潜入捜査
腹の虫がぐう、と鳴った瞬間に俺の集中力は切れた。
読み耽っていた資料から目を上げて、椅子の背凭れにだらしなく凭れつつ大きく背伸びをし、時計を見遣ると、時刻は十二時を少し回っている。
四時間弱集中してたってことか。そりゃ腹も減るわな。
ため息交じりに席を立ち、室内を見回すと華月も柚希も既に昼食を食べている。
俺も、鞄から財布を取り出して、「昼飯買ってくらぁ」と言ってから、外に出た。
階段を下り、のんびり歩き出す。
いつもは、ここから歩いて数分も経たない所にあるコンビニで適当に弁当を買うのだが、今日は何となく、もうちょっとちゃんとしたものが食べたい気分になって、その先のショッピングモールへと向かった。
目指すはフードコート。
その中の、焼きそば屋だ。
「ふぅ……食った食った」
好物のオムそばを平らげ、ペーパーで口を拭いつつ独り言ちる。
ポケットに忍ばせて持って来ていたスマホで時間を確認すると、もうすぐ昼の一時。
腹も膨れたし、そろそろ戻るか……。
ちょうど昼飯時で、フードコート内は人でごった返しているし、長居してもしょうがない。
無料で飲める水を一気に飲み干して、俺はトレイを持って立ち上がった。
「……あれ?」
思わず立ち止まってしまったのは、トレイと皿を返却口に置いて、フードコートを出ようとした時。
何とはなしに、意味もなく人で埋め尽くされた席を眺めつつ歩いていたら。
そこに、見覚えのある人物を、見付けた。
長い黒髪に眼鏡、ダウンジャケットに化粧気のない、地味系の女性。
一昨日海で見掛けた、あの女性だ。
食べ終えたミスドのトレイをそのままに、珈琲を飲みながら本を読んでいる。
彼女の実年齢はよく分からないが、平日の昼飯時にこんな所に居るってことは、彼女は今日も休日なんだろうか。
それとも、実はこのショッピングモールの従業員とか、はたまた、俺みたいに近所で働いてる人で、休憩中なのか……。
別に、彼女がここに居る事自体はどうという事でもない。
彼女がここで昼飯を食ってて、それがどうという話でもない。
そもそも知り合いでもないし。
……つーか俺、何で立ち止まって凝視してんだろ。
自分の行動にひたすらはてなが浮かんで、頭をがしがしと掻いた。
あの子がここで何してようが、何処の誰だろうが俺には関係ない。
そう思い直して、俺は止めていた足を再び動かした。
賢吾と夏鈴が戻って来たのは、夕方頃だった。
服が若干汚れているのを見るに、警察の元へと陽動するまでの間、ちょっとドンパチやったらしい。
「一応訊いとくが、怪我はないか?」
「ありませんよ。俺にも、夏鈴にも、一般市民にも」
「そうか。ならいい」
俺らの仕事は基本何でもあり、だが、その中で絶対に破ってはいけない規則というのもちゃんと存在する。
その一つが……一般市民に危害を加えない事。
賢吾は不敵に笑むと、一礼して夏鈴と共に自分のデスクに戻った。
不意に柚希と目が合うと、彼女は少々不機嫌な顔をしている。
俺は肩を竦めると、手元の資料に視線を戻した。
――彼女には分かっているのだ。
さっきの俺の質問は。
賢吾や夏鈴を気遣うものではなくて。
彼らの振るった拳で、人が傷付かなかったか……お前達は誰も傷付けていないだろうな? という意味であったことを。
信用してない訳じゃない。
ただ、俺達が最善を尽くしても、予期せぬ出来事というのはいつ如何なる時にも起こり得る。
そして上の奴らは、その過程には一切目もくれない。
“無関係な人間を傷付けてしまった”という結果一つ残れば、即刻、俺達は刑務所に連れ戻されてしまう。
そうして、「蝙蝠」の存在を隠すため、元犯罪者を警察組織の内側に置き、過度な権限を与えていることを隠蔽するために、普通よりずっと重い刑を科せられる。
だから俺は、時に冷酷になる必要があるのだ。
誰も傷付かなかったか、ではなく。
誰も傷付けなかったか、と。
「華月」
小さく息を零して、俺は、うちの部隊で最年少の男を呼んだ。
きょとんとした顔で歩み寄ってきた彼に、手元の資料の一つを、無造作に差し出す。
「こいつの犯罪の証拠を洗いざらい見付け出して、捕まえろ」
命令は単純明快。
「俺一人っすか?」
「潜入捜査だ。一人の方が良い。尻尾掴んだら増援するから」
「――了解っす」
差し出した資料を軽く眺めて、華月は、それ以上余計な事は言わず、しっかりと、頷いた。
「でも……長くなりそうっすね。また暫くここに来られないのか……」
「まあそうしょげるなよ。たまに差し入れとかしてやっから」
子供みたいに口を尖らせる華月に俺が言うと、頑張るっす、と言って彼はデスクに戻っていく。
――次の彼の標的の名は、城嶋丈
蔵山を捕まえた繁華街にあるホストクラブの、ナンバーワンホストである。
□□□
華月に件のホストクラブへの潜入捜査を命じて二ヶ月。
未だ何の進展もない。
ため息を零して華月が送って来た定時連絡のメールを眺めて、俺は頭を掻いた。
城嶋丈。来店した女性客を漏れなく虜にする、文句なしのナンバーワンホスト。
だが、その裏では、薬物売買の容疑が掛けられている。
手口は至って単純。
最近疲労やストレスに困っている、というような愚痴を零した女性客に、自分も心療内科で処方してもらった薬だ、と言って、麻薬を提供しているのだ。
煌びやかなイメージばかりが先行しているが、ホストも一応客商売、店内や接客は厳しく指導される。
ましてや城嶋はナンバーワンホスト、薬を薦める前に親身になって相手の話を聞いて油断させる、という段取りも常に抜かりない。
すっかり信用し切った客達は喜々としてその薬を受け取り、効き目を実感し、また薬を分けて欲しいとせがむ。
そうして気が付いたら客はぼろぼろ。
被害者が全員彼の客と分かれば、逮捕も難しくないと思われるところだが、そこは、やはり手慣れた犯罪者。
状況証拠だけで、確たる証拠が何も出て来ない。
そこで、「蝙蝠」に指令が下ったのだ。
城嶋が売人である事の決定的証拠を掴み、逮捕へと導け、と。
で、俺は部隊の中で一番顔立ちが整って、良い感じにトーク術も優れていて、そのくせ忍耐力も順応力も高い華月を、捜査に抜擢した。
「難航してるみたいね、華月の奴」
小さくため息を零したところに、柚希が珈琲を俺のデスクに置きながら言った。
「んー……一ヶ月ぐらいで終わると思ったんだが、タイミングが悪かったか?」
「薬売れないんだって? どうして急に?」
「何でも、空振り続きらしいぜ。仕事のストレスを吐き出す客は多いが、薬を勧めようとしたら、その前に客が『でも、龍さんの顔見たら元気出ちゃった!』とかって、明るくなるんだと」
龍、というのは、城嶋の源氏名だった。
「……そんなんであっさり薬売るの諦めるの? その男」
「あんまごり押ししたら怪しまれちまうからな。
最近は薬物を売る手口もあれこれネットやらニュースやらで取り沙汰されてっから、強引に売り捌いた結果、バレるのを恐れてんだろ」
「ふーん……変なとこで慎重派なのね。
そういえば、他のホストは、売買に関与してないの?」
「今んとこ、華月の調査でも、仲間が居るって線は浮かんでねえな。
奴自身何処で薬を手に入れてるかも、出来れば探れって言っといたんだが……」
「華月の奴、やきもきしてんでしょうね」
「華月だけじゃなくて、城嶋本人も相当やきもきしてんだろうよ。
焦りが高じて、尻尾出してくれりゃあこっちも楽で助かるんだが」
言いながら俺は机に広げた城嶋の資料を閉じた。
□□□
毎週土曜のドライブは、この二ヶ月も欠かさず行っていた。
いつもと同じ場所に行き、いつもと同じ位置に座って、ぼんやり海を眺める。
だが今日は、先客が居た。
例の、あの地味女である。
この二ヶ月、ここでもショッピングモールでも見掛けなかったので、すっかり記憶の隅に追い遣られていたのだが。
まあこの場に誰が居ても俺の気にすることではなし、彼女とは少し離れた場所まで行くと、特に彼女のことを気に留めることなく座り込んだ。
冬ということもあって、俺達以外は誰もいない。
普段から近くに誰が居ても気にしない質なので、俺は海を眺めながら、自然と自分の世界に入り込んだ。
考えるのは、今日も今日とて潜入捜査に励んでいる華月のこと。
華月は、二十三の時にうちに配属になって、今年で二年目になる。
賢吾のような武道のセンスは余りないが、持ち前の明るい性格とルックス、忍耐力とコミュニケーション能力を評価し、潜入捜査の際には割と重宝している。
甘いマスクと巧みな話術で周りを信用させ、色んな場所や人から情報を聞き出す。
その功績は高い。
こんな言い方は何だが、「蝙蝠」なんぞに所属していなきゃ、違うとこでも上手くやれそうな男だ。
もう暫く待ってみて、どうにも尻尾を掴めない時は、増援を送らねばならないかもしれない。
その場合、出動するのは必然的に俺ってことになる。
正直気は進まないが仕方ない。賢吾もそこそこいい男だが、奴は芝居でもホストなんて到底無理だし。
……休みの日に、ドライブに来てまで仕事の事を考える辺り、社畜のサラリーマンみたいだな。
自分に苦笑して、大きく息を吐きつつ、視線を海から空へと移す。
――いいさ、それでも。
俺にはどうせ、「蝙蝠」以外で生きられる場所もないし。
「……、……、――」
ふと、風に乗って声が聞こえて来た。
誰かがまた連れ立ってここへ来たのかとも思ったけれど……違う。
これは……歌……?
呟くように、囁くように紡がれる声は、確かにメロディーを刻んでいた。
辺りを何とはなしにもう一度見回してみるが、やはり俺とあの女性以外は誰も居ない。
ということはこれは、彼女が、口ずさんでいるんだろうか。
波や風、時折道路を通る車の音のせいで、普通に耳を澄ますだけでは聞こえない程の声量だったが、これまた仕事柄、俺の耳は恐ろしく良い。
俺の知る曲ではなさそうだった。
特別上手いという訳でもないが、煩いとも思わない。
聞き心地が良いか否かと問われるとそれも微妙なのだが、少なくとも耳障りではないその歌を、俺は、何となく目を閉じて聴き入った。
波の音に掻き消され溶けていく程に小さな声は、けれど、何故か俺の耳にすんなりと入って来る。
俺の耳が異様に良いことを差し引いても、不思議な程にすんなりと。むしろ、波の音や風の音の方が遠くに感じる程に。
聞き覚えなどない歌、少なくとも下手ではない、歌声。
自然と俺の頭の中からは仕事の事など消えていて……。
声が途絶えても、歌が終わった、と気付くのに僅かな間を要した。
――はっとして目を開けた時。そこに彼女の姿はもうなくて。
振り向いてみると、彼女の車もなくなっていた。
まるで、白昼夢でも見ていたような気分になり、俺は、妙にそわそわした気持ちで立ち上がると、つい今し方まで彼女が座っていた場所まで駆け寄った。
人が座っていた跡と思われる窪みと、足跡。
当たり前に広がっている、あの子が今までここに居た痕跡。
それを見て俺の頭に急に冷静さが戻って来る。
……何を、狐に化かされたような気分になっているんだ。
自分の行動が余りに馬鹿らしくて、つい失笑が漏れた。
馬鹿馬鹿しい。名前も何も知らない、ただ数回同じ場所に出くわしただけの、それも、全く俺の好みでも何でもない女に……。
俺は頭をがしがし掻いて盛大にため息を吐くと、その場から踵を返した