

という理由だけで笑いものにされてしまった。仲間は彼を白痴扱いするだけで、とうとう

生活の役に立たぬ者として仲間外れにしてしまった。

 彼は途方に暮れた。何度も壁に絵を描こうとするが、羽の生えた馬であったり、人の顔

をした山羊であったり、あるいは二本足で立つ鹿であったり、およそ狩りの獲物とはなら

なそうな、空想上の生物であった。

 すると、そこに大聖堂で出会った修道女が現れた。原始時代の服を着ているが、顔も姿も

間違いなく彼女である。一緒についてきたのだろうか?そんなソフトの機能はどこにも

説明がないのに。

 女は原始人の彼に近づくと、彼の関心を惹くための行動を取り始めた。彼は彼女から

もらった札を返すと、彼女は服を脱ぎ始めた。ほどなくして二人は結ばれた。

 行為のあとで、彼は天使の事を彼女に話した。彼女は彼の話をすべて受け入れた。彼

女は紙と筆記用具を取り出して、彼が見た事のある天使の絵を描き始めた。彼は意志が

通じた事に感涙した。

 彼は記憶を取り戻して、自分が目にした絵画や彫像の数々を思い出しながら壁画や石像

を作り始めた。その出来があまりに見事なために、彼をあざ笑っていた仲間は彼を見直し

再び仲間に加えた。彼は狩りに行く代わりに、洞穴の中で作品を作り続けることを許され

た。仲間は彼のために少しだけ多めに食糧を採取してくると、銘銘、かれにその一部を

分け与えるのだった。彼は幸福を取り戻した。

 彼が作品を作り始めるたび、女は自らの姿形を男に差し出した。洞窟の入り口の焚火を

背に、女の影が奥まで差し込んで揺れていた。男は壁に落ちる女の形をそのまま写し取ると、

壁は次第に女の肌で埋め尽くされていった。男は壁に描かれたぶどうの房を口に含んだ。

女は動かなかった。

 壁はすっかり硬さを失ってしまった。男は毎日女の肌の中ですごした。次第に修道女の

事よりも自分の描いた肌を好む様になった。

 ある日、男が目を覚ますと女は消えていた。空想にふけるだけのその姿を見て、もう

自分の必要性を見出せなくなったのであろうか。いや、そんなこと僕に決められる事で

は決してない。

 彼は彼女を追いかけて旅に出た。ついにそのまま帰らなかった。周囲の者たちは、残

された壁の絵を見て、しばらくは彼の事を語っていたが、やがて忘れられていった。彼が

神格化されることはなかった。壁に残されらた女の柔和な肌の絵は、しだいに死者の

皮膚の様にくすんでいき、だれの目にもとまることがなくなった。

 壁画を崇拝する事により祭りが生まれる瞬間を僕は期待したけれども、それはまだ先の

時代の事の様だ。原始時代にも死者を悼む気持ちはあれど、儀式が生まれるための過剰な

供給を生み出すためには、まだ生産性が足りない。いや、必要な分だけを自然から得るだ

けの採取生活においては、生産性などという考え方自体が存在しない。

 逆に言えば、後の時代の人間が、過剰生産に積極的な死を与えるために、畏敬の念を

もって葬儀により正当化したものが祭りなのだ。僕は彼の作品を燃やす事に夢中になっている

残酷な自分の姿に気が付いた。原虫は祭りの火にくべられてこそ、その中に存在するので

あり、彼らの時代にはまだ存在しない。

 

 「私、洞穴よりは、普通の家がいいわね。」

 「どんな家が良いの。」

 「白壁が並ぶ島。玄関には誘い込む様に良い香りのする花が並んでいる家。建物の間

から青空がのぞいている街。ゆっくりと朽ちていく木の柵、空をさえぎる高いものがな

いから。日陰では爪を研ぐ事を忘れた猫が明日起きようという夢を見ながら寝ている。

昼には影が消えて、午後になれば中庭のブドウの木陰でお茶を飲むのよ。夕方になれば

影が伸びて、私は小高い場所に立ちながら海に触ることができる、そして。」

 「そして何だい」

 「夜にはお祭りが始まるの。」

 「それは虚構の街なのかい、虚構ではない街なのかい。」

 「空想ではなく、かなう事よ」

 「...きっと、そうだね。」

 「かなう」

 外から音が聞こえてきた。笛と太鼓の音。

 「冬なのに祭りなのか、まあ、行ってみようか」

 「いいわ」

 コテージの外に出ると祭りの火が盛大に燃え上がっていた。あちこちから火の粉が飛び、

皆が遠巻きに囲んで輪を成している。

 赤ん坊を抱きかかえた大人がその中心に近づくと、大きな火の粉が飛んできた。腕の

中の赤ん坊に火の粉がかかりそうになったので、浴衣のまま被さり懸命に振り払っている。

浴衣の肩に小さな穴が開いた。中ではきっと火傷をしている。大人の顔は真っ暗で見え

ない。赤ん坊は寝たままだ。

 もし原始人の彼が鳥に生まれ変わったのであれば、どこかの火山島で、火の粉を被り

死んだ母鳥の羽を下から持ち上げまたそこから巣立つ雛の姿になることだろう。鳥は祭り

を知らない。

 

7.祭り

 火の粉が地表のまだ青い水晶にかかり、赤い水晶へと変えていく。すでに赤くなった

水晶の先端に火の粉が降ると、尖った先は砕け散り、暗い空間の先に消えていった。

 祭りの火の正体は、慰霊塔から発せられた直進光によるものだった。光が成長しきった

赤い水晶に当たると、結晶が割れて悶える様に燃焼していく。広場の中心にある大きな

水晶をはじめとして、丘のあちこちで燃焼が起こり、閃光と黒い暗礁のコントラストが

周囲を満たしていった。

 笛や太鼓の音の正体も光が水晶にあたり振動することによりスピーカーの様に鳴って

いるものだとわかった。楽器を演奏をしている人間の姿はなかった。

 「これは何の祭りなの?」

 「何の祭りでもないわ。多分...。欲しいと思った時に行われるのでしょうね。」

 彼女は曖昧にそういうだけである。何かを知ってそうでもあるし、本当に知らない様

にも見えた。

 祭りはしばらく続いた。燃焼の度に人の影が浮かび上がり消えていった。

 そういえば僕の時間はここ最近、ずっと日曜日が続いている。所作もなく過ごしている

から、祭りの火を見ても、空間の中に空間が発生してそれらがどこまでも圧縮されていく

様な、実感のないものとしか思えない。火の粉から逃げ惑う人を見ても、本当に熱いのだ

ろうかという、温点や痛点などの皮膚感覚を伴わない、嘲笑の様なけだるさが残るだけで

ある。だけれど、そういった、心に芯の無い状態で見る幻同然の光の方が美しく感じるのは

なぜだろう。分母が0の割算の様に無限大の数の桁数をどこまでも数えていくうちに、何

ひとつ進まぬまま、果ての桁へたどり着くことを夢見て、祈る様に眠る事が出来るからだ

ろうか。相対的に僕自身が無限小の大きさになることで、もはや日常と化した無機質な炎

の光がどこまでも大きなものに見えてしまい、それに包含される事で僕自身が光に同化し

てしまうからなのだろうか。いや、そんなのただの錯覚に決まっているさ...。

 

 日曜日とは死への緩慢な下り坂を楽しむための時間である。坂を下りきった底では、世

の中のあらゆる存在と切り離され、僕は着衣どころか、自分の身体すら何もない状態を演

じることだってできる。さらにその何も無い周囲を消し去ることができれば、世界はいよ

いよ僕というものを、宇宙空間にただ一個だけ存在する、殻のない卵の様に、自分の存在

を確かめる術のない虚無の状態から再生を始めることだってできるのだ。

 試しに再生を試みよう。僕はいまこの日曜日という現状を表す画面の中にいる、その画

面を覗く別の僕は、元々自分であった日曜日の世界の卵に向けて井戸水をかけたサンダル

を飛ばす。サンダルは卵に吸い込まれ、卵は分裂を始める。

 卵が最初の分裂を始めて1つから2つの細胞になった時、今度は片方の細胞の核に向け

これもまた井戸水をかけたサンダルを飛ばし、その後で2つの細胞を個々に切り離す。後

から核にサンダルを打ち込んだ細胞は次第にオスの魚の姿へとなっていき、最初から残って

いるもう一つの細胞はメスの魚の姿へとなっていった。

 僕は意識を、いま発生中である幼いオスの魚から見た視点に移す。もう一方の自分を見る

とメスの姿をしているから、自分がオスであるにも変わらず、自分の事をメスの姿だと認識

する事だろう。なにしろこの世界には、自分とそのメス以外に他に何も存在しないのだ。

 同様に、まだ発生中である幼いメスの方の魚も、オスの方を見て、自分の姿をオスだと

認識する事だろう。

 ならば自分どうしで性交したらどうだろうか。オスの自分はこの時初めて、自分の姿が

メスではなく、また、メスは自分の姿がオスと異なる事に気が付く。どちらも自分から発生

した自分であるにも関わらず、お互いの姿の違いを通して、鏡像の中に、自分とは異なる

自分からの視点を知る事になるのである。僕は今や、2つの個体からなる複眼を持つに至ったのだ。

 

 コテージに帰って2人ともシャワーを浴びた。シャワーのあと、僕たちはバスローブを

着ながら彼女の背後に立った。彼女が後ろに手をまわし、僕の腿に触れてくる。僕も彼女の

肩に手をおく。

 彼女はソファーの上で氷水を飲むと、空間モニターのスイッチを入れた。すると、壁、

天井、床が水中の映像になり、金色と虹色を繰り返す映像の金魚が泳ぎ始めた。金魚は

琉金の交配種で彗星の様な尾をもっている。尾っぽの色変化は、ついさっきあびた

シャワーヘッドのLEDの光の様であった。金魚を指さすと吹き出しで「コメット」という

品種名が文字表示。

 すると、空間モニターが説明文の表示に切り替わった。文章によれば、この画面には

今までに僕の見たものが、何らかの姿に変化して映し出されるとの事。また最後の行に

「ごゆっくりご鑑賞ください」と書かれている。

 

 映像の金魚が群れをなす様に集まる。とても大きな個体、小さな個体、典型的な大きさ

の個体、とても小さな個体、やや大きな個体、やや小さな個体...。本物の金魚よりも、

大きさのバラツキが多少極端なのは僕の認識の特性ゆえんだろうか。

 魚群が通り過ぎると、次第に水は暗くなり、何もいない真っ暗な湖底になった。嵐の

晩に沈んだ舟の様な気持ち。

 僕はモニターに鈍く反射する彼女の肩へ腕を乗せた。彼女の背中を引き寄せ、その身体を

包み込む。滑りの良い肩が僕の脇にあたる。小さな膝だ。

 僕は彼女の前に回り、立ち上がる。

 彼女もソファーを立ち上がる。バスローブ姿で立ったまま抱き合い、キス。数歩先の

ベッドに二人で身を投げ出した。

 壁、天井、床のスクリーンがお互いに反射して、万華鏡のごとく、それぞれの方向に

無数の虚像を作り出す。結晶格子の中には僕と彼女、となりの結晶格子の中にも僕と

彼女。たった二人から始まった交歓に同期して、世界中の獣が一斉に雄叫びを始めた。

 

8.溶暗

 僕は今、水の中で腐敗していく死んだ魚だ。メタンガスの小さな泡を出しながら、湖底

の泥に埋もれながら形を失っていく。その隣で金色の美しい魚が眠っている。魚は湖面に

浮かぶ葉の影の中を泳ぎ、水面の外を夢見ているのだろう。

 わずかに覚醒している僕は、自分しかいない世界で、自分の映った水面を覗いた。

 ―僕は水面の向こうに美しい金色の揺らめきを見た。僕の姿の向こうに、色だけと

なった彼女の肢体が重なって、モノクロームの僕の姿を突然、全ての色彩の集合に

変えた。向こう側は形を持たない色だけの世界。僕の側はその反対に形だけで色のない

世界。溶けて一つになった―

 

 対となる形だけのものと、色だけのもの。

 もし僕が祭りの火壇なのであれば、彼女は炎だ。

 もし僕がモニターなのであれば、彼女はそこに映る映像だ。

 もし僕が実在なのであれば、彼女は記憶だ。

 もし僕が物質なのであれば、彼女はその表面だ。

 

 交歓とは何か。形と色と、それぞれの両端から伸びた二項分布の、最も激しい場所

でのせめぎあいと結合の事だ。二人の間だけに存在する祭りである。

 

 もし

 存在する祭りに行くことが喜びであれば

 存在する祭りに行かないことは無念さからくる怒り、もしくは悲しみで有り得る。

 その一方で

 存在しない祭りに行くことができれば、それは喜びとなる。

 僕たちは想像の中に歌い、稀有な現実の前で踊ることができるだろうから。

しかし

 存在しない祭りに行かない、とは何か。

 まつりの始まりが一つのテキストメッセージであるならば

 世界には自分以外に誰もいないという仮定の下、何も問いかけの言葉を

 発しないという事である。

 少なくとも僕はこうして彼女とここにいるのだから

 現実に存在する、小さな祭りに参加している事になる。

 僕が今も存在しない祭りに行かないままの僕であるならば

 恋の苦しさも知らず、それゆえに、孤独によって追い込まれる窮地にも

 なんら無感覚であった事だろう。

 自らに対する無自覚な被差別は何の救いも生まないし。救いという事すら知らないままだ。

 しかも、その無自覚な被差別はいつも自分に向かっているとは限らない。

 愛するべき対象に無関心であり続ければ、僕はその対象も救わないままだ。

 自分に主観を与えず、他者にも客観を与えず

 何を掛け合わせても無に帰してしまう、存在しない僕。

 そんな世界では、彼女だって僕に救いを与えることもできないし、

 その反作用として自分自身も救えない

 そして僕を知ることもまた無い。

 たった二人の間だけですら、主観と客観の格子が出来上がるのだけど

 これを世界の無数の人を加えた格子に広げた時はどうなるのだろう

 愛する二人の間柄がそのまま拡張できるかなんて根拠はないけれど

 それを無根拠のせいに何もなさないことは、やはり

 存在しない僕たちが存在しない祭りに行かない事だと言えるのだ。

 ならば、愛や関心で人々を満たすしか、僕や彼女や、人間のできることは見当たらない。

 祭りの意味とは、祭りとはすなわち、格子に拡張された性交の事なのだ。

 苦しさから解放されるため、

 極限と自己との間を無限大の周波数で振動するうちに、

 僕は自分が極限なのか始まりなのかも分からなくなり

 過剰生産に対する畏敬の念も今や水面越しの柔和な光の中に消えてしまった。

 

 極限はどこにあるのだろう。

 僕は夢の中で泳いだけれど、どこにもそれは見つからなかった。

 そのうち泳ぐこともどこかへ忘れてしまった...。

 

 朝起きると、僕のコテージの入り口に赤く焼けた跡が残っていた。外では朝方まで

祭りが続いて居たのだろう。

 

9.自由落下

 コテージの宿泊の後、僕らは何度か同じ様に簡易宿泊所通いを続けた。大概は食事の

後に宿で性交の順だが、宿に着くなり抱き合って、その後で食事をとることもあった。

そういったときは大概、仕事で疲れて興奮している時だ。

 最初は2週間に1度だったが、次第に逢う頻度も増えて行った。それにつれ、簡易宿泊

施設に行く頻度は減っていった。数時間でチェックアウトして、深夜に帰宅することも

あったが、移動を考えると時間効率が悪いので、どちらかの部屋に宿泊するという事も

増えていった。宿に宿泊するときは次第に遠出の旅行へと変化していった。

 僕は彼女と交際を続けるにあたり、仕事に就くことにした。働いた事がない訳では

ないし、しばらく何もせず自由に暮らしていただけなのだが、彼女と生活を始めるため

には、生活を継続するために、形だけでも働いていた方が良い。

 自分で言うのも何だけど、彼女も、よく僕みたいに何もしていない人間と交際する気に

なったものだ。僕は労働好きではないし、仕事が続くかは分からないけれど、体面を保つ

という事の意味を知ってみたい。労働という行為に対する羞恥心も甚だ未開発だから。

 

 仕事の内容はロボットの開発。ハードウェアおよびソフトウェア。面白そうだが、始め

てみると案外難しい。

 コンセプトは「人間の遊び相手になるもの」という一言だけである。簡単な課題だけど

それだけに哲学が必要になり、答えを出す事は容易ではない。少なくとも、設計へと落と

し込んで行くためには、その外見や、動作、雰囲気などにより、遊びの夢から覚めないも

のを考える必要がある。おそらく生物と見分けのつかないものをつくる事になるだろう。

 ハードウェアの開発については、だから、誰かの決めた設計仕様があって、それに沿う

様に図面を描くという仕事ではなかった。設計仕様をどうするかを決めるための作業がまず

必要になる。そのためには、概略構造案をもとに、実現するための材料、駆動機構、必要

な電動機出力、そのための電源...などを検討して具体化案を積み重ねていく。

 考えているだけでは何も進まないので、一旦試作を行った。思いつくことを形にしてみて

そのうえで不足分を補うか、あるいは作り直すかを考えることにしたのだ。

 図面を描き、加工業者に発注したあと、ソフトウェアの制作にとりかかった。

 ソフトウェアは地味な作業だった。もっぱらハードウェアを誤動作なく、どうやって

制御するすかという事を積み上げることが先決であって、人間の感情を察するとか、そ

れに応答するなど、高度に知的な動作など雲の向こう側の話である。

 数年は量産化のために試作と仕様再検討、不具合対策といった作業を繰り返し行った。

試作の度に、「人間の遊び相手になるもの」というコンセプトへの一致に近づくと思われ

たが、現実にはその逆である。人間の荷姿としてロボットを開発するつもりが、ロボット

の荷姿としての人間を考える必要に追われる事になったのだ。人間だって、骨や肉、神経

など、機能に分けていくほど、それぞれは全く機械的な部品にしか見えなくなってくる。

それぞれが「生きている」と推測することは可能だが、人間の認識の方がそれに追いつかなく

なってくる。人間とは、人間状の姿に対する憧憬と再帰的な、無限に後退する定義そのもの

でしかないのだろうか?

 もしかすると、その命題に決着をつけるために、僕はロボットの手足となって、自律的に

「そいつ」を組み立てているのかもしれない。だけど、すぐに答えが出る予感はなかった。

 

 「あなた、最近楽しそうにしているわね。」

 ある日、彼女が僕にそう言った。

 「僕は労働は好きじゃないんだけどね。」

 「あなたは、労働そのものが嫌なのではなく、みんなと一緒であることが嫌なのでしょう。」

 畏怖を感じることが少ない僕にとって、畏怖に同化するための儀式的労働は、それ

自体が畏怖の対象となりうる。お祭りへの参加強要などがそうである。

 祭りとは、儀式による畏怖の対象への同化を通じて、見えないものの存在を狭義にも

擬人化し、いかに見えない存在が見える様に主張するか、それを模索するための死者の

言葉の討論会である。見えないものが相手だけに、暗示的に、それ自体が目的化することを

宿命づけられているのだ。

 宿命が暗示的な、それ自体魂を持たない言葉であるならば、僕はその向こうに何があるかを

見たいだけなのだ。だから儀式によって積極的に見えない様にしたところで、特段の意味を

見出せないのだ。儀式は気休めにはなるだろうけれども、自分がロボットであることに署名

することだけは絶対にしたくない。仮に僕がロボットであったとしても...。

 だから、祭りそのものを見ようとすることが重要なのではない。あくまで見えないも

のを想起すること自体が大事であり、それを通じて祭りを僕の方から定義してしまわなければ、

結局僕は祭りにも畏怖にも取り込まれて消えてしまう、廃棄された機械になってしまうのだ。


 僕は頭の中でこんなことを考えていたのだが、いつのまにか口をついて言葉に出していた

らしい。その様子を見ていた彼女がこう言った。

 「畏怖の中に飛び込むのには、勇気がいるわ。」

 「お祭りでみんなと一緒に踊ることなんかまっぴらだね。」

 「あなたは飛び込むことが嫌なのではない。祭りへの参加を強要される事を恐れているのね。」

 「溺死したくない。」

 「飛び込んだからと言って、同化するとは限らないわ。あなたがあなたとして自分を

持ち続けている限り。」

 「どこまでも飛び込み続けていくこともあるのかな。」

 「きっと。」

 

 夢とはいつまでも続く日曜日の様に、その外側が存在しない、輪郭を取り除かれた、

それ自体の中からは、それ自体の存在を認識できない世界の、目覚めるための予感である。

 夢を見続けるということを行為として考えるのであれば、世界の姿を見ないことに

よって、その形成を永久に先延ばし、どことも定まらない、不明確な現在地にとどまる

行為なのだ。

 夕暮れに弱々しく浮かんでいた慰霊塔を見た時、幸福の発見自体がすなわち孤独の追求

であると刹那感じたのは、自分よりも大きな建造物をみて、僕の認識のあやふやさをその

姿にぶつけてみたかったからなのかもしれない。小さな子供が大人の身体に、全力で飛び

込んでもきっと受け止めてくれることだろう。僕は夢ごこちの世界が消失することを恐れて

世界をその小さな塔に圧縮保存しようとしたのだ。

 夢とは想起の実践により現実の一部に浮かぶ映像として現れるものなのか、あるいは

実現しない事の中にしか存在しない流動なのか、それても、後者が前者に生まれ変わる瞬間を

指すのか―

 いずれにせよ、僕がこの疑問を解決するためには、夢の定義を物語として決める必要がある。

 「人間の遊び相手になるもの」とは何だろう。その答えを出す作業とは、物語がどんな形を

しているかを定義することなのだ。

 ロボットの製品化が祭りであるならば、物語はその仕様書である。気が遠くなる仕事だ。

だけど設計自体は現実時間と材料との調停作業でしかない。両者のあまりに急な落差に、

滝から落ちた様なめまいに襲われるけど、実現しようとしなければ夢はやはり純粋に夢

のままで消える。僕はこの作業を不可避なものとして享受している。僕にとって初めての

労働が始まったー

 夢の一つ一つが映像化する瞬間をそれぞれ宇宙の誕生なのだとすると、想像の数だけ

たくさんの宇宙は生まれる準備を始める。そのすべてが生まれるに至るとは限らないけれど、

中には、最初からきまっていた事かと思えるほど、強い力によって現実に実を結ぶ夢もある。

あたかも死の完全なる逆再生によって姿を表すかの様に...それが必然としか思えない仕事は

あるものだ。

 ぼくは一つだけで良いから宇宙を作ってみたい。それには数えきれないほどたくさんの

精霊を集めて、形をこさえなければならないのだ。

 物語の創造とは畏怖そのものを定義する行為なのだ。

 

10.生活 

 彼女と一緒に生活を始めることにした。戸籍の届け出は任意である。名前だって本名

である必要もない。いまや自分で使っているネット上のID名のうちのどれかを登録すれ

ば良いのであった。個人の活動すべてが仮想世界に逐次複製されていくので、嘘も可視化

できるし、ゆえに嘘をつく必要もなくなってしまった。かつては正直にものを語ることが

畏怖の対象であったが、今や嘘をつくことがそれにとって代わってしまった。もっとも、

それに気が付いていない人も、まだたくさんいるけれど...。

 いつの時代でも、この割合は変わらないのだろうか。変わらないとすれば、その割合

自体がすなわち残された希望なのだろうか。いや、変化しないものなんてまったく絶望

でしかないのだが、それを希望と言うためには、どんな視点の変化が必要なのだろうか。

 嘘をつくことが畏怖の対象であるならば、嘘を定義することが、すなわち新たな嘘を

創造することが、今や僕にとって新たにすべきことになったのだ。真実と何ら変わらない

嘘を。 一緒に生活を始めて早々にこんなことを考えるのも変な気がするが、僕は彼女と

居たいからこそ、共同生活を作りあげるという手間のかかる作業を着手しなければなら

ないし、その気持ちに嘘の入り込む余地は一切ない。単に現実に対処するための作業が

始まるだけなのだ...。不安がないといえば嘘になるけれど、それに押しつぶされそうな

気はまったくしなかった。僕は今、何の嘘も持ち合わせていない。

 最初に二人用の住居を借りることにした。長屋建のアパート。東端の部屋。朝日は早く

夕日は短い。だから僕は西端の部屋の住人よりも先に起き、黎明の空が逆さまの海に溶け

て、明るく照らしながらも、天頂をより一層深く突き刺して行く過程を見る事が出来る。

 空の底を見上げると、色白むにつれ、その深さが無くなり近づいてくるのかと思いや、

ますます遠ざかっていき、ついには見当も付かなくなるほど遠くのものである事を感じ

ぜずには居られないのだった。空平線は霞んでいる...。

「出勤の時間よ」妻が言った

「行ってくる」僕は妻にキスして車のエンジンをかけた。


 帰宅後、近所のスーパーに歩いて買い物に行く。既に切って揚げてあるトンカツを買う。

揚げたてでは無いが、二人分の食事で揚げ物を作るのも手間がかかるので手頃な惣菜だ。

主菜として十分な量である。帰って、ご飯と味噌汁に多少の野菜を添え、今買ってきた

カツを食べる。しばし寛いでから隣の部屋で寝る。独身の頃は、睡眠も食事もネットで

何かを検索する時もほぼ尻を動かさないで済ませていたが、今や行動毎に場所を使い分

ける様になった。洞穴に小部屋が追加された様なものだ。

 

 新生活を始めて、しばらくは仕事に打ち込んだ。知らない事はまずネットで調べて、

分からない事は、その結論を出すための筋道を作り、材料をそろえる...すべて自分で行う

以外になかった。不幸というべきか、幸いというべきか、周りを見渡しても、その道筋を

描けるのは僕しかいない。与えられた課題を受動的に解決するだけの人は、自分の足跡を

なぞることはできても、これからの方向を示す事には躊躇するのだ。

 労力の面で、もちろんこの開発が自分一人では出来ない事は僕にだって分かる。いや、

だからこそ、その筋道とは、継続的に進化するものでなければならないのだ。有限の力を

いくら足し合わせても無限にはならない。可能性において無限な事であっても、実行に

際してすべてを同時に選択できるのであれば、最初から開発など必要なはずがない。僕は

暗闇の中で無数に吊り下げられた漆黒のカーテンを掻き分けながら進んでいく...。

 製品のテストには時間がかかった。動作仕様を決めて、プログラムを作り、バグがない

ことの確認を行うのも手間がかかるが、それ以上に、壊れないという事を作りこむことが

大変であった。いくらコンセプトやソフトウェアが良くても、すぐ壊れる様では興ざめなの

だ。ロボットが「人間の遊び相手になるもの」であるためには、人間と同じか、それよりも

寿命が永いものである必要がある。犬の様なペットとはちがって、まだロボットは生殖手段

を持たないから、その永続性は、製品寿命で示すしかないのだ。今のところは...。


 数年かかって、ようやくロボットが完成した。完全とは言えないが、とにかく形を作った。

 打ち上げの飲み会をした。「よくやった」「みんなの協調の成果だ」という人がたくさんいた。

僕はそれらの言葉を否定することはできないし、まったく正しい感想なのだと思った。

 しかし僕は満たされない。なぜなら、皆の感想を集約すれば、その仕事の完成は、異口同音

に共同体の成果であるという認識で一致するからだ。しかし僕が思う成果とはそうではない。

あくまで新しい製品の誕生価値とは何なのかという事とその模索でしかないし、別に、

開発メンバーの情緒を聞きた訳ではないのだ。僕は何が新しく生まれたのかを定義したい。

その定義うえに改めて古い人間の情緒を置きたいのだ。

 飲み会の席で、偉い人がやってきて僕の隣に座った。酒をいつまでも飲み続ける彼に言われた

事はこうだ。驚く様な一言だった。

 「お前のソフトはだめだ」

 やっとの思いで作り上げたのにも関わらず、労いの言葉一つもなしに、彼は文句を言い始めたのだ。

僕は完全に憤慨した。完全なものなど作れないからこそ、定義を積み上げて、何もないところに

一つの形状の石を置いたのに、それも聞かずに、ただ僕を指して駄目だというのは野蛮な暴姦と変わらない。

 ロボットは、開発に手間を要しただけあって、商品価格は高かった。たから、たくさん売れる

ものではないし、会社への売上貢献度は低い。共同体性を重視する村落では、村人の生存要件

である経済性を彼らにもたらすことは特に重視されるのだろう。

 しかし。

 新しい価値に対する哲学を議論することなく、その成果に対する所有権を共同体のもの

であると定義することは全く人間の勝手でしかない。所有すれば確かに幸福であろうし、

人間の幸福の中に、その共有幻想がないと僕に言うことはできない。しかし、共同体が

無数にあるのであれば、何が自分にとっての幸福であるかを定義する事が、自分の所属

する共同体を決めると言う態度の問題でしかないのであれば、それはひどく孤独な事で

ある。幸福の数は共同体の数だけ、それこそ無数にあるのだろうけど、そのどれもが幸福

を持ち得るのならば、いずれをとっても変わらない世界のどこに幸福など存在し得るの

だろうか。目の前に新しい答えがあるのに、みんな古い形の人間の姿にしがみついて、

だれも未来を見ようとしない。

 

 製品化設計を完了したロボットは数量こそ少ないが、量産が始まり徐々に出荷された。

 個装箱にシリアルNo.のシールを貼り、初回ロットの発送を見届けた。仕掛品も完成品と

なり、全数が吐けると、それに併せて僕の心は空っぽになってしまった。いまや僕にとって

ロボットこそが新しい家であり、人間の共同体の方こそがかつての無機質なロボットに

なり下がったのだ。

 僕は記念すべき1台目の量産品(SerNo.0001)の箱に、温泉宿泊券2枚のうちの1枚を

差し込んでおいた。券の裏側に付箋紙で「憧憬をいつまでも、愛されるべき最初のものへ」と

書き添えて...。なんでこんな事をしたのか自分でも分からない。気が触れていたのだろう。

 SerNo.0001を梱包する際、僕は充電し終えた「彼」を動かしてみた。製品動作確認は

工場ですでに済んでいるので、なんとなく動かしてみたようと思っただけだ。

 僕がSerNo.0001のスイッチを入れると、彼は生まれたての子の様に鳴いた。

 僕がSerNo.0001をなでると、彼は嬉しそうに、身もだえした。

 僕がSerNo.0001から目をそらすと、彼はかまって欲しそうに怒った。

 僕がSerNo.0001を叱ると、彼はさらに怒って、それから寂しそうに、おとなしくなった。

 僕がSerNo.0001を抱き上げると、彼はやすらかに眠った。

僕は「彼」の電源をオフして、再び梱包箱にしまった。使用者の元に行く彼と僕が会う

事はもうないだろう。

 開発は終わった。後は工場が生産してくれる。同じものを、同じものを。

 生まれ変わったら僕は機械の姿になっている事だろう。

 

11.空転

 折角面白いと思っていた仕事だが、成果が出た途端、周囲の人たちとの温度差が大き

な事に気づき、僕はすっかり落胆してしまった。

 もっとも、作ったロボットにしても、それほど高度なものではない。ランダムに体を動

かしたり、眠ったり、鳴いたり...あとは、使用者の行為に行動を合わせる機能ぐらいだ

ろうか。静かな使用者の環境下では静かになり、よく触る使用者に対しては活発に応答

する様になり...とても原始的なモノマネ機能だ。

 僕は自分自身の気持ちを取り戻すために、取っておいた試作品のロボットのスイッチ

を入れた。するとロボットは、首を下げ目を閉じて、あたかも落胆するかの様な動作を

行なった。

 次に僕はロボットに向けて嘘をついてみた「お前は人間だ」と僕が言うと、ロボットは

僕の方を見て、首を横に振った。「僕の方がロボットなのかい?」と言うと今度は首を縦

に振った。プログラムにそんな動作はないから偶然だろう。

 嘘であって欲しい。

 僕はその偶然に対して力なく笑った。笑ったけれども、ただこの様な偶然が必然の結果

してもたらされる事を導き出せたら、それは立派な創造行為と言えるだろうとも思った。

そうであれば、つまり創造行為を導出するために、最初に偶然による嘘を見出さなければ

ならないとしたら、果たして創造とは嘘をつく事と何ら変わらないのだろうか?僕は夕食

を食べながら妻とこの命題を話した。妻は、

 「創造がすなわち嘘だなんて、そんなに緊張しなくてもいいわ」

 との一言だけだった。

 少なくとも、人間の遊び相手となるもの、というコンセプトで作られたロボットは完全な

はずがない。どうしてもそのコンセプトを満たそうと意識すればするほど、それは嘘の遊び場

で働くダンサーや入場チケット販売機に成り下がってしまうからだ。作り物の楽しさには

必ず飽きる時がくる。そういった作為は創造的と言えるのだろうか?いや、それは想像の

再生装置ではあるけれど、創造行為そのものとは違うだろう。

 むしろ創造とは何も嘘をつかないことでしか得られないのだ。種をまいて育った芽に聞

いて見るが良い。嘘による創造への脚色は商品の寿命こそ伸ばせど、創造のきっかけとな

る想像自体にはにはなんら寄与しない。第一偶然に向かって嘘をつける奴なんていないか

らだ。

 創造行為に対して一切の作為が効かないのだとすれば、そのきっかけである想像とは発

見でしかない。発見が偶然を装ってやって来るのだとすれば、僕は自分が創造したはずの

ロボットから想像を教えられたわけだ。

 これは得難い幸福なのだろうか。


12.遡行

 この世界が光と闇で出来ているのであれば、昼間は眩しすぎるし、夜は暗過ぎる。ならば

人間である僕は、朝か夕方にしか存在出来ない事になるだろう。

 人間は春分である朝、自我に目覚め、秋分である夕方、死を悟る。朝には夕方を見たがって

泣いたはずの自分が、夕方になれば朝の頃を懐かしんで泣き求める。二つの清浄な心の日を求

めてお互いに本心からそうするのだ。

 夜の時間が星を見て進む魂の航海ならば、昼の時間は太陽を見て歩く肉体の行進だ。昼

には魂が死に、夜には肉体が死ぬ。だけど肉体と魂が入れ替わる生きている束の間の時間

は泣いてばかりだ。むしろ幻の様に過ぎる昼の世界こそが魂にとっては灼熱の、死の煉獄

なのだ。

 少なくとも僕は、不完全ながらも魂としての人間の次の宿を作った。それがすなわち

未来の形とは限らないけれど、可能性を見出してそのきっかけまでを形にする事がは出来た

のだから、一旦は休む時なのだ。だから当面はその焦熱から身を隠して生きたいと思う。

自然な情念としてである。

 生きながらにして魂の清浄を保つことは少なからず逃避に成らざるを得ない。泣く様な

恋をして情念が枯れるまで洗い流して見たい。恋愛が逃避と親和性が高いのは無理からぬ

ことなのである。

 逃避が嫌であれば空高く飛び上がり太陽を矢で放ち撃ち落とさねばならない。しかし太陽

を失っては永遠の夜が続き、僕は死んだまま再び生き返ることはなくなるのだ。これこそが

完全な逃避の姿であるならば、まったくの矛盾である。だから逃避が現実に対する反抗で

あるためには、時間に逆らわなければなるまい。

今や妻を得た僕は、一つの安堵を見つけたが、今度は恋の始まりに向かって遡行し続け

なければならなくなったのだ。それこそ生きるためにである。

 僕は放心していた。けれど理性は生きていた。若干の狂気に支えられて立っているのだと

刹那思ったが、でも何かを見ている訳ではないことに気がついていた。狂気なんて人間の

都合に合わせてそう簡単にはやってこないのだ。僕はまた考え続ける。


13.浮島

 船を一艘、海辺に買った。海原に出て朝を求める様に夕日を眺めてみたい。世界が数字の

大海ならば、僕はそこに浮かぶベクトルの船だ。海に比べれば船には進む向きしかないし、

海の形なんて船底が押しやる水の表面にしか存在しないけれど、少なくとも面を押し続ける

僕がいなければその形だって現れないはずだ。

 僕は何が新しく生まれたのかを定義したい。ロボットが完成した時はそう思った。けれ

ど、定義出来るという根拠も今はまだ見当たらない。

 もし時間を遡ればその定義は見つかるのだろうか、否。そうしたところでロボットが

バラバラの部品に戻るだけであり、何ら発展的な答えを見出せない。

 さらに思い切り時間を遡って、ロボットなんてものを誰も知らない、原始時代に戻ったら

どうだろうか。壁画に機械の絵を描いて、それらが動き回る様を説明したところで、実物

という形で示さなければ伝わらないだろう。

 本当にロボットは原始時代の壁画より進歩した存在だと言えるのだろうか。

 実際に開発成果を共同体のものとみなす、全く土着的な情念を見てしまった今、その答

えは否定的に傾いてしまっている。少なくともコンセプトを形にしたのだから進歩と言って

も良さそうなものだが、肝心の根拠が見当たらない。

 では、僕の、いや(少し大げさに拡大して)人間の認識が変わっていない事が、はたして

進歩を妨げている原因なのだろうか。

 設計していて思った事だが、ロボットというものを考えれば考える程、むしろ人間の方

こそが機械だという事実に気付かされるのだ。機械構造やモーター、電気制御は骨格、筋肉、

そして神経である。その構造の考察上、どうしても人間や動物からの類推を避けることは

出来そうにない。人間からは、かつて見たことのある陰像しか出てこないからだ。

 陰像こそが海であり、世界の殆どをなすのであれば、その表面に浮かぶ船である僕は、ただ

の機械でしかないのだろうか。

 それを確かめるためには、人間が機械であることの証明が必要になる。だから僕はロボット (★人間は機械ではあるが、現実そのものの体現である。ここではまだそこまで考えが至っていない。)

の開発を通じて、証拠集め、考察、そしてそこから得られる結論のために、生物としての

人間をバラバラに切り刻んで見たかったのである。これが即ち共同体の結束を破壊する行為

と拡大解釈されても仕方がないけれど、新しい息吹の全てが旧来の共同体に帰属するという

考え方もまた身勝手で短絡的な集団自動思考だろうから、仮にそれが最終的に僕の求める

答えなのだとしても、にわかに迎合する訳にはいかない。故郷を知るには故郷を離れてみる

必要があるのと同じであるし、第一、共同体などという場所が実際にある訳ではないのだ

から。皆は、一体どこに成果を秘匿するつもりなのだろうか。

 その秘匿する場所こそがロボットだとすれば、人間の共同体は...ひいては人間がロボット

に併呑される運命だ。意識の帰結すべき共同体が時間とともに機械に置き換わって行っても、

それが魂の容器であるならば、―あるいは魂がその容器を包み込むのならば―、僕はその時

皆と和解できる事だろう。だけどまだその時ではない。

 船と海たる世界の接する面の変容こそが美だとして、果たして船底の形そのものは美しい

といえるのだろうか。その答えこそが僕自身の、また僕の生み出した成果を世界に接続する

ための新しい境界であり、開けるべき扉なのだ。変容が変容である事を見届けるためにも、

僕の求める答えは、それこそ夕方の海が真っ暗になるまで探し続けなければならない。真っ

暗になってもなお形を保ちながらも、而して夕日の様に暗溶しつづけていくのであれば、

それは本当に美しい。

 

14.遊覧

 僕は時間をさかのぼる気なんてないはずなのに、一方ではそれこそが願望であるかの様に

自らの身体を動かしている。

 船を手に入れた僕は、そこを新たな住処にする事にした。アパートよりも中は広く、部屋

数も多い。内装と設備も充実しており、2人で住むにはまだ広すぎるくらいだ。

 職場の人たちからは、位置の定まらない船を買うなどもったいないと言われたけど、僕は

そう言われるたびに、その相手に対して、地面と海との本質的な違いがを問いただしてみる

のだったが、結局、誰もその質問には答えなかった。

 山に住んでいる人たちは、たとえ洪水が起こっても、自分の家が沈むことはないから、

わざわざ水辺に住む気なんてないのだ。山さえ飲み込む大洪水が絶対ないという根拠など

ないのに。

 こんな人たちと話をしていてもつまらない。遊びに行こう。

 ある月曜日、僕は仕事を休み、住居である船を動かしてみることにした。会社の仕事

なんて、一日くらい休んだって大丈夫だろう。

 船内に2人で一週間過ごせる分の食糧と水を運び込んで、繋留のロープをほどいた。

錨を上げて、湾内を一周した後、まっすぐ沖に出てみる。

 僕は航海日誌をつけることにした。今何をしているか、毎日簡単な文章をしたためる。

 

 (1日目)

 よーそろー

 よーそろー

 大陸はまだか

 鯨の背中に乗って運んでもらおう

 

 (2日目)

 今日は晴れ

 波の丘を越えて

 進む進む

 太古の鼓動を

 うち浴びながら

 

 (3日目)

 丘の世界は

 忘れよう

 陸を知る魚は稀だ

 

 (4日目)

 記録なし

 

 (5日目)

 記録なし

 

 これ以降も日誌は空白だ。書こうにもあまりに変化のない穏やかな海。大きな波が眠り

を誘う周期で繰り返す。

 妻は台所で料理をしている。その間僕はコンロや流し台に程よい光が射す様に、一日中

太陽を追いかけながら、楕円の半分の様な航路を描いて進んでいった。夜は船を進めない。

 日を追うごとに少しずつ暑くなってきた。7日目には雨戸を閉めているにも関わらず、

朝から船窓がチーズパンを焼くトースターのガラス板の様に熱い。赤道に近づいてきたのだ。(★ひきこもり)

 たまらなくなり、船をまっすぐ元の係留地に進める。まだ死ぬ時ではないのだろう。

 航海から帰ると、ポストに手紙が入っていた。

 

 [解雇通知書]

 SANDALNIGHT殿

 貴殿を労働基準法にもとづき、本日付けで解雇いたします。

 理由:職務不履行のため。

 ○月〇日


 人間は他者のために生きる、この事を否定する事は出来そうに無い。だとすれば同様に

世界が僕のためにある事も同様に否定できない。何故なら、前者が正しいのであれば、

自分以外の他者は少なからず僕のために生きているのであって、その総和こそが、世界の

うち、僕のためにあるその一部だからである。

 現実の世界が幻の海に浮かぶ灯台なのだとすれば、僕の照らす海の範囲は、この総和

そのものである。

 僕が他者のために世界を照らす事は、結局、僕が僕自身のために世界の広さを決める

事と何も変わらないのだ。

 僕はロボットを開発していたとき、専ら考えていたのは灯台が放つ光の強さであった。

その光に形を与えるための、スクリーンたる海の事は考慮していなかったのである。限

られた人数からなる共同体とは、海というよりは壁であり、光の直進を遮るものであった

からだ。

 出来るだけ遠くまで照らさなければなるまい。光が減衰して消える無限遠点に向けて...。

 だけど、それでは永久に光が形を持つことはない。自分の作る世界の広さを確かめた

ければどうしても先に壁を作る訳にはいかない。いくら遠くを照らしたつもりでいても、

依然として、その先にある壁の存在は否定できないからだ。僕はせめて壁を外していく

事でしか希望を見出せないのだから。

 世界の果てにあるものが壁なのか、海の落ちる断崖なのか、それは行ってみなければ

分からないのである。

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