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何者にもなれない蝙蝠達  作者: 和菜
女コウモリ
12/29

虚無なる交わり

 

 くるり、と。

 手で器用に銃を回すと、俺は、崎原の腹から足を退けた。


「……――っ、……、……」


 倒れ込んだまま全身を震わせ、呻きとも悲鳴ともつかない、か細い声を発する彼を、俺は冷めた目で見下ろす。

 途端に妙な異臭が鼻に衝いたので、眉を潜ませながら視線を移せば……崎原が失禁していた。

 ――俺の撃った弾丸は、彼の頭のすぐ横、耳のすぐ側辺りの床に当たり、そこから僅かに煙を漂わせていた。

 ああは言ったが、俺には最初から、こいつを殺す気はなかった。

 現時点でこいつを殺しても、俺にとっても第七小隊にとっても、何の益も得もない。

 入隊初日にして救いようのない屑だと分かったとしても、それを使える駒に作り変えることもまた、俺の役目でもある。

 この瞬間、この下衆野郎の洗礼と制裁は完了した。

 後は。


「――賢吾。崎原の面倒を見てやれ」

「……はい」


 未だ放心している崎原を放って踵を返し、皆の元に戻ると、賢吾に銃を返しながら低い声で命じた。

 その隣で、夏鈴が怯えたような、困惑したような目で俺を見上げている。

 そういえば、夏鈴は俺のあんな一面、見た事なかったっけな。

 怖い思いをさせてしまって申し訳なかったが、“蝙蝠”がどういった組織で、その隊長である俺が実はどういう奴なのか、この機会に改めて知ってもらえて、良かったかもしれない。

 俺は、夏鈴に曖昧な笑みを向けると、もう一度、未だ倒れ伏したままの崎原を振り返り、最後の忠告を言い放った。


「崎原銀太。今日この時を以って、お前は“蝙蝠”第七小隊の一員となった。

 言っておくが、逃げ出そうなんて考えるなよ。

 この部隊の事を知ってしまった以上、逃げ出したところでお前に逃げ場はねえ。

 脱走者は“蝙蝠”が総力を挙げて捜索し、捕まえる。そして捕まれば、お前は口封じに生涯檻の中だ。

 せいぜい“蝙蝠”と俺の役に立ってもらうぜ」


 半ば吐き捨てて、俺は今度こそ訓練場を出た。


「……荒れてるわね、大和」


 歩きながら背後から聞こえた声に、けれど俺は何も答えなかった。

 俺が訓練場を出てすぐ、後を追うように柚希も出て来たらしい。

 狭い廊下に、二人分の乾いた靴音が響く。

 じめじめした空気の中に僅かに含まれる冷気が、俺の昂った敵意と殺意を、少しずつ、僅かずつ、鎮めていった。


「そうでも、ねえさ」


 ややあって、一つ息を零すと、漸くそう答える。

 後ろで柚希が呆れたような苦笑を浮かべたのが分かった。


「夏鈴、すっかり怯えちゃってたわよ。いくらあの崎原が下衆野郎だからって、ちょっとやり過ぎだったんじゃない?」

「……ああいう手合いには、あれくらいがちょうどいいんだよ。それで夏鈴に嫌われようが怖がられようが、俺の知った事じゃない」

「その冷徹さは、流石隊長と言ったところかしらね」

「………」

「ねえ。あいつが言ってた、フードコートの女性って……」

「知らねえよ」

「、……そう」


 にべもなく答えると、柚希はあっさりと引き下がった。

 何となく腑に落ちないような様子は窺えたけれど、馬鹿正直に「ドライブ先でよく見掛ける、何となく気になる子」だと教えるつもりはない。

 柚希はそれ以上、崎原やあの子に関して食い下がっては来なかった。

 けれど。


「――ねえ、今夜、時間ある?」


 不意に、柚希がそう訊ねて来たのは、地上へ続く階段を、上り切る寸前、だった。

 いつもより少しだけ、声音が違う。

 その声色で問われた言葉の意味を、俺は瞬時に悟り、足を、止めた。

 ゆっくり、ゆっくりと振り返る。

 階段の、数段下に立ち止まる彼女の目は、何処までも穏やかで、何処までも静かだった。


「来週から、任務に行かないといけないでしょ? 久し振りだから、少し慣らしておきたいの。

 何より――“体”も、ほぐしておかなきゃ」


 ――いつもより、静かな声で。

 いつもより、優しく、何処か甘い声で。

 それでいて、いつもより少しだけ……硬く、縋るような、声で。

 任務に赴く前の台詞としては、至極自然な言葉のように、聞こえる、けれど。

 ……俺は、目を伏せて、そっと、彼女から視線を外すと。


「……分かった、いいよ。付き合ってやる。

 仕事が終わったら、いつもの場所で待ってろ」


 低く硬い声で応えて、今度こそ、階段を上り切って事務所へと戻った。



 □□□



 雨は、夜になっても降り続いた。

 記録的な大雨だと、気象予報士がテレビの向こうで警戒を呼び掛ける。

 ――こんな馬鹿な行いの始まりも、こんな天気の夜だった。

 締め切られたカーテンの向こう、雷鳴さえ轟かせながら、大粒の雨が世界を覆う。

 けれど、その轟音さえ、この、秘めやかな小さな部屋の中には、届かない。


「、ん……っ」


 俺の耳に届くのは、耳障りな雨の音でも、腹に響くような雷鳴でもなく、艶めかしく甘い、女の声。

 朧気で頼りないライトの光の下、妙にふかふかで肌触りの良いシーツに、俺は彼女の体をそっと沈める。

 少し乱暴にシャツを剥ぎ取れば、彼女は羞恥と興奮に熱を上げた。

 澄ました顔をして、俺に遠慮のない言動をする普段の彼女からは、想像も付かない程に、扇情的な姿だった。


「大和……、」


 何処か急かすように名を呼ばれて、俺も、着ていたシャツを取り払う。

 心と体は一致しない。

 心が望むままに体が動くことはないし、体は常に心を無視する。

 白い肌に唇を寄せれば、彼女の甘ったるい声が鼓膜を刺激し、俺の昂ぶりを増幅させる。

 この行為に、愛なんてない。

 それでも俺の体は、本能と欲の赴くままに、素直に、従順に反応する。


「あ……、」


 そうして、その欲を穿てば、彼女は――……狩谷柚希は、俺の首にしがみ付いた。


「……確かに、ちょっと、狭いな」

「……、っ」


 酷薄に笑って、言い放つ。

 そうでもしなきゃ、乱暴にしてしまいそうだった。




 それは、俺が第七小隊長を先代から引き継いだばかりの、頃。

 県警から、指令が下りた。

 売春斡旋の容疑が掛けられている企業の、従業員や客達の情報、証拠を洗いざらい掴み、一斉摘発へと誘導しろ、というものだった。

 だがその内容は、潜入捜査と言うより囮捜査に近かった。

 事務員や清掃スタッフとして入り込むのではなく、“売り物”として入り込むよう、指令が下りていたのである。

 つまり……女性隊員を一人、売春婦として潜入させ、不特定多数の男と寝かせて、それで以って相手の素性と企業の内情を全て暴け、と。

 “蝙蝠”には、如何な指令が下りようと、それを拒否する権限は持たされてはいない。

 たとえそれが、命を危険に晒すような事であっても、俺達は、嫌とは言えない。

 警察が常に命の危機と隣り合わせで職務を全うしているのに、その傘下にある、それも“元受刑者”の吹き溜まりが、我が身可愛さに任務を選り好みするなど言語道断――というのが、警察側の言い分だった。

 俺達は所詮、警察の都合の良い捨て駒。

 ありとあらゆる違法捜査を容認する代わりに、人権も何もない、ただのゴミ溜め。

 故に、一度指令が下りればもう、俺は誰をそこに向かわせるかを考えることしか、やることはなかった。

 だが……当時、その答えは、考えるまでもなく、一つしかなかった。

 当時の第七小隊には、女性隊員は、たった一人しか、居なかったのである。

 それが――この、狩谷柚希。

 柚希は、俺とほぼ同時期に“蝙蝠”に入隊した、俺にとっては戦友だった。

 だから俺は、彼女にこんな仕事はさせたくない、と心底思った。

 柚希がどんな罪を犯して服役したのかは、まだ経歴書なんかを貰える立場になかったから未だに知らないけれど、それでも、こんな……人身御供のような事、させてたまるかと思った。

 指令が下りた翌日、俺は県警に赴き、“蝙蝠”の監督官に、せめて売春婦以外の潜入の許可を頼みに行った。

 だが、いくら頼んでも、『それがお前達の仕事だ』の一点張りで、取り合ってはもらえなかった。

 俺達は所詮、捨て駒。

 刑を全うしても、人として信用出来ない、いつかまた罪を犯すかもしれないと勝手に見做された、ゴミ屑も同然の……人であって人でない存在。

 俺は途方に暮れた。

 途方に暮れて、でも、他にどうすることも出来なくて。

 そんな俺の悔しさを嘲笑うように。

 あの日、柚希は、皆が帰宅した後の、誰も居なくなった事務所で。


『――指令が来てるんでしょう? 私に、売春斡旋容疑の掛かった企業に、売春婦として潜り込め、って』


 妙に優しい微笑みを浮かべて、そう、言った。

 その時はまだ、俺は彼女に任務の事は話していなかったから、当然俺は驚愕し、困惑した。

 俺の直談判に呆れた監督官が、俺が県警から事務所に戻る前に、柚希に直接命令を下していたのだ。

 俺が何と言おうと、県警が、警察組織が“蝙蝠”に下した指令は絶対。どれ程の痛みを味わうことになっても、やり遂げろ、と。

 その後のケアは保証する、なんて、御機嫌取りまで忘れずに。

 ――俺は震えた。

 怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか、もう、分からなくなるくらいに。

 けれど……。


『――私、やるわ』


 俺の動揺など跳ね除けんばかりの口調で、彼女は、そう、言い放った。


『やる、って……』


 俺は掠れた声でそう言っていた。


『ええ』

『っ、好きでもねえ男と寝なきゃいけねえんだぞ!? それも、一人や二人じゃ済まねえかもしれねえ、情報を手に入れて、摘発に漕ぎ着けるまで、ずっと……いつまで続くか、分かんねえのに!』

『それでも……私はやるわ。やらせて欲しいの』

『お前……それ、マジで言ってんのかよ……?』

『ええ。だから、お願い、大和……いえ、黒咲隊長』


 にべもなく答える柚希の目は、恐ろしい程に力強く、迷いも躊躇いも、不安さえ窺えなかった。

 心底背筋が寒くなるくらい、毅然とした、鬼気迫る程の、眼差しだった。


『……馬鹿、言うなよ。そんなこと、出来る訳』

『じゃあ、他に誰がやるの?』


 そう問われて、俺は言葉にぐっと詰まった。

 他にやれる奴は、居ない。

 女性隊員は、彼女しか、居ないから。


『私はありとあらゆる覚悟を決めて、この“蝙蝠”の隊員になることを選んだの。たとえそれが、“女”であることを最大限に利用するような事でも、逆に、“女”であることを捨て駒にしないといけない事でも』


 何故、彼女がそんな覚悟を決めたのか、何故、そこまでの覚悟を決められるのか、それは、今でも、分からない。


『隊長、私はね。私の意志で、“私”を武器にするって決めたの。

 罪を犯してのうのうとしてる奴らを捕まえるために、逃げ回ってる奴らを追い詰めるために。

 それをあんたが駄目だって言うのは、隊員を軽んじてるってことなのよ』


 それでも俺は、踏ん切りが付けられなかった。

 覚悟が何だ、任務が何だ、“蝙蝠”が何だ。

 どんなお題目を並べたって、こんなの……酷過ぎると思った。

 “蝙蝠”隊長として、失格だって、言われても。


『――じゃあ、こうしましょう。

 少しでも嫌になることがあったら……隊長、貴方が、私を、慰めて』

『――……は?』

『偉そうなことを言っても、仕事だし、やる事がやる事だし、確かに、一度や二度は、嫌になることもあると思う。

 その時は、貴方が、私を慰めて。

 自分の部下の傷を自分の目で確かめて、自分が癒す。

 それなら少しは……貴方も気が晴れるでしょう』

『っ、お前な……言うに事欠いて何を』


 あの時、彼女が浮かべていた、いっそ清々しいまでの笑みを、憶えている。


『貴方は私のために、そんなのは御免だと言うでしょう。

 でもね、私は……私のために、貴方に、いざという時は助けを乞うわ』


 泣きそうな声を、憶えている。

 今にして思えば、それは、彼女が一瞬だけ見せた、弱音だったのだろう。


『――間違わないで。全ては私のため。そして、“蝙蝠”第七小隊のためよ。

 貴方のためじゃない』


 なのに、突き放すように言われた瞬間、俺は、もう、どうしようもない、と悟ってしまったのだ。


『……――分かった。

 お前が、“蝙蝠”の隊員としてそこまでの覚悟を決めているのなら、改めて、俺は、お前に潜入捜査の任を言い渡す』


 そうして、彼女は――“蝙蝠”第七小隊唯一の、娼婦となった。

 一度摘発しても、時間が経てばまた世の中の隅で生まれる、人買い共を駆逐するために。

 そういった組織や企業が出る度に、彼女は自らの体を武器に、“女”であることを武器に、潜入捜査に赴く。

 その過程で、心が疲れて、慰めが欲しい時になれば。

 俺の元へやって来るのだ。

 俺との、気持ちのないセックスで、心を温めるために。

 偽りと知りながら。茶番と知りながら。


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