豪雨の記憶
酷い雷雨の夜だった。
『……お前、それ、マジで言ってんのか……?』
俺の間抜けな声は雷鳴に掻き消され、だが、俺の目の前に立ってた女は、無表情でありながらも強い瞳で、一つ、しっかりと頷いた。
『ええ。だから、お願い、大和。いえ……黒咲隊長』
一切迷いのない口調で、敢えて俺をいつもの愛称じゃなく苗字で、隊長と呼んだ彼女に、俺はこの時、心底背筋が寒くなった。
お願いと言われて、はいそうですかと言えるような事じゃ、ない。
むしろ……普通の人間なら到底、承諾出来よう筈もない事、だった。
『馬鹿、言うなよ。そんなこと、出来る訳』
『じゃあ、他に誰がやるの?』
鋭く言い返されて、俺は不覚にも怯んでしまった。
ともすると、戦闘モードに入った賢吾よりずっと強く怜悧な瞳が、俺を射抜く。
彼女は、こんなに、烈しい女であっただろうか。
『私はありとあらゆる覚悟を決めて、この“蝙蝠”の隊員になることを選んだの。たとえそれが、“女”であることを最大限に利用するような事でも、逆に、“女”であることを捨て駒にしないといけない事でも』
そんな覚悟を決めることに、一体何の意味があるのか、俺には分からなかった。
明日には戦が始まる戦国時代じゃあるまいし。
そんな覚悟、時代錯誤な上に、とんでもない自己犠牲だと思った。
けれど彼女は、俺の躊躇いを、俺の悔しさを読んだかのように、語気を強めて、尚も言い放つ。
『隊長、私はね。私の意志で、“私”を武器にするって決めたの。
罪を犯してのうのうとしてる奴らを捕まえるために、逃げ回ってる奴らを追い詰めるために。
それをあんたが駄目だって言うのは、隊員を軽んじてるってことなのよ』
『しかし……』
『……ここまで言っても渋るなんて、ほんと……人が好いね、隊長は』
当たり前だ。そんな話、受け入れられる訳がない。
隊長としても、一人の人間としても、男としても。
だが俺も彼女も頑固で、話し合いはその後一時間経っても終わらず、雷鳴もいつしか、遠くなっていた。
『――じゃあ、こうしましょう』
互いに考えを曲げないまま、不意に沈黙が下りて、ものの数秒後。
彼女は、ため息交じりに提案をして来た。
『少しでも嫌になることがあったら……隊長、貴方が、私を、慰めて』
『――……は?』
言われた瞬間は、咄嗟に意味が理解出来なかった。
けれど。
『偉そうなことを言っても、仕事だし、やる事がやる事だし、嫌になることもあるかもしれない。
その時は、貴方が、私を慰めて。
自分の部下の傷を自分の目で確かめて、自分が癒す。
それなら少しは……貴方も気が楽でしょう』
『っ、お前な……言うに事欠いて何を』
『大和』
いっそ清々しいまでの笑みで更にとんでもないことを言い出した彼女に、俺はもう頭痛さえ覚えた。
だが、俺がもっと反論しようとしたところで、急に、彼女が、今し方までとまるで違う声音で俺を呼ぶから。
口が凍り付いたみたいに動かなくなった。
『貴方は私のために、そんなのは御免だと言うでしょう。
でもね、私は……私のために、貴方に、いざという時は助けを乞うわ』
泣きそうな、声だった。
彼女の瞳が、何処か、縋るような、儚い輝きだった。
手が伸びて来て、片手を、掴まれる。
『――間違わないで。全ては私のため。そして、“蝙蝠”第七小隊のためよ。
貴方のためじゃない』
だから当然、俺のせいじゃない。
その時、突然、大きな雷鳴が、辺りに轟いた。
『……――分かった。
お前が、“蝙蝠”の隊員としてそこまでの覚悟を決めているのなら、改めて、俺は、お前に潜入捜査の任を言い渡す』
気付けばそう、言っていた。
そして俺は、この時のこの言葉を、後から何度も思い出しては苦悩することになるのだけれど。
結局今も彼女は、そういった類の任務の専任となり。
時に彼女が疲弊し癒しを求めて俺の所に来た時は……
俺に、慰められる日々を、送っている。
□□□
「っ、……」
目が覚めたのは、まだ陽も昇っていない午前四時のことだった。
ベッドの上に半ば飛び起きるように起き上がり、片手で顔を覆う。
相変わらず俺はパンツ一丁で寝ている訳だが、そのパンツさえ気持ち悪く感じるくらい、全身に凄い汗を掻いていた。
――夢を見た。
あれは、そう……俺が、第七小隊の隊長になって、間もない頃の、夢。
記録的な大雨が県内に降り注ぎ、バスも電車も運休が相次いだ日の夜。
正直、余り思い出したくない、苦い記憶だった。
俺は深くため息を吐くと、ベッドから下りて台所へ行き、水を二杯程煽るように飲んだ。
犯罪者を捕まえるために、犯罪者だった過去を利用して生きる。
ある意味合理的な組織だと皮肉を言って、喉を鳴らして大笑いしていたのは、先代の第七小隊隊長だった。
彼がどんな罪を犯して刑務所に入ったのかは知らないが、そう言われて思わず納得してしまう程度には、冷酷で豪胆な所があったのを、覚えている。
もし、あの夜、彼女の提案を、決意を聞いていたのが俺でなく彼だったなら。
迷わず彼は、『よく言った』とでも言って承認したことだろう。
犯罪者よりも時に残忍に。
警察官よりも時に冷酷に。
先代の教えだった。
それが俺達、極秘部隊「蝙蝠」の在り様だと。
でも俺は、そこまではまだ、残忍にも冷酷にも、なれないでいるのかもしれない。
“あの夜”のことを夢に見ている、うちは。
結局そのまま一睡もせずに、俺はいつもより少しだけ早い時間に出勤した。
とはいえまだ誰も出勤して来てはいないだろう時間。
鞄から鍵を取り出して事務所のドアを開けようとした、けれど。
「あ……?」
予想と反して、ドアの鍵は開いていた。
誰かもう出勤してるんだろうかと少々驚きつつドアを開けて、中に入れば。
「おはよう、大和。あんたにしては早いわね」
……夢に出て来た張本人が、そう皮肉交じりに挨拶をしながら俺を迎え入れた。
「おはよう。お前も随分早いな」
俺は平静を装い、やる気なさげにデスクに着きつつそう言う。
「まあ、たまにはね。珈琲でも飲む? 淹れてあげるわよ」
「おう。悪いな」
柚希はそう言うと珈琲メーカーの元まで行き、カップを二つ用意して珈琲を注ぐ。
いつでも飲めるようにセットまでしておいてくれたらしい。
まだ始業には早いのに、珈琲メーカーが抽出が終わっているということは、一体、彼女はどれくらい前から出勤していたのだろう。
彼女には、特に最近割り当てた任務も何もなかった筈なのだが。
……まあ、気にはなるが、問い詰めるようなことでもない、か……。
そう思い直し、俺は首を横に振って、デスクの引き出しからファイルやら何やら取り出して広げ始めた。
「はい」
「ん。サンキュ」
「そういえば、明日だったわよね。新しい人が来るの」
「ああ……」
デスクの隅に珈琲を置くと、柚希が思い出したようにそう言った。
俺も広げていた資料から目を離し、天井を仰ぎつつ、若干気のない返事をする。
――華月の事件から既に三ヶ月。
除名処分となった彼の後任が、明日、県警から送りこまれて来る予定だった。
“蝙蝠”の一員となることを望んだ人物である以上、そいつも、最近刑期を終えたばかりの犯罪者、ということになる。
そいつが、一体どんな奴でどんな罪を犯し服役していたのかは、当人がここに来て経歴書を俺にくれるまでは一切分からない。
「華月の居ない静かな事務所も、もうすっかり慣れちゃったわね……」
「……そうだな」
一口珈琲を啜り、柚希は、華月が使っていたデスクを見遣りながら、少しだけ淋し気に呟いた。
あのデスクも、今日限りで完全に、華月のものではなくなり、新入りのものになる。
三ヶ月。そう、たった三ヶ月しか経っていないのに、華月があそこに座って、いつも笑顔で明るく仕事に励んでいたのが、もう、随分昔のことのような気がする。
今頃、あいつはどうしているだろう。
隊員の誰かが除名処分になった場合、その後一切の当人の情報は、俺達の元には入って来ない。
“蝙蝠”に所属していた痕跡も、事実も、全てが抹消され、今後一切、関わる事を禁じられている。
出所して街で偶然会っても、挨拶をすることさえ、だ。
だから今後も、俺も柚希も、賢吾も夏鈴も、華月がどうなったか、どうしているかを知ることは、一切ない。
……けれど。
多分、きっと、大丈夫だろう、と、俺は勝手に思っている。
紗矢の名を出した時。
紗矢と久方振りの再会を果たした時。
華月の目を見た瞬間、心配は要らないと勝手に確信したから。
「……さてさて。今度現れる奴は、どんな悪人なんだかな」
柚希の淹れてくれた珈琲を飲みながら、俺は、口の端を持ち上げて軽快に言い放つ。
柚希は肩を一つ竦めて、
「あんたの手に負えない奴だったりしてね」
とため息交じりに言ったのだった。