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二重人格少女

作者: なまこ

 彼女の手には鋭利なナイフが握られていた。

 その切っ先からは鮮血が滴り落ちていたーーーー


 僕は何度目にもなる悪夢で目を覚ました。

「市村先生、お願いします」

 仮眠時間の終了を告げる看護師の声で、僕は重い頭を振りかぶりながら体を起こした。

 今は目の前のオペに集中しなければ。

 幾度となく、同じ悪夢を目の当たりにしてきた。

 それを防ぐためにも、今は。


「せーんせい、おはようございます」

「ああ、凪沙ちゃん、おはよう。今日も早いね」

 これから出勤という僕の背後から声をかけてきたのは、アパートの隣に住む中園凪沙ちゃんだった。

 僕はとある大学の附属病院で働いている。彼女はその大学に通う一年生。進学をきっかけに越してきたばかりの彼女を道案内したことがきっかけで顔見知りになり、今では毎日挨拶をかわすまでになった。

「先生も毎日早くから遅くまでお疲れ様です。私も先生みたいなお医者さんになれるように頑張らなくっちゃって思って、今日もこれから自習しに行くところなんです」

「僕は半年前に研修医期間を終えたばかりの駆け出しの脳外科医だよ。入学してから毎日頑張って勉強している凪沙ちゃんの方がよっぽど立派さ。僕は現役時代、そこまでの根性はなかったからなあ」

 またまた、と笑う彼女。出勤前、キャンパスと病院との分かれ道までのこの数分が僕のモチベーションになっていることを彼女は知らない。

 けれどそれでいい。

「それじゃあ先生、また」

「ああ、また」

 秋の訪れを告げるような少し肌寒い風が僕らの間を通り抜けた。

 まるで、これから訪れる『悪夢』を象徴するかのように。


 『その日』も、いつもと同じ帰り道だった。

 何件ものオペを終えくたくたに疲れてはいたが、彼女が待っていると思うと不思議と足が進んだ。

 凪沙ちゃんは、道案内のお礼にと家にお裾分けの手作りおかずを持ってきてくれたことがあった。

 それがコンビニ弁当ばかりだった自分の心に沁みたのは言うまでもない。

 お礼にと、タッパーに少し高級なお菓子を詰めて返したら、もらいすぎだとまたそのお礼が帰ってきた。

 こんなやりとりが続いた結果、彼女はとうとう晩御飯を僕の分まで作って待っていてくれるようになった。

 自分は社会人で、彼女は学生。関係はただのお隣さん。

 さすがに問題だと思った僕は彼女からの申し出を断ったが、これまた彼女はとてつもなく頑固で、僕が根負けする結果となった。

 その代わりといってはなんだが、材料費を渡すことと、彼女に勉強を教えることで決着となった。

 もちろん下心がないといえば、僕も一般的な男なので嘘になるだろうが、一生懸命な彼女を見ているとそんな気持ちもどこかへ行ってしまう。

 彼女が無事に卒業して、地元に戻るまでの間、その手助けができればいいーーー今はそう思っている。

 いつも通り彼女の部屋のインターホンを押した。

 しかし返事はない。

 彼女は朝が早い分夜は遅くならずに帰ってきていることが多い。

 普段ならばもうとっくに帰ってきていてもいい時刻だ。

 部屋からは温かな夕食の匂いもせず、人の気配も感じられなかった。

 まさかと、踵を返して走り出した。

 嫌みのような美しい満月が、僕の行く手を鈍く照らす。

(また、なのかーーー)

 彼女の行き先はわからない。

 けれど、今度こそ、あの悪夢が起こる前に見つけ出さなければーーー

 息を切らせ走る僕の目の前に、赤い光で埋め尽くされた公園が見えた。

 周りはざわざわと騒がしく、スマホを掲げ写真や動画を撮る人で溢れ帰っていた。

 その中心にいたのは、

「なぎ、さちゃん…」

 彼女の洋服が公園の明かりに浮き彫りにされた瞬間、僕は膝から崩れ落ちた。

 返り血で真っ赤に染まった彼女。その手には鋭利な包丁が、いつも僕の心を温かく満たしてくれた料理の相棒であるそれが握られていた。

 その切っ先からも、同じ色の液体が滴り落ちていた。彼女の傍らには、その被害者であろう男性が横たわっていた。医者でなくてもわかる。その出血量と傷口から、即死であることは明白だった。

 彼女の瞳は充血し、連行しようとする警察官をなんとか振り払おうと鬼のような形相をしていた。

 明るくて、頑張り屋さんで、料理や勉強を褒めてははにかんだように笑う彼女とはかけ離れた、見たこともない表情だった。

 僕の慟哭が公園に響いた。

 なぜ。なぜ。なぜ。

 どうして凪沙ちゃんがーーー


 弾かれるように飛び起きた。

 気がつくと、僕は自宅のベッドの上にいた。

 時間を確認するためスマホを開く。

 いつも通りの起床時刻だ。

 出勤には十分間に合う、が、今はそんなことはどうでもいい。

 凪沙ちゃんはどうなった?

 あれだけの出来事だ。ニュースになっていてもおかしくないと思い震える手でテレビの電源を入れた。

 アナウンサーの明るい声が流れる。

 そこで僕は違和感に気づいた。

 凪沙ちゃんが事件を起こしたのは満月の夜、つまり昨日だ。

 中秋の名月ということで、どの局でもその話題を取り上げていたからよく覚えている。

 しかし、どうだ。

 アナウンサー達も、天気予報のコーナーも、『数日後に迫った十五夜』の話をしているではないか。

(時間が、巻き戻っている…?)

 それが、始まりだった。


 それから、僕は何度も同じ『悪夢』を目の当たりにした。

 場所はバラバラ。決まって、彼女は必ず十五夜の晩に惨劇を起こす。

 何度も仕事を早く切り上げて、彼女を捕まえようとした。

 しかしどうしても見つけられなかった。

 風邪だと嘘をついて休みを取り、一日中彼女を見張ったことだってある。

 それでも、なんの力か、表情を変えてしまった彼女には男の自分でも太刀打ちできなかった。

 自分自身が殺されかけたこともある。

 あれこれ理由をつけて彼女から凶器となりうるものを全て借りたこともあった。

 それでも、彼女はどこからか凶器を調達してきてしまい、時には何もなくとも、その驚異的な力だけで悲劇を繰り返した。

 僕にできることはもう何もないのかーーー


 僕が『悪夢』に閉じ込められてからしばらくたった時だった。

 先輩達のある話が耳に入ってきた。

「なあ、人を凶暴化させるニューロンって知ってるか?」

「なんだそれ。そんなお伽噺みたいなもの、お前信じてるのか。根拠となる論文でもあるのか?」

「それはないみたいだけど、あくまでもウワサだ。海外で手のつけられなくなった死刑囚の脳細胞を研究した結果、脳の一部がみたこともないニューロンの束に変化してたらしい」

「馬鹿馬鹿しい。それが本当だとしたら、とっくに発表されてていいはずだ。犯罪の予防にもつながるんだからな」

「そうだとしても、生きた人間を研究の材料にしてたなんて体裁が悪いだろ?」

「お前、そんな根拠のない話を信じて脳外科医として恥ずかしくないのか」

 すれ違いざまに聞こえてきただけだったので、それ以降の会話は聞こえなかった。

(人を凶暴化させるニューロン、か…)

 待てよ。

 仮にニューロンでなかったとしても、だ。

 脳に腫瘍ができた人間の性格が豹変する、なんて事例もある。

 これは僕の先輩医師が経験した話だ。

 娘の性格が急変し、母親にも暴言を吐いていた。

 思春期特有のよくある話だと思い、休日診だったこともあり先輩はその親子をそのまま帰そうとした。

 しかし、母親の「普段はこんな子じゃないんです。どうか脳の検査をお願いします」という熱意に負け、放射線技師を呼び出し、MRIを撮ったところ小さな腫瘍が見つかったらしい。

 まさか、凪沙ちゃんも…


 中秋の名月まであと二日。

 僕は凪沙ちゃんを病院に呼び出した。

「凪沙ちゃん、最近涼しくなってきたけど体調はどう?」

「すこぶる良好ですよ。成績の方も夏休みボケせず、この前の小テストもバッチリでした」

「それはいいことだね」

 どこも今のところ変化はないように見える。

 果たして彼女は、僕の話を信じてくれるだろうかーーー

 重い口を開いた。

「ねえ、凪沙ちゃん」

「市村先生、どうしたんですか」

 様子がいつもと違うことに気がついたのか、彼女は心配そうに僕の顔を覗きこんだ。

「急にこんなことを言われても納得できないと思うけど、脳の検査、してみないか」

「どうしてです?」

 彼女の眉間に皺が寄った。そりゃあそうだ。

 自身が健康と思っている状態で脳の検査なんて、普通受け入れられない。

「凪沙ちゃん、君は、脳に障害を抱えている可能性がある」

「なぜそう思うんです?」

「それはーーー」

 何度も見てきたから、なんて言えるはずもない。

 それに、彼女の頭に豹変する原因が潜んでいるという根拠もない。

「凪沙ちゃんが信じてくれるならだけど、脳外科医としての勘、かな」

「勘?勘で検査されたら大抵の患者はたまったもんじゃないです。それに、急にそんな大金だせません」

「そうだね。それは僕もわかっている。けれど凪沙ちゃん、一つだけ言わせてほしい」

「なんですか?」

 僕は意を決してそれを口にした。

「頼む。この先どんなことがあっても必ず僕が責任を持つ。今は僕を信じてほしい」

 まだまだ未熟で、信用はないかもしれないけれど。

 どうしても彼女を救いたかった。

 そんな気持ちを込めて頭を深く下げた。

 頭上から彼女の息を吐く音が聞こえた。

「顔を上げてください、先生」

 僕はゆっくりと彼女と目線を合わせた。

 意外にも、その顔には微笑みが浮かんでいた。

「先生にそこまで言われたら、私は信じるしかないです」

「凪沙ちゃん…」

「それで、検査日はいつですか?」

「明日だ」

 えっ、と驚いて彼女は声を上げた。

「急な話ですまない。でも、明日しかないんだ…」

 僕は膝の上できつく拳を握りしめた。

「…わかりました」

 しばらく唇を結んだ後、彼女はうなずいてくれた。


 そして翌日。

 彼女の頭部検査が施行された。

 結果はーーー

「わずかだけど、ここに腫瘍ができている」

「腫瘍で間違いないだろうな…」

 画像を見ていた放射線技師と意見が一致した。

 彼はベテランだ。そこらの脳外科医より正確に結果を出す。

 僕は彼に賭けた。

「この腫瘍…これ以上成長すれば、脳のこの部分を刺激する。この子は自分で自分を制御できなくなるぞ」

「…緊急オペだ」

「何言ってるんだ市村。この部位は切除が非常に困難で、執刀できる医師はもう予約で手一杯だ。明日以降に…」

「今日しかないんです!」

 僕は叫んでいた。普段先輩に口答えする事のない僕が声を荒げたものだから、その場の全員が驚いていた。

「今日しか、ないんです…!お願いします!」

「誰ができるんだ!無理だ!」

「僕がやります!」

 その発言に、またしても場が凍りつく。

「お前じゃ無理だ。経験が無さすぎる」

「絶対成功させます」

 そう。あの惨劇を繰り返させないためにも。

 人殺しなんて十字架を、彼女に背負わせないためにも。

「一刻を争うんです。お願いします」

 何度も、何度も悪夢を繰り返してやっと掴んだチャンスだ。

 逃すわけにはいかない…!

「そこまで言うなら、やってみろ」

 僕は顔をあげ、また深々と下げた。

「ありがとうございます!」


 彼女に検査の結果を伝えるのは少々酷だったが、最終的には今日の緊急手術にも納得してくれた。

 彼女の親御さんも地元から駆けつけてくれた。

 絶対に、救ってみせる…!

 頭蓋の切開終了後、モニターを見ながら慎重に、周囲の脳を傷つけないよう腫瘍まで器具を進めていく。

(あと少し…あと…)

 もう少しで腫瘍にたどり着く、というところでモニターがアラームを鳴らす。

 正常な組織を傷つけそうになっている合図だ。

「市村。これ以上は危険だ。ここまで…」

「嫌です。諦めません」

 ここで僕が執刀を終わりにすれば、彼女は今夜には豹変してしまう。

 そして、人をーーー

 一度手を戻し、アラームが消えたことを確認してからまた少し違う角度で腫瘍を攻める。

 そして、到達した。あとは取り除くだけだ。

 切除の際、幾度となくアラームがなった。その度に手を止め、違う角度を試した。限られた時間の中で、彼女に後遺症を残さないよう、慎重に、しかし手早く術式を施した。

 そしてーーー

「終わった…」

 手術は成功した。


 その後の検査で、腫瘍は全て取り除けたことがわかった。

 彼女の様子に変化はない。

 しばらくは安静にしている必要があるが、今のところ言語機能や運動機能などに障害はみられず、後遺症の心配も無さそうだ。

「先生…ありがとう。まさか本当に、異常が見つかっちゃうなんて」

「凪沙ちゃんこそ、僕の話を信じて、僕自身を信じてくれてありがとう。手術、僕みたいなのが執刀医で不安だっただろ?」

 意外にも彼女はゆっくりと首を横に振った。

「検査しようって言ってくれたの、先生だから。先生なら、手術も絶対成功させてくれるって信じてたよ」

医者として、これ以上嬉しい言葉があるだろうか。

「どうしてそこまで、信じられたの?」

「先生、それはね」

 私の勘だよ。そう言って、彼女は笑った。


 それ以降、僕があの『悪夢』を見ることはない。

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