消せない過去、消えない傷
紗矢と別れて既に一時間半が経過していた。
途方に暮れてだらりとシートに座っている間に、本当に寝てしまっていたらしい。
どうして、あの子の夢なんて見たんだろう。
別段あの子の歌が気に入った訳でも、あの子自身の事が気になってる訳でもないのに。
――でも。
でも、何故だろう。さっきよりちょっとだけ、気持ちが落ち着いた、ような気がする。
華月が消えて以降寝不足だったから、単に、少しでも寝れたお陰なのかもしれないが。
俺は苦笑を零し、今度こそ車のエンジンをかけて、その場を後にした。
□□□
柚希が華月の居所を突き止めたのは、更に二日後の事だった。
「何処だ!?」
『М市にある、今は誰も住んでない一軒家よ。さっき姿も確認したわ』
「分かった! すぐに行く!」
報告の電話を受け、俺は賢吾と夏鈴にも連絡を取り、慌ただしく事務所を出た。
柚希の言っていた、М市というのは、華月の生まれ故郷だ。
皆が華月達を探し回っている間、俺が単独で調べ回り得た情報は柚希達にも伝えておいたから、それを手掛かりに場所を絞り込み、見付け出したんだろう。
そして恐らく、その一軒家というのは……。
――ここからМ市まで、車で飛ばしても一時間は掛かる。
騒ぎから既に一週間。
城嶋の生死さえかなり危うい状況となっているこの時、俺の心臓は壊れんばかりに鼓動を刻んでいた。
――あいつに、城嶋を殺させるような真似、させちゃいけない。
俺達はあくまで、犯人を警察の元へと、陰から巧みに誘導するのが仕事だ。それでなくても、もし俺達が再び何かしらの罪を犯したら、絶対に只じゃ済まない。
何より、城嶋を殺したって、華月は……。
どうか間に合ってくれ、と半ば一心に祈りながら、俺は、ハンドルを握る手を強めた。
そうして漸く辿り着き、少し離れた場所に車を停めると、俺は急ぎ足で柚希の元まで駆け寄った。
賢吾も夏鈴ももう到着していて、塀の陰に隠れて、揃って古びた一軒家を見遣る。
「さっき、城嶋の姿もちらっとだけど見えたわ。多分、まだ生きてる」
「そうか……」
「……華月め。馬鹿な真似を……」
「ああ、ほんとにな……」
手の平に拳を打ち付けながら、呻くように賢吾が言う。
華月が何でこんな真似をしたのか、もう俺達には凡そ見当が付いてる。
だから今、俺達が最優先でやらなければいけない事は、どうにか華月を説き伏せて城嶋を救出して、華月を――拘束すること、だった。
「警察には?」
「伝えたわ。多分華月は銃も所持しているだろうから、刺激しないよう、絶対に気付かれずにここに来てって」
焦りは募るが、ここは俺が一番冷静に、的確に状況を把握し、柚希達を指揮しなければならない。
でなければ……誰かが怪我をするか、下手すれば、死ぬ。
こういう場面も、決して初めてではない。
隊長である以上、俺がこの場を仕切り、最善の策で、最速で事態を解決に導く必要がある。
深呼吸を繰り返して、頭の中でいくつもの行動パターンを練り、イメージする。
ホルスターに手を伸ばして、拳銃にそっと触れて……その瞬間、この場に於いて一番の最善策が、頭を駆け抜けた。
「……夏鈴」
「はい」
「俺の銃、預かってて」
「……え?」
それを思い付いた瞬間、俺は、傍らに居た夏鈴に、ホルスターごと銃を押し付けた。
そして俺は、身を隠す柚希や賢吾の間を縫い、堂々と、通りに出た。
「隊長……!?」
「ちょっと大和! あんた一体何を!?」
賢吾と柚希は、俺の取った行動に困惑と驚愕の声を揃って上げたけれど。
「華月を迎えに行って来る。いいか、俺に何があってもお前達は動くなよ」
俺は、振り向かないまま、そう答えた。
尚も言い募る柚希達を無視して、俺は、ゆったりとした歩調で、華月が籠城している家へと近寄った。
塀は蔦が巻き付き、表札も埃に塗れていて、ここが空き家になってかなりの月日が経ったのだということが伺える。
俺は、その汚れ切った表札の埃を、手で少し乱暴に払い、表れた文字を見て、目を細めた。
表札の名は、「瀬川」
華月の、苗字である。
そしてこの土地は、華月の生まれ故郷。
つまりこの家は……正真正銘、華月の生家、ということになる。
彼がここに立て籠っていると聞いた時、そうではないかと思った。
彼が、城嶋を拉致し、暫くの間、俺達の目を掻い潜って身を潜められる場所と言えば、今まで不干渉だった華月の過去にまつわるここしかない。
俺は一つ息を吐き出すと、玄関口まで歩み寄った。
当然ながらインターホンはもう壊れていて、押しても音は鳴らない。
だから俺は、手でノックしながら、努めて、いつも通りの調子で呼び掛けた。
「おーい華月ー。居るんだろー? ちょっと話があるんだ。入っていいかー?」
少し離れた場所で、三人が固唾を飲んで見ているのが、この距離でも気配で分かる。
だが、中からは何の応答もなく、物音さえ聞こえず、俺は苦笑を漏らした。
「入れてくんなきゃ勝手に入るぞー。いいかー? いいなー?」
と、言いつつ、やっぱりお約束ながら玄関にも鍵が掛かっている。
予想通りなので俺は別段慌てることはなく――。
「えい」
三十路の男が口にするにはやや寒い掛け声と共に、玄関を一発足蹴にした。
すっごくすっごく煩い音を立てて、玄関のドアはあっさりと開いた。
倒れたドアの上に靴を脱ぎ、中に入る。
廃れた空き家だから、靴脱いで上がるには汚い所ではあるが、それでもここは仲間の家だ。
土足で上がり込むのは俺の礼に反する。
銃も持たず、薄い靴下でざらざらした床や畳の上をのそのそ歩いて中を進んでいき……
――ぱん!
恐らく居間だろう部屋に差し掛かった瞬間、重くけたたましい乾いた音が、鳴り響いた。
ほぼ同時に、頬に熱を伴った痛みが奔る。
滴が伝って、足元の畳にいくつか滴り落ちる。
何が起こったのかは、然程考える必要もなく、動揺することもなく、理解出来た。
「……来ないで、下さい……」
目の前には、そこそこの広さがある居間の中心で、両手両足を座らされた椅子にきつく固定され、項垂れている男と、そいつの首を後ろから抱え込みつつ、俺に銃を向ける、華月の姿があった。
椅子に拘束されているのは、言わずもがな城嶋である。
彼の商売道具の一つである高級スーツには、いくつもの足跡や泥、血に塗れ、顔は腫れ上がり、額からは流血している。
辛うじて生きている状態、といったところか。
恐らくこの一週間、かなり痛め付けられたのだろう。
普段の華月ならこんな真似しない。
だが、明るい性格の彼を、ここまで豹変させるだけの理由とその原因が、正に、城嶋にあるということの証明でもあった。
呼吸を乱し、殺気さえ滲ませた目で俺に銃口を向ける華月と、真正面から目を合わす。
頬の傷から流れる血を拭うこともせず、俺は、来るなという彼の言葉を無視して、一歩、足を踏み出した。
「聞こえないんすか……! 来るなって言ってんですよ!」
「……そういきり立つなよ、華月。俺は、お前と話をしに来ただけだ」
努めて静かに言ってみるけれど、華月は益々目を吊り上がらせる。
「……あんたがここに来たってことは、もう……調べが付いてんでしょ……
俺の過去も、こいつの……城嶋の事も」
「……ああ」
「止めに来たんでしょ……俺を。城嶋を、助けるために」
「まあ……そうだな」
「させませんよ……俺は、あんたが俺を取り押さえる前に、こいつの脳天ぶち抜いてやります……!」
言って、今度は俺に向けていた銃口を、城嶋のこめかみに密着させるように突き付けた。
だが俺は、それでも動じはしなかった。
「そいつを殺せば、お前の姉さんとお袋さんは、生き返るのか?」
月並みな、けれど、今、彼を一瞬でも踏み止まらせるには効果のある一言を、俺は、言い放った。
――華月には、歳の離れた姉さんが居た。
父親を交通事故で亡くして以来、お袋さんを助けながら高卒で就職し、華月の面倒もよく見る、しっかり者で働き者の姉だった。
華月は、自分を守ってくれた母と姉に、一日も早く恩を返したくて、姉と母を少しでも助けて、守れる男になりたくて、自分も高校を卒業したら働くつもりでいた。
だが、姉も母も、あんたは大学まで行きなさい、私達に気を使っちゃ駄目だ、と言って、華月に家族以外の道をも示してくれていた。
元々華月は頭は悪くなく、きちんと勉強すればかなり良い大学に入ることも夢ではない程の学力の持ち主で、母と姉は華月に大きな期待と希望を抱いていた。
それは、自分達の代わりに、せめて彼には、家族に捕らわれない生き方を、僅かでも抱いた夢を捨てない道を歩んで欲しいという願いでもあった。
華月はその思い遣りと願いを汲み取り、勉強に励むようになった。
勿論、甘えてばかりなのは嫌だったから、その頃からバイトと両立もさせた。
紗矢と付き合い始めたのはその頃だった。
同じバイト先の、同じ大学志望の彼女とはすぐに意気投合して仲良くなり、自然と、交際を始めた。
一緒に勉強して、一緒に仕事を頑張って、必ず、一緒に合格しようと約束し合って。
二人の仲を、母も姉も祝福してくれた。
俺は将来、この子と結婚するかもしれない。
まだ十八そこそこの、大人になったようでなり切れてない青臭い青年が抱く予感は、けれど、目を閉じるだけで簡単に思い描ける程に、確かな未来の光景だった。
苦しい事も多かったけれど、幸せだった。
貧しくても、誰よりも幸せなんだと、思っていた。
けれど。
その幸せが崩れ去ったのは、華月の、大学受験当日の、事だった。
家に帰ると、家の周りにパトカーが数台停まっていた。
何事かと家の中に駆け込むと、そこには、泣き崩れる母と、放心する姉が。
そして、物々しい様子で、幾人もの警察官が段ボールを抱えて家の内外を行き来する姿があって。
華月は一瞬で混乱した。何が起こっているのか、全く理解出来ない。
『君は、ここの家の子? 華月君かな?』
唖然としているうちに、一人の警察官が徐に問い掛けて来た。
混乱する頭で頷くと、彼は、事の詳細を、話してくれた。
――家宅捜索。
姉に、覚せい剤取締法違反の容疑が掛かっているという。
何かの間違いだと、華月は掴み掛らんばかりの勢いで詰め寄ったが、警察官は令状を突き付け、姉に覚醒剤を売ったという姉の友人の証言と取引をした喫茶店の防犯カメラの映像等を証拠に、華月を押し退けた。
結果、華月の姉とその友人は逮捕、起訴。
だが姉の友人もまた、違う売り手を通して薬を手に入れていたらしく、大元の売人を突き止めるには至らなかった。
瀬川家の不祥事は、瞬く間に世間に知れ渡り、華月と母親は誹謗中傷を一身に浴びることとなり、当然、華月は大学進学の道は断たれ、バイトもクビになった。
連日SNSに投稿される中傷、何処からとなく現れて、家の周りに面白半分に集まり、スマホのカメラを向ける心無い一般市民達、マスコミ。
そうして、心身共に徐々に追い詰められて……
――華月の母親が、この家の、正にこの居間で。
首を吊って自殺したのは、それから僅か、二ヶ月後の事、だった。
その訃報を聞き、更に一ヶ月後、姉さえも拘置所内で自殺。
華月はほんの三ヶ月の間に、全てを、奪われたのだった。
華月は恨んだ。
この世の全てを恨み、憎んだ。
最後まで側で支えてくれていた紗矢との連絡も一切絶ち、華月は家を飛び出し、姉の友人に薬物を売った売り手を探した。
そうしてまず、その売り手を、半殺しにした。
その売り手に薬物を渡した人物を聞き出して、そいつもまた、半殺しにした。
更にその売り手に薬物を渡した人物も、その前の人物も。
けれどどんなに売り手を突き止めても、肝心の、売人にはどうしても行き着けず。
最終的に彼は、連続暴行と殺人未遂で、逮捕された。