初めて言葉を交わした日
「っ、!」
抗い切れない欲の海に一瞬で取り込まれる。
抵抗することなく、その欲を放出するのと同時に、組み敷き、腕に掻き抱いていた柚希の口から、嬌声が上がった。
呼吸を乱したまま腕を解き、穿っていた熱を引き戻せば、俺は、軽い眩暈に襲われた。
無造作に避妊具を外して、倒れ込むように彼女の隣に横になる。
……所詮、俺も男だ。こういう時の疲労感は何処か、少しだけ、ふわふわしていて心地が良い。
心と、体は、一致しない。
体が、快楽の余韻に全身で酔っているのに、心には、熱が引いていくと共に虚しさが襲う。
「……大丈夫……?」
ふと、柚希が俺に寄り添いながら、ぼんやりした口調で言った。
「そりゃ、俺の台詞だろ」
「……あんたが、私を気遣う必要なんて、ないわ。
あんたは私に……体よく利用されてるようなもんなんだから」
まだ少し熱い素肌のまま、労わるように俺に抱き着く柚希の体を、俺は、抱き寄せた。
俺は柚希に恋をしないし、柚希もまた、俺に恋はしない。
気心が知れているからこそ彼女は……愛してもいない男に抱かれることを、慰めになると言う。
「でも何だか……いつもより激しかったみたい。もしかして、崎原の事まだ怒ってるの?」
「……馬鹿言ってねえで、もう寝ろよ。俺も、今日は疲れた」
「……そう。分かったわ……お休み」
普段とは違う穏やかで安らかな声で囁いて、彼女は、俺の腕の中で目を閉じた。
柚希に妙に色々見透かされている気がするのは、長い付き合いだからか……はたまた、肌を重ねたせいなのか。
……崎原のことをあんなに罵っておいて、その実俺も、所詮はあいつと同類。
虚しさと共に去来する自己嫌悪を追い払おうと、深く息を吐いて、俺も目を閉じる。
――眠りに落ちる寸前、“あの子”の歌が、耳の奥に響いた気がした。
□□□
妙にふかふかのベッドの上で目覚めると、隣にはもう、柚希の姿はなかった。
サイドテーブルには水差しと置手紙が一枚。
――彼女との情事後の朝は、いつもこんな感じだった。
どちらかが先に起きれば、相手を残してさっさと帰る。
そもそも互いに同僚以上の感情がないから、俺達は一度ベッドから出てしまえば後はドライだった。
未だ気怠さの残る体を起こして、全裸のまま風呂場に向かう。
柚希も帰る前に使ったのだろう。浴室のタイルが少し濡れていた。
何とも生々しい朝だが、欲を吐き出すだけのセックスの後だ、そんな生々しささえ、何もかもが無機質だった。
柚希はこんな朝を、これから暫く、下手をすると毎日のように、味わわなければいけない。
そうして疲れたら、また、俺の所に帰って来るんだろう。
何の感情も、気持ちもない、ただ、束の間“疲労”を忘れるために。
俺は緩く首を横に振り、熱いお湯を頭から被った。
そういえば今何時だろう。
目覚ましも何も掛けずに寝て、起きてからも時間も確認せずに風呂場に直行したから、時間が分からない。
のんびりシャワーなんぞ浴びてるけれど、出勤時間とっくに過ぎているんじゃあ……、
「……って、今日は土曜か……」
一瞬の焦りの後、瞬時に冷静になった頭が、正確な時間よりも正確な曜日を先に思い出してくれた。
大きくため息を零すと、何となくどんよりしていた気分が、少しだけ上向いていく。
今日は土曜日。それなら、俺がこれからやることも行く場所も、決まっている。
俺は半ば適当にシャワーを済まし、部屋に無造作に脱ぎ捨てたままだった服を着て、部屋を出た。
雨こそ降っていなかったが、空は曇っていた。
いつ降ってもおかしくないようにも、このまま少しずつ晴れていくようにも見える。
雨さえ降らなければ俺はここに来る。
いや、下手をするなら雨が降ったってここに来る。
特に今日は、然程酷い雨でなければ、降っていてもここに来るつもりだった。
割とぐっすり眠った筈なのに、体にも心にも疲労感がずっしりと残っている。
本当なら、あのまま真っ直ぐ家に帰って、明後日まで家でのんびりしている方が良かったのかもしれないけれど。
酷く疲れているからこそ……今日は、ここに来たかった。
そうして俺は砂浜に下りて。眼前に広がる海ではなく、砂浜に視線を巡らせる。
気付いたら、探してしまっていた。
いつもここで、呟くように歌う、あの子の姿を。
そしてその姿は、あっさりと、俺の視界の中に捉われた。
いつもと、同じ。Tシャツにジーパンに、化粧気も余りない、地味な姿、だったけれど。
昨日あんな場面を目撃したからだろうか。いつもの同じ姿を見付けて、俺は何となく、安堵してしまった。
だが、その安堵も束の間に、俺は、彼女が今日も手紙を読んでいることに気付く。
見た感じ、昨日と同じ便箋のそれを、砂浜に座り込んで食い入るように読む姿に、俺はやはり目を離せなくなる。
誰からの手紙だろう。このメールやLINEが主流の御時世に、誰かと文通でもしているのだろうか。
でもそれにしては、彼女の表情は硬い。
相手の手紙に何か、深刻な悩みを打ち明けるような内容が認められているのか、それに対しての返事を真剣に悩んでいるのか……。
――どうして俺は、彼女の事がこんなに気になるんだろう。
昨夜同僚の女を、何の感情もないままに抱いた後だというのに、体にも心にもしつこく残っていた倦怠感と疲労は、彼女の姿を見付けた瞬間、引っ込んでしまった。
今は何故か、ただ、彼女の読む手紙の内容と、相手と……どうしてあんな顔で読んでいるのかが、気になって仕方がない。
けれど、そもそも知り合いでも何でもない以上、無闇に近付いて警戒させる訳にもいかない。そうなったらきっと、彼女はここに来てくれなくなるだろうし。
全く本当に……どうかしてる。
俺は、好きでもない女を簡単に抱けてしまえるくらいには軽薄で。
いざとなったら人をいくらでも傷付けてしまえるくらいには、残忍な男だというのに。
それなのにここに来たら、いつの間にか彼女の姿を探すようになっていて。
いつの間にか、彼女の歌に、いつも耳を傾けている。
きっと、俺以外には聞こえない、彼女の唇の先だけで紡がれる、小さな歌に。
それとも、妙に人恋しいような気分になっているのは……昨日、らしくもなく人に苛立ち過ぎたせいか、それこそ、女を悪戯に抱いたせいなのか。
そんな風に考えると、俺は、これ以上彼女を不躾に見続けているのも良くないような気がして来て、心がざわついた。
けれど……。
「、!?」
次の瞬間、思いも掛けなかった光景が目に入った。
彼女が、急に顔を顰めたかと思ったら、読んでいた手紙を、思い切りビリビリに破り始めたのである。
入っていた封筒さえも何度も何度も破るその姿には、敵意を通り越して憎悪さえ窺えるようだった。
これでもかという程に破ると、彼女は切れ屑となった手紙を、投げ捨てる。
破片は風に乗り、海面へと流され、あるいは砂浜や空の向こうへと消えていく。
そのうちの一枚が、俺の足元へと飛ばされて来た。
一瞬風が止み、俺はその紙切れを拾い上げる。
ここまでビリビリに裂かれた紙だ、拾ったところで何が書いてあったかなんて分かりようもない。
けれど――少なくとも。自分に向けて誰かが書いた手紙を、あんな顔でここまで破り捨てる、からには。
相当の事情があるんだろうということは、嫌でも分かった。
俺は、紙切れを持ったまま、もう一度彼女に視線を戻す。
睨むように海の向こうを見つめる瞳は、何処か、酷く淋し気で、今にも泣き出しそうに見えて。
もしかしたら。
もしかしたら、大きな悩みを抱えているのは手紙の主じゃなくて、彼女の方なのではないか。
そんな風に思ったら、また。
俺の足は、俺の意志とは関係なく、彼女の方に向かって踏み出して、いた。
「――、……」
だけどその俺の存在には気付かぬまま、彼女は歌を、紡ぎ出す。
やっぱり俺の知らない歌だったし、やっぱりただ呟くような声だったけれど。
そんなささやかな声でさえ、胸に痛むのは、何故だろう。
やがて歌が終わる頃には、俺は、彼女のすぐ側まで、歩を進めていた。
気配に気付いた彼女が、半ばぎょっとして俺の方を振り仰ぎ、そのまま、身を強張らせる。
目に見えて表情の変化はなかったけれど、俺の出現は彼女を確かに怖がらせてしまったのだと、気付かずにはいられなかった。
こういう時、“蝙蝠”で培った己の洞察力が、少しだけ恨めしい。
「……あの、」
だが、驚いた事に、先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「人違い、だったらすみません……昨日、フードコートに居た方、ですか……? 私の側に居た男性に、椅子をぶつけてしまった……」
「、……うん。そう。また逢ったね、お嬢さん」
思い掛けない問い掛けに益々驚きつつ、俺は努めて穏やかな口調で、笑みを浮かべて頷いた。
お嬢さん、なんて呼ぶのはナンパな感じがするかなとも思ったが、他にどう呼ぶべきかも浮かばないので、気にしないでおこう。
「あの、昨日は……ありがとうございました」
「……何が? 俺は椅子から立ち上がった時に勢い余ってしまって、人に椅子をぶつけちゃっただけだよ?」
不意に立ち上がったかと思ったら、唐突にそう礼を言われて、俺は惚けてみせる。
まさか偶然のふりして助けた事がバレていた訳はない。が、礼を言われて一瞬内心に動揺が奔った。
「それでも、私、助かったので……」
案の定、助けた事、ではなく、結果的に助けられた事、に対しての礼だったようで、彼女は少し戸惑いつつも頭を下げた。
それも全ては俺が意図してやった事、ではあったけれど。
そんなことを言う訳にはいかないから、俺は両手をぱたぱた振りながら、「何かよく分かんないけど、助かったんなら良かったね」と言った。
彼女の頭が上げられると、二人の間に沈黙が下りた。
少し俯き加減に佇む彼女は、何の前触れもなく現れた俺という存在を前に、ただただ戸惑い困惑しているようだった。
まあ無理もない。
ずっと前から彼女の存在を認識していた俺とは違って、彼女にとっての俺は、ドライブ先で急に現れた正体不明の男、だろうから。
戸惑いのままに俺と目も合わせない彼女を良い事に、俺は改めてまじまじと彼女の姿を見下ろした。
身長は、思ったより低くはない。むしろ、女性としては高い方だろう。
化粧気はないが、完全なる素面という訳でもないらしい。地味な格好だが、決してみすぼらしくはなく、最低限、人に会うにも失礼にはならない、というような風貌だった。
顔のつくりは……まあ、主観で言わせてもらえば、美人、とは言い難い。
早い話が、総合的に、“普通”を絵に描いたような人物、といったところか。
ケバくはならない程度にバッチリ化粧をしてる柚希や夏鈴とは正反対だからか、何だか少し、こういう女性を前にするのは新鮮だった。
「君は、この辺の人?」
「、いえ……たまに、ドライブで……」
「そっか。じゃあ俺と一緒だな」
「……、」
余り警戒を強めさせないように、当たり障りない短い会話を交わした。
言葉の後には海の方に顔を向けて、その、寄せては返す波をじっと見つめた。
それに倣うようにして、彼女も海面に視線を移す。
再び下りた沈黙の最中、ふと、彼女がいつの間にか俺を見上げていることに気付いて視線を落とせば。
「あの……もしかして、何処かで、お会いした事、ありますか?」
またもや、思い掛けない言葉を、問い掛けられた。
一瞬、俺がここで初めて彼女を見付けた時、ほんの一瞬だけ目が合った時の話かともお思った、けれど。
俺を見上げる何処かもどかしい色に、その時の事ではないな、と分かった。
そうでなくても俺は、彼女の事を一方的に知っている。
他にもいつか、彼女と目が合ったり、彼女が俺の存在に気付いたりしたことがあっただろうか。
僅かな間で色々思い返してみるけれど、俺には砂浜とフードコート以外の場所も場面も思い出せなかった。
「いや? 今日、っていうか昨日初めての筈だよ?」
だから俺もちょっとだけ首を傾げながらそう答えると、彼女はすんなりと俺から目を逸らして、「そう、ですよね。すみません」と詫びた。
その時、一瞬、胸にひんやりとした感覚が駆け抜けた、ような気がした。
昨日フードコートで逢ったのが初めて。もっと言うなら、ここで俺が彼女の姿を見付けたのが初めて。
それに関しては、一切の嘘はないし、偽りもない。
なのに……そう答えた瞬間、言い知れぬ不安のようなものが、ずし、と圧し掛かった、気がする。
まるで、そう……その自分の答えを、自分の中の誰かが、“違う”と言っているような。
だが、その違和感を払拭するより先に、彼女がまた俺をしっかり見上げて、言った。
「変な事を言ってすみません」
「あ……ううん。気にしないで」
ていうか、すみません、が多いな……。
「あの、私、そろそろ……」
「ん? ああ、もうそういう時間か。うん。じゃあ、気を付けて帰れよ? 突然話し掛けてごめんな」
「いえ……では、失礼します」
礼儀正しくお辞儀をすると、彼女は踵を返し歩き出す。
最後まで強張ってて戸惑ってたけど、それでも分かった事はある。
要するに彼女は。
ただの“人見知り”なだけだ、ということ。
遠ざかる背を見つめて、それに気付いた途端、俺は何だか、このまま“一方的に知ってるだけ”で終わらせたくないな、と強く思った。
「ねえ君!」
思ったら、俺は自然と声を上げて。
「俺は黒咲大和。良かったら君の名前も、教えてくれないか?」
自然と、笑みを浮かべて、そう、高らかに言った。
我ながら本当にナンパな言葉で態度だと思ったけれど。
そう思われたって、良い。
彼女と繋がりが持てるのならば。
すると彼女は、やはり少し戸惑った様子で振り向きながら、少しだけ躊躇った後。
「――桜花。七海桜花です」
……七海……?
聞き覚えのある苗字に、一瞬心が反応する。
けれど、そうそう珍しい苗字という訳でもなし、俺は、その心の引っ掛かりを、あっさりと振り払った。
「ありがとう。また逢えるのを楽しみにしてるよ!」
自分でも驚いてしまうくらいに、流れるような自然さでそう告げると、彼女はほんの微かに、頬を染めて、俯き。
それを誤魔化すように、半ば慌ててまた頭を下げた。
今度こそ彼女は振り向かず、自身の乗る車の方へ、小走りに駆けていく。
その背を見送って、俺は……心が弾んでいることに、気付かずにはいられなかった。
慰めのために柚希を抱いて、気持ちがどんよりとしていた筈なのに。今はもう、いつもと同じか、それ以上に心が軽い。
――今度また逢えたなら。その時はもっと、色んな話が出来るといいな、なんて。
柄にもないことを、また、思った。




