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何者にもなれない蝙蝠達  作者: 和菜
女コウモリ
14/29

冷徹なる男

 

 それから五日経った辺りから、俺は毎日早起きして、誰よりも早く出勤するようになった。

 いつもと同じ調子なら、その辺りから“報告”が上がって来る頃だったからだ。

 その計算と寸分違わず、柚希からの報告書の一通目が事務所の郵便受けに入っていたのは、柚希が潜入捜査に赴いてから、六日目の朝。

 切手の貼っていない、封書が一つ。

 背広の内ポケットに隠すようにしてから事務所に上がり、誰も居ない室内の自分のデスクで、それを開く。

 中には、折り畳まれたA4サイズの紙が二枚、同封されていた。

 慎重にそれを開くと、そこには、この五日間で柚希が相手をした男達の名前と、簡単なプロフィールが記されていた。

 県で最大規模の敷地を誇る大病院の医師、大学教授、大企業の幹部、更には……県内の所轄の警察官の名前まで、ある。

 “蝙蝠”の隊員が潜入捜査に乗り込んでいるとも知らずに、迂闊なもんである。

 あるいは、“蝙蝠”の隊員が潜入しているなんて思わず、慢心したのか。

 何にしてもお粗末なことである。

 だがまだ五日。こいつらはまだほんの一握りだろう。

 たとえ枕を共にしていない相手も全員突き止め、それを経営している奴らや、内部で別の役割として働く奴らの事も、全て突き止めなくてはいけない。

 それらを全て網羅した時、一体何人の“聖職者”の化けの皮が剥がれることになるのか。

 俺は、盛大なため息を一つ零すと、報告書を畳み直して封筒に戻し、デスクの引き出しから違う封筒を取り出して、そこに入れた。

 あと一度か二度報告書を受け取ったら、途中報告で上に送る。

 それまでは賢吾達にも見られる訳にいかないので、一番上の、常に鍵を掛けている引き出しに仕舞った。

 この潜入捜査がどれくらいかかるかは、俺にも予想出来ない。

 けれど、多分、あと一週間二週間程度で終わる程、易くはないだろう。

 ――任務は既に始まり、遂行に向けて動いている。

 ならば俺はもう、隊長として報告を待ち、また上に報告を上げるだけだ。

 余計な事は考えまい。

 それが、“女”を食い物にしていながら、のうのうとしてる奴らを、全員捕まえるためなら。

 あと何度、柚希を悪戯に抱くことになるのだとしても。


 ――けれど、予期せぬ事態というのは、本当に全く予想外の時に、予想外の所で、起きるものである。




「……夏鈴?」


 その日の夕方、別の任務で外に出ていた夏鈴が、ずぶ濡れで事務所に戻って来た。

 先頃梅雨入りが発表された県内、昨日から雨が降り続いていて、湿気が酷くて蒸し暑く、事務所内もついにエアコンを入れたばかりだった。

 指令書やら他の報告書やら資料やらの整理に集中していた俺は、夏鈴の帰還に気付かなくて、一番最初にその姿に気付いたのは、賢吾だった。

 振り向くと、夏鈴はドアを片手で開け放ったまま、俯いて、微動だにしない。

 蒸し暑い屋外との温度差がある中、ずぶ濡れのままでいては風邪を引いてしまうだろうに、体を拭こうとする気配さえなかった。

 その彼女の様子に、賢吾が不審に思って側に寄ろうとした、けれど。

 彼女は突然、弾かれたように顔を上げて、俺のデスクの方に大股で歩み寄って来た。


「隊長」


 俯いたまま俺を見下ろす夏鈴の目は、何だか酷く、狼狽えていた。

 同時に、混乱の色さえ窺えて、俺は眉を顰めた。


「どうした」

「……隊長……一つ、聞いても、良いですか」


 躊躇いながら紡がれた声は、少し、震えている。


「何だ」


 問い返せば、夏鈴は一瞬、躊躇うように、唇を震わす。

 いや、躊躇うというよりむしろ……今から口にしようとしている言葉を、怖がっているようにさえ、見える。

 まずいかもしれない、と、その時、訳もなく直感が告げた。


「柚希さんは……今、何の捜査を、しているんですか」


 ぴく、と、意図せず俺の片眉が一瞬跳ねる。

 夏鈴の只ならぬ雰囲気に呑まれてか、賢吾も崎原も、何も言わず俺達の様子を見つめている。

 俺も柚希も、今回の柚希の任務について、他のメンバーには何も伝えていない。

 デリケートな問題が絡む捜査だから、詳しくは言えない、けれど、暫く柚希は潜入捜査で不在になる、と。

 伝えたのはその程度。

 そういうことは“蝙蝠”では決して珍しいことではないから、誰も、何も不審に思うことはなかった。

 だが、一度はそれで納得した筈の捜査内容を、こうして、こんな只ならぬ雰囲気を纏い問い詰める、ということは……


「……何か、町で見掛けたのか」

「質問してるのは私です。答えて下さい。柚希さんは今、何処で何をしてるんですか?

 一体、何の捜査をしてるんですか?」


 声と瞳に敵意が孕む。

 ちらりと時計を確認すると、いつの間にか――“そういう時間”になっていた。

 ――ヘマをしたな、とは言わない、けれど。

 あいつにしては、珍しい。


「……それを知ってどうする。これはあいつに与えた任務だ。お前には関係ない」

「……、っ」


 突っ撥ねるように答えると、夏鈴は悔し気に、苦し気に唇を噛んだ。

 その時、少々恐る恐るといった感じに、賢吾が夏鈴の側に歩み寄り、慎重に声を掛けた。


「夏鈴、一体どうしたんだ。何かあったのか?」

「………」

「……とにかく、早く服や髪を乾かした方がいい。風邪を引くぞ」


 何も答えない夏鈴の肩に、そっと賢吾が両手を置いて――


「――見たんです、私」


 その瞬間、低く硬い声で、夏鈴が言葉を紡いだ。


「見たって、何を?」

「柚希さんが……変な男と腕を組んで、ホテルへ入って行ったところを」

「え……?」


 ――……やっぱりか。

 言われた言葉を咄嗟に理解出来ないのか、賢吾は目を瞠り、俺に視線を寄越す。

 崎原は相変わらず何も言わない。が、今の夏鈴の言葉を聞いて、眉を顰めつつ椅子から立ち上がっていた。


「……成程な」

「大和隊長……?」

「それで気が動転して、傘も差さずにずぶ濡れで帰って来ちまったって訳か……。

 けどな、夏鈴。「何でもあり」の違法捜査を容認されている“蝙蝠”に所属する身であって、そんな場面を目撃して、それであいつが何をしているのか予想出来ない程、無垢なつもりでもないだろう?」

「っ……!!」

「、隊長……まさか、柚希さん……」


 息を呑み、目を瞠る夏鈴と賢吾、崎原に対して、俺は、一度目を伏せて。

 ため息交じりに、けれどきっぱりと、答える。


「潜入捜査だよ。売春斡旋容疑の掛かってる企業に。

 売春スタッフとして、な」


 ――今度こそ、場が、凍り付く。

 あの崎原でさえ口をあんぐりと開けて、信じられないような目で俺を見据えている。

 当然と言えば当然だろう。

 俺はほんの数日前、強制性交等罪で服役していた崎原を、自尊心が粉々になるまで蔑んでやったのだから。

 そんな俺が、隊員の一人に体を売らせて、情報を引き出す捜査をやらせているのだから。

 だが、崎原が何かを言うより、夏鈴の怒りが爆発するのが早かった。


「正気ですか!? いくら捜査のためだからってそんなこと!!」

「あいつが自分で望んだことだ」

「嘘! いえもし本当だとしても、そんなことを容認するなんて……!!」

「嘘じゃない。あいつは、全部承知の上で、“女”の自分を武器にすることを、“女”としての自分を捨て駒にすることを選んだんだ。

 “蝙蝠”の隊員として、犯人を追い詰めるために。

 “蝙蝠”の隊員として生きる、自分自身のために」

「ふざけないで下さい! それの何処が……何処が自分のためなんですか!? 第一どうして……、どうして、そんな非道な仕事、柚希さん一人に押し付けたんですか!!」


 脳裏に、あの豪雨の夜の情景が浮かび上がる。

 決意と覚悟に満ちた目で、自らの体を武器に捜査に挑むことを告げた、柚希の瞳を。

 彼女の胸に秘めた決意は何処までも高潔であり、胸に抱く覚悟は何処までも誇り高いものだった。

 あの豪雨の日以来、俺は幾度となく彼女に人身御供の任務を言い渡し、その度に、彼女は俺の期待や予想を遥かに上回る成果を上げた。

 惜しみなく体を開き、けれど、その心とプライドだけは、どんなに醜悪な抱かれ方をしても、決して抉じ開けられることも、折れることはない。

 ……だが、俺だって決して、それが正しいことだとは思ってないし、思いたくもないのだ。

 成果が上がれば、柚希の女としての尊厳は傷付けられてもいいのか。

 犯罪の証拠を掴み、奴らを捕まえられれば、柚希の体はどんだけ汚されても構わないというのか。

 なのに柚希は言うのだ。いつも。何処か誇らし気に、事も無げに。


『私は、傷付けられてもいないし、汚されもいないわ』


 強がりかもしれない。そう口にすることで、“蝙蝠”隊員としての己を、維持しているのかもしれない。

 分からないけれど。そう口にして、時折俺に抱かれることで彼女の心が少しでも晴れて、気丈に保たれるのなら。

 俺に出来ることは、その彼女の心意気を、せめて、守ることだけだった。

 そして、彼らに柚希の潜入捜査を黙っていたのには、もう一つ、理由がある。

 俺は、わざと、呆れ交じりの息を深く深く吐き出すと、ゆっくりと立ち上がり。


「じゃあ……お前も、あいつと一緒に売春婦になるか?」


 夏鈴と視線を合わせ、蔑みの色さえ乗せた声で、そう、吐き捨てた。

 夏鈴には余り見せた事のない、俺の、“冷酷な隊長”としての、顔。

 彼女は俺と目を合わせた瞬間、息を呑んで身を強張らせ、一歩後退った、けど。


「っ、っ!!」


 逃がすまいと、俺は彼女の濡れたままのシャツの、胸元を乱暴に鷲掴みにして、ぐい、と引き寄せた。


「隊長!!」


 賢吾が悲鳴交じりの声を上げるけれど、無視。

 僅かでも身じろげば、鼻先が触れ合ってしまいそうな距離。

 震える吐息が口許を掠める程に、扇情的な、妖艶な距離間だったけれど、眼前の夏鈴の瞳は、ただただ、恐怖に染まっていた。


「――震えているな、夏鈴。俺が、怖いか?」

「……、っ」

「ちょろいもんだな。さっきまでの威勢の良さはどうした?」


 わざと口の端を歪めながら、挑発的に言ってやる。

 夏鈴の瞳の端に滴が浮かび上がり、それは粒となって頬を滴り落ちた。

 けれど、まだ、許してやれない。


「どうしても柚希一人を男共の玩具にさせたくない、納得出来ないって言うんなら、構わねえぞ、夏鈴。

 お前も、売春スタッフとして柚希と一緒に潜入捜査に当たれ。手駒が多い方が、その分情報も多く集められるし、摘発の時期も早まる。

 だが、そうやって俺に食って掛かって来たからには、お前にも、相応の覚悟ってやつが、当然あるんだろう?」

「覚、悟……?」

「そう、たとえば……

 今ここで、俺達三人に順に抱かれろと言われて、その服、自ら脱げるか?」

「……――!!」

「三人のうち、誰かしらが見てる側で、足を開けるか」

「っ……っ、……」

「相手の身体的特徴や声帯判断のために、情事中の様子を録音しなければいけなくなった場合、自分の厭らしい声を俺らや警察の奴らに聞かせることに、抵抗しないでいられるか?」


 みるみるうちに夏鈴の顔が蒼白になっていく。

 ……これは、脅しでも何でもない。

 実際、過去に一度、柚希と柚希の相手の、情事中の様子を隠し撮りした映像を使い、売春行為を行った男の情報を集めたことも、ある。


「柚希がやっているのは、そういう捜査だ。

 あいつは全部承知しているし、全部覚悟している。

 その上で、任務を遂行し、そういう奴らを、そういう企業を摘発に導いて来た。

 夏鈴。お前に、同じだけの覚悟を決めることが出来るか?

 お前に、あいつと同じだけの結果を出すことが出来るか?」


 夏鈴は今度こそ目を瞠って絶句した。

 そんな彼女に、俺は目を細めて、罵るように、蔑むように、吐き捨てる。


「間違えるなよ。俺達はチームを組んではいるが、チームで動いている訳じゃない。

 誰がどんな任務に就こうが、求められるのも必要なのも、結果だけだ。

 結果を出せるだけの覚悟も度量もねえ奴が、くだらねえ同情や正義感でぎゃあぎゃあ喚くんじゃねえよ」


 吐き捨てて、放り投げるように夏鈴を解放する。

 よろける彼女を咄嗟に賢吾が支えた。

 二人は信じられないものを見るような眼差しで俺を見据え、やがて、夏鈴が賢吾の手を振り払って、事務所を飛び出す。

 その後ろ姿を、賢吾は咄嗟に追い掛けようとした、けれど。すんでで踏み止まった。

 俺は何事もなかったように、再びデスクの椅子に腰を下ろし、ため息を零しながら頭をがしがしと掻く。

 その間賢吾は、何かを言いたそうに、でも言い出せずに口を開けたり閉じたりしながら、俺を見下ろしていた。


「……言いたい事があるなら言えよ」


 そんな賢吾に言い放てば、賢吾は困ったように少々俯いて。


「……止めなかったんですか」

「あ?」

「柚希さんが、自分から望んでその任務に就いていると、隊長は今仰いました。

 その時隊長は……柚希さんを、止めなかったんですか?」


 半ば苦し気に問われて、俺は、一瞬、「止めなかった訳がねえだろ」と言い掛けた口を、無理矢理閉じる。


「――止めたって無駄なのは分かってんだろ」

「……、」

「柚希がどうこうって話じゃねえ。一度指令が下ったのなら、俺達に拒否権はない。

 それが“蝙蝠”のルールだ。なら、止める必要も、そもそも止めたいと思うことすら滑稽だろう」


 賢吾から目を逸らさぬままに、きっぱりと答える。

 俺の答えを聞き、何も言い返すことなく、更に問いを重ねることもなく、彼は俺の目をじっと見つめ返していたけれど、やがてふと、目を伏せた。


「……貴方は本当に、悲しいくらいに、冷徹な人、ですね」


 そうして、何処か痛みを滲ませた声でそう呟くと。賢吾も、事務所を静かに出て行った。


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