悪役令嬢は、何も致しません〜婚約破棄ですか?どうぞご勝手に〜
華やかな音色に複数の男女は華麗に舞う。
ここは、王宮主催の舞踏会会場。
「シャーロット・ベアトリス。貴様とは婚約破棄をするぞ!!」
そこで、1人の男が、荒々しい声を上げた。
途端に緩やかに流れていた音楽は止まり、同時に舞踏会に集まる紳士・淑女たちも会話を中断して、彼に注目した。
何故なら、声を上げたその人は、この国の第一王子であるジャック・レイブン、その人であるのだから。
そして、彼と向き合っているのは、シャーロット・ベアトリス侯爵令嬢。この国では珍しい漆黒の髪を揺らし、サファイヤのような瞳を鈍く光らせている。
絶世の美少女、という言葉が相応しい彼女は色気と毒を同時に含んでいた。
そんな彼女は、口端を緩く持ち上げ、挑戦的にジャック王子を見返す。
「殿下。急にそんなことを仰って、如何なさったのですか?」
シャーロットの様子に、ジャックは憤怒に顔を赤くした。
「如何したもの何もない!貴様、エマに嫌がらせをしていたそうではないかっ」
「‥‥なんのことでしょうか?」
「とぼけても無駄だぞ!エマがそう言っているのだから!」
シャーロットはジャック王子がおかしなことを言い始めた理由に「ああ」と納得をした。王子の腕に手を巻き付け、不安そうに彼を見上げるその存在が、王子にそんな阿呆なことを言わしめているのだ。
王子にピタリとくっついて離れない彼女は、エマ・ポリソン男爵令嬢。
愛らしいピンク色の髪にガーネットのような瞳を輝かせている。庇護欲を掻き立てるその容姿は、正にシャーロットと正反対と言えるだろう。
彼女は、ジャック王子がここ最近入れ込んでいる令嬢であり、シャーロットもその事は知っていた。
何故なら、ジャック王子と会うたびに、他の女性の――可愛らしい桃色の髪をした相手と比較する言動が随所に見られたからだ。
しかし、国法によって一夫多妻は認められていない。勿論、それを守っている貴族などごく一部ではあるが、公の場で王子自らがそれを破ることがどれほどの問題か、気付いているのだろうか。
「さっきから黙っているが、どうなんだ?!」
「とぼけるも何も、私は何もしておりませんので」
身に覚えのないことは、シャーロットとて肯定は出来ない。冷静に切り返す。しかし、その言葉を待っていたとばかりに、ジャック王子はニヤリと笑った。
「ああ、そうだな。お前は何もしていない。何故なら、それがシャーロットという人間の常套手段なのだから」
「‥‥‥」
シャーロットはその言葉に、思わず口を閉ざした。一方で、周りの貴族たちは嫌味な笑みを浮かべた。中には、声に出して笑いを堪えない者もいた。
シャーロットは、何もしない命令ばかりの我儘令嬢として有名であった。
そして、貴族の間では「絶対零度のシャーロット嬢」と揶揄されていたのだ。冷酷無慈悲に他の者を従わせる点から。また何もしないことを「零」と掛け合わせた、シャーロットを侮辱した呼び名だ。
しかし、その噂がたったのは、ジャック王子が原因であった。
シャーロットは、王妃教育や社交等で忙しく、ジャック王子の相手に時間を割くことは出来ない。もちろん、それについて再三説明はしてきたのだが、王子は理解しようとしなかった。
そして、周りの人間に「シャーロットは何もしない」と愚痴をばら撒き、それが一部の事実と絡み合い、そのような噂が出来上がってしまったのだ。
自分がその噂の原因だとは露も知らず、シャーロットが黙ったことで図に乗って、ジャック王子は次々と言葉を投げつけた。
「お前は周りの者に対して命令するばかり、我儘ばかりで、何もかもを他の者に任せているようだな」
「そうですね」
「侯爵家の領地経営に対して、文句や要望のみを言い、手下どもを困らせていると聞いたぞ」
「ええ」
「また、自ら書を読むことは面倒だからと、家庭教師に読ませて要約させ、時間外労働を強いたそうだな。挙げ句の果てに、それが解り辛いからと、解雇を申し入れたと」
「それも、事実です」
確かに、どれも本当のことを言っている。が、事実であって真実ではないことにジャック王子は気付いていない。
事実が捻れ、またシャーロットをよく思わない一派が婉曲して伝え、シャーロットがそのように呼ばれる所以となっているのだ。
全ての言葉に同意するシャーロットに、その単純さにジャック王子は鼻で笑った。
「そう考えると、シャーロット。貴様が他の者に命令を下し、エマに嫌がらせをさせていたに違いない」
「‥‥‥確かに、使いの者をやって、エマ嬢に注意するように命令したことはあります。しかし、それ以外は一切何もしておりませんわ」
「ほら、やっているではないか」
「ですから‥‥」
シャーロットは、こめかみが攣りそうになるのを抑えながら、あくまで笑顔は崩さない。注意、と言っても、ジャック王子に色目を使い、気安く話しかけるのは貴族としてあるまじき行為である。それを注意してもらっただけだ。
そもそも嫌がらせ云々という話も本当かどうか怪しい。シャーロットは社交界で情報を集めているが、そういったことは聞いたことがないのだ。
「皆のもの、聞いたか?!シャーロットめは罪を認めたぞ!!傲慢で、何もしない。身分が下の者に嫌がらせをするこやつは、やはり王太子妃として相応しくない!」
しかし、自分の腕を握る可憐な少女を一寸たりとも疑わないジャック王子は、シャーロットに最終宣告を下す。
「よって、シャーロットとの婚約を破棄し、このエマと婚約をしようと思う!」
ブチリ。何かが切れる音がした。
ジャック王子は勝ち誇った顔だ。そして、さも屈辱的な顔をしているのだろうと、彼はそのままシャーロットに目を滑らせた。
が、すぐにジャック王子は顔を強張らせた。
シャーロットの表情は抜け落ちていた。先程まで笑みを浮かべていた。が、その面影もない。
そう、それはまるで絶対零度の表情。
シャーロットは面倒そうに後ろ髪をかきあげた。
「面倒だわ。この方は、私の言葉が理解出来ないようね。私はもう喋らないわ」
シャーロットの言葉に、成り行きを見守っていた貴族たちはざわついた。
それは、「何もしない」という汚名を肯定するような言葉だったからだ。批判めいた視線が彼女に容赦なく注がれる。しかし、そんな周りの視線も気にせずに、とある人の名前を呼んだ。
「フィリップ。此方へ来て、私の代わりに弁明をしなさい」
「はい」
颯爽と現れたのは、正服ではない短めのネクタイに、ベストを身につけている。
そう、執事服だ。彼は、ベアトリス家に代々仕える筆頭執事であった。
銀色の髪にグリーンの瞳を持つ、その甘い顔立ちに、数人の令嬢は色めきだった。
「遅いわ」
「申し訳ございません」
シャーロットは、そんな彼を一刀両断する。令嬢達は非難めいた顔をするも、当のシャーロットはどこ吹く風だ。彼、フィリップは胸に手を当てて慇懃に礼をした。そして、言うのだ。
「貴方様は、何もしなくてよろしいですから」
それが、全ての合図だった。
その執事・フィリップは、ツカツカとジャック王子に歩み寄る。
一瞬たじろいだかに見えたジャック王子だったが、隣に「愛しのエマ嬢」がいるため、すぐに体勢を立て直した。が、それも一瞬で崩されてしまった。
「僭越ながら、発言の機会を頂いてもよろしいでしょうか?ああ、よろしいのですね。ありがとうございます」
早口で言い切り、ジャック王子が口を挟む余地もない。なんとか一回首を縦に振っただけである。
「まず、婚約破棄についてですが、それは了承致しましょう。その代わり‥‥‥」
彼はクスッと笑って、王子に爆弾発言をぶん投げた。
「慰謝料として三千万ダル頂きます」
「三千万?!」
ジャック王子は、思わずといったように声をあげた。周りの貴族達もこの言葉には耳を疑った。三千万ダルとは、国の1等領地――港町や鉱山のある土地など――の経営を10年して得られる料金であった。
つまり、彼は王子に対してふっかけたのだ。
「当たり前です。他の女性、それも格下の相手を『嫌がらせをした』という曖昧な理由で婚約破棄を一方的にするのですから、これくらいが妥当です」
「いや、曖昧では‥‥エマがそう言ってるのだから‥‥‥‥」
ジャック王子は何かを言っているが、がっつり無視して、笑顔を見せる。
「ああ、公衆の面前で婚約破棄をした精神的苦痛を我がシャーロット様にお与えになったので、もう少し増やしてもいいかもしれませんね」
「な‥‥‥な‥‥‥‥!」
彼の体は震慄、何も言うことが出来ない。そもそもこの王子、人のことをとやかく言っているが、勉強も碌にしないため、頭が良くないのだ。反論出来るだけの頭があるとは言い難かった。
「ジャック様ぁ」
「そんなのは認めんぞ!」
しかし、隣でエマがか細い声で縋ると、一転。キリッとした顔で反論をしてきた。しかし、その様子を一蹴するが如く、フィリップは次なる一手を出した。
「それから、殿下。貴方は、婚約者がいらっしゃる身でありながら、沢山の女性と関係を結んでらっしゃいましたよね」
「は?!」
「え?」
その言葉にひどく慌てた様子を見せたジャック王子。エマは、そこで初めて王子から距離を取った。恐らく、ジャック王子は、エマに「君しかいない」などとほざいてやがったのだろう。
フィリップは容赦なく、彼らの前に資料を突き出した。
「これが根拠の証言となります。勿論、プライベート上のことですので、名前は伏せさせて頂きますが、中には既婚者の方もいらっしゃいます」
「そんなのは、証拠には‥‥」
「中には親子共々大変ご立腹の方もいて、なんならここで名前を読み上げてもいいと言っておりますよ?」
「はあ?!」
ジャック王子は激昂し、明らかな動揺と焦りを見せた。
「俺は王子だぞ!そして、次期王だ!そんなことくらいで、こんな目に遭うなんておかし過ぎる」
「そうですね。そこまでなら誰も殿下を止めないでしょう。しかし、こんなに派手なことを。婚約者がいる身でありながら、他の方との浮気を堂々と宣言されるのが問題なんです」
フィリップは憂いげに首を横に振った。
「シャーロット様はその寛大なお心でこれまでの浮気を許してきたにも関わらず、わざわざ心的苦痛を与えるなど、言語道断」
フィリップは悪魔のように、天使のような整った顔に笑みを浮かべる。そして―‥‥
「もしかして、誰かにそそのかされましたか?」
唇に人差し指を当てて、小首を傾げる。その姿は、王子の入れ込むエマ嬢よりもあざとく可愛らしい。シャーロットは彼に呆れた視線を向けた。
「貴様‥‥貴様、もしかして‥‥‥‥」
しかし、ジャック王子には、何か思い当たる節があったようだ。彼にひどく怯えている。そして、そのまま何も言えなくなってしまった。
軍配は、上がっているだろう。
「もう、いいわよ。フィリップ」
「いえ。もう一言だけ」
フィリップは、我慢できないというように、主人の言葉を止めた。そして、まっすぐと王子を、その場にいるシャーロットを笑った貴族たちを見据える。
「色々申し上げたいことがあるのですが‥‥そうですね。シャーロット様が『何もしていない』という点について」
フィリップは一瞬不快げに目を細めたが、すぐにそれを悟られないように表情を戻した。
「何もやっていないとは、とんでもない。シャーロット様は、毎日王妃学を懸命に学ばれています。先程、解雇された教師の方がいらっしゃるとのことですが、その方には新しい職場を用意致しました。教師よりも研究職が向いてらしたようで、すごく感謝をされていましたよ。勿論、全てシャーロット様の采配です」
シャーロットが受けていた家庭教師は、正直、知識ばかりが先行し、分かりづらかった。そこで、授業の内容を紙にまとめてもらい、それをシャーロットが読むという形式に変えてもらった。
すると、それは、驚くほどに分かりやすかった。
シャーロットは、その時、人に話すよりも、静かに研究している方が向いているのではないか、と思ったのだ。その結果、彼女は家庭教師を解雇することとなったのだ。
「シャーロット様はよくご命令をされます。しかし、それは上に立つ人間として当然のことです。それに、その命令は的確で、それを完璧に遂行すれば、礼も褒美も厭いません。模範的な主人です」
そこでフィリップは言葉を止め、ジャック王子に近づく。
「何か、ご反論はありますか?」
ジャック王子は首を横に振るだけで崩れ落ちてしまった。
完全勝利。パーフェクトゲーム。
全てをやり切り、ジャック王子を封じ込めたフィリップは、非常にご機嫌な顔でシャーロットを振り返った。
「という訳で、貴方様の弁明を完璧にしてみせました。褒美を下さい、シャーロット様?」
その貪欲とも取れる言葉に、「言うと思ったわ」と眉を下げて笑ったシャーロット。しかし、毅然とした態度も崩さない。
「いいわ。なんでも言って頂戴」
シャーロットは当たり前のように言ったが、しかしその言葉を数秒後に後悔した。
「貴方様が欲しいです」
「えぇ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
絶対零度の令嬢、シャーロットの顔は、その瞬間真っ赤に染まった。
「私の気持ちは以前申し上げた通りです。貴方をお慕いしております。どうかあんなのとは婚約破棄をして、俺と結婚して下さい」
「へ‥‥‥いや、その」
「何が駄目なのでしょうか‥‥こうして晴れて婚約破棄出来たのですから、問題ないのでは?」
「いえ、あの。私の気持ちが」
「そうですか。俺はいらないということでいいですか?」
「そんなことは言ってないわ!」
「では、よろしいではないですか」
そう。この執事、実はお嬢様であるシャーロットに恋をしていたのだった。
事の発端は、4年前。
フィリップは、執事としてベアトリス家にやってきた。そこで出会ったのがシャーロットであった。
「ふうん。貴方が新しい執事なの。まあ、せいぜい私の機嫌を損ねないことね」
表面上はにこやかに答えたものの、フィリップは内心「なんだこのお嬢様は」と思っていた。
それから、シャーロットはフィリップに命令を下す日々。
ある時は、「あれが欲しい」と我を通し。
ある時は、領地経営への口出しを気まぐれ的にしてきた。
忙しいにも関わらず、我儘を言う彼女にはじめは、辟易とした。
しかし、やがてフィリップは気づいた。彼女の行動全てが、巡り巡って領地の利益に繋がっていることに。
彼女が欲しいと口にして、社交界で見せびらかしていたものは、やがて領地の特産品に。
領地経営に関しては、あとから的確だったと、周りが納得する始末。
なので、フィリップはシャーロットと2人きりになったときに聞いたことがある。
「貴方様は、意図的に我儘を仰っているのですか?」
不敬とも取れるその発言に、シャーロットは「あら」と眉をあげた。
「今更、気付いたの?」
その時の、笑顔が。
何にも代えがたいほど無垢で。しかし、毒を孕んでいて。
この世の至上の愛らしさを持っていて。しかし、年に似合わぬ色香を纏っていて。
あまりに美しすぎた。
彼女の、賢さと大胆さと、それからその笑みに、フィリップは撃ち抜かれてしまったのだ。
それ以降、フィリップは包み隠さず、シャーロットに想いを告げ続けているが、取り合ってもらえない。
最終的に、真剣に告白をしたのが1年前。一瞬、顔を赤くしたシャーロットだったが、すぐに気を取り直した。
そして「知っているでしょう?私には王の子供を産む義務があるのよ」とまで告げられる始末。
撃沈だ。心だけでなく、精神まで撃ち抜かれて、フィリップの想いは墜落させられてしまう。鋼の精神を持つと自負しているフィリップも、その日は流石に落ち込んだ。
しかし、次の日には立ち直って、シャーロットに聞いたのだ。
「つまり、婚約破棄すれば、貴方は結婚を考えて下さるのですか?」と。
シャーロットは肩を上げて「それもそうね」と答えた。どうせ出来ないだろうと考えながら。
それから、1年。遂に、婚約破棄の時がやってきた。のだが‥‥
「それでは、自害をお命じ下さい。もう生きてはいけません」
「重いわよ‥‥というか、本気なの?」
「本気ですよ。ずっと伝えていたではありませんか」
「そ、れは‥‥貴方なりの冗談だと思って‥‥」
「なんと鈍感なのでしょう。可愛らしさで殺す気ですか?」
「わ、わざとではないわ!」
シャーロットはリンゴ色に頬を染める。が、フィリップはここぞとばかりに追撃の手を止めない。やり返してる感はある。
「それはそうでしょう。そこが可愛らしいのです。もういいです。貴方の可愛さで死ぬので」
「言っている意味が分からないわ‥‥」
何を見せつけられているのか、と周りの貴族たちは真剣に思った。その視線を意に介さず、フィリップはシャーロットへの攻撃の手を緩めない。
「う、浮気だ!」
そこで、声を上げた者がいた。他でもないジャック氏である。彼は、ヘタリながらも、2人を指差し、叫ぶ。
「お前たちは恋仲なのだろう?!こっちのことだけを言及して‥‥お前らも立派な浮気じゃないか!!」
その言葉に、シャーロットは呆れてものも言えない。が、隣にいるフィリップは違ったようだ。
「はあ?」
誰かが「ひっ」と悲鳴をあげた。彼は、主人と同じ、絶対零度の冷たさで王子を凄んだ。
「誰が、誰と浮気したと言ったか?」
「お、お前とシャーロットだよ!」
「貴様の汚らわしい口であのお方を呼ぶな」
冷たい目でジャック王子を見下ろす。
「いいか?俺は、4年間、指一本お嬢様に触れてない」
「‥‥」
「4年間だぞ?4年間。目の前に好きなお方がいながら、少しも触れられない地獄、お前は知ってるか?最早悟りの域に達するのを、俺は感じていたぞ」
はっと自嘲気味にフィリップは笑う。
「ああ、知らないよな。なんてったって貴様は、そこらの令嬢を見境なく食い散らかしているのだものな。我慢というものが‥‥」
「フィリップ、ステイ」
「はい」
シャーロットの鶴の一声により、フィリップは王子から離れ、再び笑顔を戻した。
その場にいる者は、全員思った。犬か、と。
シャーロットは、溜息をつき、そして王子の元へ、足を進めた。
へたり込んでいる王子を、シャーロットは毅然とした態度で見下ろす。
「ジャック王子。貴方は、バカでアホでマヌケだわ」
「な、何を‥‥」
「だから、貴方が命令をしても、誰も言うことを聞かないでしょう」
いい?覚えておくことね、とシャーロットは前置きをした。
そして、無垢で愛らしく、毒香を纏った至上の笑みを浮かべて、宣言したのだ。
「私と貴方の『何もしない』は、違う、とね」
一瞬の沈黙の後、拍手がまばらに起こった。
ジャック王子は屈辱で動けず、エマ嬢は、恥辱を感じたのか既に何処かに行ってしまっていた。そして、王子を侮辱したフィリップは、シャーロットの笑みに惚れ惚れとしていた。
それらの全てをどうでもいいとばかりに、シャーロットは「では」と言う。
「慰謝料など諸々の手続きで会いましょう」
その言葉は、それ以外では会わないという意思表明だ。
綺麗なカーテシーをして、フィリップを連れて帰っていく。その姿は、美しく、どんな時も毅然としている。模範的な淑女のあり方だ。
華麗に汚名返上をした彼女は、「絶対令嬢シャーロット」と呼ばれる事になるのを、まだ知らない。
そして、このアホ王子だが。
この騒動を知った現国王は大激怒。シャーロットに陳謝し、ベアトリス家に多額の慰謝料を払った。貴族社会で色々とやらかしていたジャックを王位継承権から外した。エマ嬢にも見捨てられた彼は、行き場がないようである。
しかし、それもまた、少し先の話だ。
⭐︎⭐︎⭐︎
「解せないわ」
シャーロットは自室で呟いた。目の前には、始終笑顔で上機嫌のフィリップがいる。彼は、わざとらしく首を傾げてシャーロットの次の言葉を待った。
「なぜ、父上も母上も、私と貴方の結婚を認めているのかしら?!」
「それは、結婚するべきという思し召しでは?」
「貴方が根回ししたんでしょう?!」
シャーロットとフィリップの2人は、ベアトリス侯爵家に戻っていた。
「お忘れでしょうか。これでも爵位は持っているのですよ」
「忘れてないわよ!」
であるから、フィリップがうちに婿入りを果たせばいい。勿論、これ以上良い条件の結婚話はないだろう。
シャーロットは、王子に婚約破棄された身だ。確実に醜聞は付き纏う。ある事ない事言う者も出てくるだろう。
なんだかんだと娘が可愛い父も母も、多少身分は低くなるものの、この好条件を呑まない手はないと考えるだろう。
「そもそも、婚約破棄も貴方が仕向けたのでしょう」
「すみません‥‥ちょっと仰っている意味が‥‥‥」
「な・ん・で・か・し・ら」
シャーロットが彼に迫ると、困ったような嬉しそうな顔をしながら、彼は言った。
「まあ、多少は致しましたよ。王子の不祥事に関して調べあげたり。女装して、王子を籠絡して、『エマ様を正室に、私を側室にして下さい』と言っただけですよ」
「‥‥‥」
ジーザスだ。多少ではなく、滅茶苦茶している。
王子がフィリップに尋常ではないくらい怯えていたのはそのせいか、とシャーロットは一人で納得した。
普通、王子を騙すなど不敬罪に問われそうではあるが、女装した男に惑わされたなど言えるわけが無い。腹黒い貴族たちの食いものにされるだけだ。
とは言え、散々令嬢を「食って」きた王子だ。逆の立場になるのは、面白いに違いないが。
「あの‥‥先ほどから、シャーロット様は何か怒っていらっしゃいますよね?」
フィリップは、先ほどから不機嫌な顔を隠さないシャーロットの様子が気になっていた。明らかに元気がない。
もしかして、この婚約破棄は余計なお世話だったのでは、とフィリップは今更ながらに不安に思う。
しかし、それは杞憂だった。シャーロットは、静かに目を伏せ、顔を僅かに赤らめながら、不満を漏らす。
「貴方は、私の外堀を埋めて、外壁を崩して、徹底的に邪魔を排除したのに、私には触れてこないのだもの」
そう。シャーロットの最も気に入らないのは、フィリップが指一本触れてこない事だ。王子に言っていたことは誇張でもなんでもない。エスコートさえも、他の者に頼んで、最小限しかしてこないのだから。
「それは、貴方に触れたら、きっと自制が利かなくなってしまうので」
仕事に関しては手が早いのにね、とシャーロットが茶化すが、彼は苦悶に満ちた表情でシャーロットを見つめてくる。
「貴方の命令がなければ、俺は動けません」
彼の手は、彼女の頰の側まで近寄り、しかし彼女の肌には触れず、そのまま空気をかき切った。
「貴方の心が伴っていないのに、俺は‥‥」
「馬鹿ね」
シャーロットは、フィリップの手を握った。
「私の心は、もうとっくに貴方のものよ」
いつも支えてくれたのは、フィリップであった。
社交界には敵しかいない。これから、国政を担っていかなければならない。婚約者は他の女性に夢中。
そんな苦しい状況で、フィリップだけは常に味方でいてくれた。
何か、大きなきっかけがあった訳ではない。しかし、確実に、彼を好きになっていったのだ。王子の婚約者だから、と今まで我慢していただけで、とっくにシャーロットはフィリップに恋をしていた。
「それでは、答えになっていないかしら?」
「シャーロット様‥‥」
フィリップは、シャーロットを感動的に見返した。そして‥‥
そして、そのままシャーロットを押し倒した。
「好きです!!」
「ちょ、何を」
シャーロットは焦りながら、声をあげる。すると、フィリップは首を傾げた。
「貴方がお許しになったのですよ?」
「そこまでは許していないわ!!」
前言撤回。この人は、確実に、手が早い、とシャーロットは考える。
「想い合っている男女、親の許可も出ている、女好き馬鹿という邪魔者もいない」
「不穏な単語が聞こえたのだけど‥‥」
「どこに、問題があるのですか?」
「問題というか‥‥私の気持ちの問題で」
真っ直ぐと見つめられる瞳に、思わずシャーロットは目を逸らした。
「とにかく、心の準備が出来ていないのよ!」
何度か口篭ったシャーロットだったが、遂に言い切った。何せ、経験がないのだ。
シャーロットは王子のお眼鏡には適わなかったらしい。しかし、なんだそういうことか、とフィリップは安心した顔を見せた。
「それなら、大丈夫ですよ?何もかも、お任せください」
フィリップは、目を細める。そして、指を絡め、耳元で囁くのだ。
「貴方様は、何もしなくてよろしいのですから」
甘い声に、言葉に、その背徳感に、シャーロットは背中がゾクゾクとするのを感じた。この中毒性はまずい。身の危険を感知したシャーロットは、徹底的に抵抗することを決めた。
「ステイ!ステイ、フィリップ!」
「狼なので、聞き分けが悪いんです」
「何、上手いこと言ったみたいな顔をしてるのよ!」
その日の夜、2人の間で仁義なき攻防戦が繰り広げられた。戦いの行方は、シャーロットとフィリップだけの秘密だ。
しかし、何もしない悪役令嬢と、彼女を溺愛する執事だ。勝敗は、明白ではないだろうか。
ブクマ、評価、ありがとうございます!!また、誤字報告も助かります!