幸福色の地を歩く
「、っ、……!」
驚愕故の反動か、桜花は身を強張らせて逃れようとした、けれど。
――逃がせる訳が、ない。
俺に罪を擦り付けた男の妹で、何なら彼女自身も“人殺し”で、地味で化粧気もなくてお洒落に気を遣う気皆無で、容姿もお世辞にも美人とも可愛いとも言えない。
それがどうした。それが一体何だって言うんだ。
そんな、本人に責任がない境遇も、過去の過ちも、本人の趣味嗜好も、どうでもいい。
やばいな、と、理性が俺に警告を放つ。
――恋愛感情ってのは、つくづく恐ろしい。
一番最初に浜辺で見掛けた時は、好きになる要素なんて、ない、と半ば確信さえしていたのに。
本気で理性がぶっ飛ぶ前に、唇を離して、額と額をくっつける。
「もう、そんなに長くは待たせないよ。そんなことをする必要も、なくなったから」
「え……?」
「俺はもう、長いこと君の側を離れることは絶対ない。
今回の出張は、そのための最後の仕事だったんだ」
「……どういうこと、ですか?」
「今の事務所から、独立することにしたんだ。
個人の探偵事務所を開いて、細々とやって行こうと思ってる。
警察と関わることも少なくなるだろうし、個人経営だから、出張も少なくなると思う。
その前に、片付けないといけない仕事があって、そのために今回長期で出張してたんだ」
俺の突然の報告に、桜花が口をぽかんと開けて俺を見つめる。
言うまでもなく、本当のところは、“蝙蝠”という極秘部隊を脱退し、ただの前科持ちの一般人として、社会復帰するということ、なのだけれど。
探偵事務所を開く、というのは本当だ。
退院して地元に戻ったら、手頃な物件を探して事務所を開く。
“蝙蝠”で培ったスキルを、クリーンに活かそうと思っている。
この数日、ずっと考えていた事だった。
ちなみに、既にネットで物件も探し始めている。
「だから。ね、桜花」
「……、はい」
「俺の仕事、手伝ってくれないか?」
合わせた額を離して、先程よりずっとぽかんとした顔で、瞳に困惑と驚愕を映して、俺を凝視した。
桜花の元へ帰ったら、真っ先に伝えるつもりだった想いを、伝える時が、来た。
「勿論、一緒に探偵やれって言う訳じゃなくて、書類の整理や管理とか、依頼人が来た時のもてなしとか、そういうの。
俺、そこんとこ不得手だし、桜花が引き受けてくれると、とても助かる。そんで」
一旦、そこで言葉を切る。
改めて覚悟を決めて、すぅ、と静かに一つ息を吐き出して。
「そんで、仕事が終わったら、一緒に事務所を出て、一緒に同じ家に、帰って欲しい」
桜花が目を瞠る。
今度ばかりは、それはどういう意味だ、という疑問は浮かばないだろう。
「もう、君を一人置いて何処へも行かない。
たとえそういう仕事が出来ても、長いこと君を一人にさせない。
小まめに連絡をして、君が嫌になるくらい、飽きるくらい、側に、居る。
――これは約束じゃない。
俺の……一生を懸けた誓いだよ」
受けて、くれる?
一生を懸けた誓い、と言われて、桜花の顔に一気に熱が集まる。
「い、一生、って……っ」
「うん」
「そ、それは、一体、どういう……!?」
「どういう、って、だから……そういう意味だってば」
四ヶ月前と全く同じことを訊くから、俺も全く同じ言葉で返した。
まさか、ここへ来て「どういう意味だ」と訊かれるとは思ってなかった。
「分かっててわざと惚けてんのか? それとも、マジで分かんねえのか?」
わざと拗ねたように言いながら桜花の顔を覗き込めば、彼女は顔を逸らして俯いた。
「はたまた……ちゃんと、はっきり、言葉で言って欲しいのか?」
「……っ」
「なあ、桜花」
静かに、けれど敢えて鋭利な声音で名を呼ぶ。
そのまま俺は、彼女の体をぐっと押して、壁際に追い込んだ。
逃げられないよう、両手首を掴み、目を逸らさせないよう額をくっつける。
面白いくらいに身を強張らせて、瞳に怯えの色さえ浮かばせる桜花の姿に、背筋がぞくりと粟立った。
「分からねえ程、無垢なつもりじゃねえだろう?」
そんな言い方は卑怯だと分かっていながら、俺は敢えてそんな言葉で追い詰める。
今にも泣き出しそうに瞳を揺らした桜花は、僅かな沈黙の後、震える唇を、漸く、開いた。
「っ……分かりたく、ない、です……」
「……、何で」
「だって、分かってしまったら、認めなくちゃ、いけなくなるじゃないですか……
ずっと大事に仕舞っておくつもりだったのに……夢のままで良い、って、思ってたのに……」
「……そんなに、俺を好きだって認めるのが、嫌だってのか?
俺と一緒に生きる未来を、夢のままで終わらせるのが、お前の望みだってのか?」
意図せず責めるような口調で問い質し、手首を掴む手の力を強めてしまう。
そんなの、いくら何でも、俺に対して酷過ぎる。
だけど。
桜花は、尚も、言う。
「だ、って……だって……私、は……」
だって、と。
その言葉を封印したくて、俺は再度彼女の唇を強引に奪う。
「っ、……駄目、です……」
顔を背けて尚も抗う桜花に、俺は苛立ちと切なさを募らせるけれど。
その拒絶が、あまりにも苦しそう、だったから。
「――駄目だって言っても駄目。俺は君を……愛してるから」
「っ、……」
「なあ、桜花。
俺は君を愛していて、そして君も、俺を愛してる。
それ以上に、それ以外に、一体何が、どんな理由や許しが必要なんだ?」
桜花が俺の気持ちを受け入れることを恐れる理由は、何となく察しが付いている。
だが、それを言うなら俺だって、同じ。
でも――それでも。
たとえ、誰にも、神様にさえも、許されなくても。
俺は、桜花と一緒に、もう一度、“人”として、生きたい。
だから――聞かせて欲しい。
俺が今、欲しくて欲しくて堪らない、一言を。
「……っ、私……かなり、めんどくさい、ですよ……?」
「いいよ」
「こう見えて、結構、執念深いし、嫉妬深い、し……」
「むしろ光栄だな」
「ノロマだし、要領悪いし、人見知りだし……」
「その辺をフォローし合ってこそ、パートナーだろ?」
「……胸、とか、ぺったんこ、だし」
「そこは割とどうでもいい」
「……あと、私……私も、本当は……――人、を」
そこから先を紡ぐ前に、俺は桜花の顎を持ち上げた。
それ以上の言い訳も、前置きも、口実も、聞く気はない、という意志表示。
すると桜花は、瞳に涙をたくさん浮かべて。
「――私、も……黒咲さんが、好き、です……」
やっと、そう、言ってくれた。
欲しくて堪らなかった、聞きたくて堪らなかった、その、言葉を。
俺は、桜花をもう一度、抱き寄せて。
今度はそっと、震える唇に、キスを落とした。
□□□
一週間後、俺は退院と相成った。
即死でも不思議でなかった男が、昏睡状態から目覚めた後、通常より少々早い回復を見せ付けて、医者も看護師も感心交じりに驚いていた。
まあ、警察官と同レベルかそれ以上の鍛錬を積んで来た身なので、自分としてはあまり驚いていない。
桜花が持って来てくれた服に身を包み、スマホと家の鍵と財布を鞄に詰めて帰り支度を整える。
拳銃は本部長が密かに持って行った。スマホも実は新しい機種で、“蝙蝠”を脱退した三日後くらいに、送られて来た。
『元々持っていた方のスマホと交換して、また本部に送り返すように』
簡潔なメモは、本部長の筆跡だった。
元のスマホには、柚希達の連絡先や本部長の連絡先、その他“蝙蝠”の痕跡がデータとして残っている。
“蝙蝠”を抜けた以上、部外者となった俺がそれを所持しているなど言語道断、ということだ。
理解した俺はメモの指示通り、元のスマホを、新しいスマホが入っていた箱に入れて、病院のコンビニで郵送の手配をし――着払いで良い、って書いてあったので、そうした――本部に送り返した。
これで正真正銘、俺と“蝙蝠”、警察組織の繋がりは一切なくなった。
新しいスマホに登録されているのは、桜花の連絡先だけ。
LINEの友達も、桜花だけ。
孤独なアラサーみたいになってしまったが、心は踊り出しそうなくらい晴れ晴れとしていた。
午後一番に、桜花が病院に迎えに来てくれた。
あの後聞いた話だが、桜花は、四ヶ月前の、俺が去ったあの日、会社を解雇されたそうだ。
SNSで散々晒し者にされた時、桜花の勤務先まで晒されていたのだ。
と言っても、鎮火される直前だったために、そこまで広範囲に知れ渡ることはなかったらしいが、運悪く、会社の幹部の一人がそれを目にしてしまった。
当人が犯罪を犯した訳ではないのなら何も問題視しなかったが、SNSで会社名まで晒されてしまっては、会社の経営と将来に関わる。
そう言われて、本来ならば非正規のスタッフには支払われる筈のない退職金を、秘密裏に桜花に支払うことを条件に、事実上の解雇を言い渡されたらしい。
それを聞いて俺はかなり腹が立ったが、「どの道、環境の悪い職場で、退職を視野に色々考えていた頃だったから、むしろちょうど良かった」と桜花が笑うので、それについては俺もこれ以上怒らないことにした。
もっと言えば、「心置きなく即刻黒咲さんの所に行けますから、却って良い事尽くめの解雇ですよ」などと言われてしまっては、腹立ちも治めるしかなかった。
……これから忙しくなる。
“蝙蝠”ではなく、本物の“探偵”として、依頼人の役に立てるように奔走しないといけない。
犯罪者を捕まえるためではなく、困っている人を助けるため、に。
言葉にすると、何だかキャラが違い過ぎて苦笑が漏れる。
でも――それも、悪くない。
世話になった医師や看護師に簡単な挨拶をして、俺は桜花と一緒に病院を後にした。
冷たい風が頬を掠めて、そういえばもう冬なんだな、と妙にしんみりと思う。
三ヶ月も眠ったままだったから、何だか浦島太郎にでもなった気分だった。
俺達は病院から真っ直ぐ駅に向かい、地元に向かう新幹線の切符を購入した。
道すがら、繋いだ手は思っていたより小さくて、ちょっとだけ冷たかった。
「私の手、冷たくないですか……?」
「冷たいよ。もしかして、冷え性?」
「……はい。すみません……」
「何で謝るんだよ。ほんと、俺に謝ってばっかだな、桜花は」
くすくす笑って、指を絡める。
桜花はあからさまに戸惑い半ば慌てたけれど、無論、解いてやるつもりはなかった。
駅では十分程待って、新幹線がホームに到着した。
指定席券に表示された席に座る。自由席の方が安くつくが、桜花と離れずゆっくりしたかったから、指定席を取った。
「――あの、黒咲さん」
不意に、桜花が少し畏まった様子で俺の名を呼んだのは、新幹線が発車して、すぐのこと。
何? と問うと。
「今更、こんなこと訊くのも何ですけど……どうしても、気になるので……」
「……何の事だ?」
「……私に、黒咲さんが入院なさっていることを教えて下さった、あの、狩谷さんという女性の方は……黒咲さんの、同僚の方、でいいんですよね……?」
何処か躊躇うように尋ねられた問いに、俺は、思わず目をぱちくりさせた。
瞳には不安げな色さえ揺れていて、一瞬、桜花が何でそんな目をして、そんなことを気にしてるのか、内心首を傾げた、けれど。
そういえば俺、桜花の前で思いっきり柚希のことを、下の名前で呼び捨てしたっけ。
あの時の、桜花の一瞬傷付いた顔を思い出し、ああ、と納得する。
つまり。
「何だよお前、もしかして俺とあいつの関係が気になって、内心やきもきしてるのか?」
「そ、そんなんじゃ、ない、ですけど……っ」
「大丈夫。あいつはただの同僚だよ。まあ、事務所辞めちまったから、元同僚だな」
――まあ、確かに枕を共にしたことも、何度もあった、けど。
口が裂けても言えない事実を、そっと心の中で呟いた。呟いた途端、胸が痛くなった。
「安心した?」
「っ……、はい……」
――ごめん、桜花。
俺は君の秘密を意図せず知ることになったけれど、俺は、俺の秘密どころか、本当の事さえ、何一つ、明かせない。
犯罪者を捕まえるための、元受刑者だけで構成された極秘部隊に所属していたことも、そこで隊長やってたことも。
必要なら、銃を人に向けて撃つことも躊躇わなかった。多くの人を傷付けた。
柚希を何の感情も気持ちもないまま幾度となく抱き、捜査上で、彼女以外の女を抱いたこともあった。
そして……ゴミ溜めの“蝙蝠”部隊を恙なく束ねるために、従わせるために。
隊員を粛正し、その命を奪った事も、ある。
他にも、色々……俺は、人に危害を加えることのない一般人のふりして、汚い事ばかりやって来た。
桜花の指を絡め取り離さないこの手は、真っ赤な血で染まっている。
これから先、どれだけ多くの人々の役に立とうとも、どれ程の幸せを桜花にあげることが出来ても、“蝙蝠”として俺がやって来たことは、“人”に戻った俺が背負わなくてはならない、決して許されない罪。
誰も裁く者のない代わりに、俺は一生、桜花に全ての真実は明かせない。
ずっと隠し通して、騙し通さなくてはいけない。
初めて本気で好きになった相手を、心の底から愛した人を、欺き通して生きる、それが、この幸せの対価。
――覚悟なら、とっくに出来ている。
本部長に、“蝙蝠”の即時脱退を、願い出た、あの瞬間から。
俺は、“蝙蝠”ではなく、“人間”として、生きていく。
「、……桜花?」
ふと、桜花の目が、とろん、と今にも閉じてしまいそうになっていることに、気付く。
「眠いのか?」
「……はい。ごめんなさい、私、子供の頃から乗り物に乗ると、途端に眠くなる質で……」
「そうなんだ。いいよ、寝てて。着いたら、起こしてやるから」
「……でも……」
「おいで」
俺を気遣って、寝るのを遠慮する桜花の体を引き寄せて、頭を俺の肩に凭れさせた。
髪を梳くように撫でると、重そうな瞼が徐々に徐々に下がっていき、桜花の体重が俺の体に圧し掛かる。
三十をいくらか過ぎた後で、こんな、純粋な気持ちで女に触れる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
――幸せなんて、どうでも良かった。
そんなもの、欲しいと思ったことさえ、なかった。
だけど、今は。
俺を包み込んでくれるこの幸せを。
俺が包み込んだこの幸せを。
絶対に、手放したくないと、強く、思う。
「――桜花、ありがとう。愛してる」
――“蝙蝠”は羽を捨て、地面に降り立つ。
何処へでも行ける羽はもう要らない。
いつでも獣になれる毛並みはもう要らない。
何物にもなれて、何者にもなれない“蝙蝠”は、もう、要らない。
俺は黒咲大和。
憎しみも悲しみも羽と共に捨てた俺が、愛をくれて、愛を与えたいと思えた、ちっぽけな女の子と共に、“人”として生きる日々が、始まった。
完




