極秘部隊
「――あれか」
誰もが寝静まった深夜二時。
俺は、取り壊されるのを待つばかりとなった廃ビルの一角から、双眼鏡を覗き込みながらそう呟いた。
そこから見える景色は、眠らぬ繁華街。
酔っ払いや遊び帰りの学生達などで今尚賑わうそこの、更に裏路地。
所謂夜の店から出て来た一人の中年男性の姿を、俺は双眼鏡でじっと見据える。
男は、艶めかしいドレスを身に纏った女の体に手を回し、その女と共にタクシーに乗り込んだ。
それを確認すると、俺は黒いコートの内ポケットに忍ばせていたインカムのスイッチを押して、相手に語り掛ける。
「標的確認。予想通り、例のホテルに向けてタクシーを走らせてる」
要件だけを端的に報告すると、すぐ、耳に着けたイヤホンから返事が返って来る。
『了解。これより、“任務”を開始します』
聞こえたのは女の声。
俺はすぐさま身を翻して、急ぎ足で廃ビルを出る。
裏手に停めてあった車に素早く乗り込むと、すぐにエンジンをかけて発進させた。
裏道を、小回りの利く軽自動車で右へ左へと軽快に走る。
頭に叩き込まれた地図の通りの道順で走り、目的地へはものの十分も掛からず到着した。
運転席の窓を開けて、エンジンを切り、大きく息を吸って――吐く。
もう一度コートの内側へ徐に手をやり、だが今度はポケットではなく、その更に奥、肩に装着してあるホルスターに触れた。
ひんやりとした感覚に、自然と神経も研ぎ澄まされる。
音も立てずに硬く冷たいそれをしっかりと握って、ホルスターから引き抜き、コートから出した。
――黒い、リボルバー式の、小型銃。
警察官が使っているものとほぼ同じ型の銃だ。
だが、俺は、警察官では、ない。
俺は、開けた窓の枠に銃身を添えるようにして銃を構えると、より正確に照準絞るために、ドアとグリップの間の隙間に左手を添え、少々身を屈めた。
灯りの一つすらない、人も全く通らない裏路地。
建物と建物の、車が離合するスペースすらない狭い道。
そこに、俺は車を停めていた。
建物の隙間の向こうに見えるのは、繁華街から少々離れた土地にある、所謂ホテル街。
その一つに、先程の男が現れる筈だった。
俺の計算が正しければ、それはもう、あと三分後。
俺は息を殺し、全神経を研ぎ澄まし、その時を待った。
その時、耳に装着したインカムから、先程の女性から報告が届く。
『総員、配置完了。標的の車を目視確認』
返事は、必要なかった。
俺は一切の邪念と雑念を頭から追い遣って、“その瞬間”を、待つ。
そして。
キキィ、という音と共に、一台のタクシーが、そこに辿り着いた。
俺の読み通り、ちょうど、ここから直線上、ぴったり照準位置。
それも、ちょうどこの路地の隙間の真ん中が、男が乗っている後部座席のドアの位置だった。
面白いくらいに読み通りで、思わず口許が弧を描いた。
そして、男は開かれたドアから、覚束ない足取りで外へと出て来て、大きく伸びをする。
――今だ。
俺の直感が、そう、鼓膜を刺激した。
その瞬間、一気に俺の神経が張り詰めて。
――パシュ!
緊張と静寂が最高潮に達した瞬間、俺は引き金を引いた。
予め装着しておいたサイレンサーのお陰で銃声は掻き消され、空気が勢い良く零れたような何処か間抜けな音が、俺の車の車内にのみ微かに響く。
だが、その僅か二、三秒後には。
――ぱりん!!
タクシーの後部座席の窓が、粉々に砕け散る音が、辺りを支配した。
「な、何だ!?」
男が悲鳴交じりに叫ぶと、タクシーの運転手も驚いて外へ出て来た。
それとほぼ同じタイミングで、俺は更にもう一度、引き金を引く。
弾はタクシーの屋根の社名表示灯に命中し、砕け散る。
「きゃあ!」
男と共にタクシーに乗っていた女も最早パニックになり、両手で頭を押さえながら男の腕にしがみ付いた。
「おい、何だよこれ!」
「警察だ! 誰か警察呼べ!」
タクシーの周りにはあっという間に人だかりが出来、パニックがパニックを呼ぶ。
野次馬の一人の、警察を呼べという言葉に、男の顔が一瞬で真っ青になった。
未だに彼の腕にしがみ付いている女の体を、かなり乱暴に振り払うと、彼は血相を変えて踵を返す。
「ねえおじさん、大丈夫?」
そこに、行く手を阻むように、“通りすがり”の女が心配そうな顔で男の目の前に現れた。
――女と全く同じ声、同じ台詞が、俺の耳のイヤフォンから流れて来る。
「顔色が悪いみたい。怪我したんじゃない?」
本気で心配そうな声色に、一瞬俺の背筋が寒くなった。
女ってのは生粋の役者だなと思う。
「大丈夫だ! いいからそこを退け!!」
曲がりなりにも心配してくれている相手を怒鳴りつけ、男は、連れて来た女もタクシーもそのままに、逃げるように立ち去ろうとする、が。
「駄目だよ。今警察呼んだから、ちゃんと事情を話して助けてもらわなきゃ」
女は尚も男の手を掴んで、男を止める。
一見、尤もらしい台詞を言いながら。
……よし、いいぞ。
「余計なお世話だ! 離せ小娘! 儂は帰る!」
「どうしてそんなに慌ててるの? 今の、誰が見たってすっごく危険な事件だよ。だから皆こうしてパニクってるのに……
……それとも。
――警察に来られたら、何かまずいことでも、あるの?」
最後の一言だけ、女の声が急に低くなった。
挑発するような、罠に掛かった相手を嘲笑うかのような、艶めかしくも不気味さを孕んだ声。
それも、男にしか聞こえない程の声量だった。
男も、その異様な様変わりに気付いたのだろう、目を瞠り、息を呑んだ。
一瞬男は凍り付いたように動かなかったけれど、すぐさま彼女の手をやはり乱暴に振り払って、またしても駆け出した。
「……行ったぞ」
それと同時に、俺はすかさずインカムのマイクに向けて、たった一言、呟く。
そして。
パトカーのサイレンが、まるでタイミングを計ったかのように、一斉に鳴り響き出した。
「――任務完了。総員、直ちに撤収せよ」
□□□
音楽なのかチャイムなのか、よく分からない軽快なリズムが、耳元で木霊する。
その音に意識を引っ張り上げられて、抗い切れずに俺は、重い腕を動かして枕元のスマホを取り、画面をスライドさせた。
午前八時三十分。
昨夜あの後、すぐに『会社』に戻って、銃を片付けてから即行で帰宅して、やっぱり即行で風呂入って寝落ちして……ざっと計算して、睡眠時間四時間半といったところか。
十分とは言えないし、むしろ短い方だが、まあ、社会人的にはありがちな長さだろう。
いつもより遅い起床時間で良いだけ、よしとしよう。
俺はベッドの上でだらしなく伸びとでかい欠伸をしてから、起き上がる。
パンツ一枚という、だらしなさの極みみたいな寝姿のまま、洗面所に行って顔を洗い、歯を磨き、髭を剃る。
寝起きってやつはどうもいけない。これからまた仕事だというのに、全く以ってやる気が出ない。
ガラガラと乱暴且つ適当にうがいをして、もう一度部屋に戻ると、俺は無造作にテレビを点けた。
平日の朝のワイドショーは、今日は何処のチャンネルを回しても、同じ内容をやっている。
『県警は今日未明、五年前に発生した、連続幼女誘拐事件の犯人を逮捕した、と発表しました。
容疑者の名前は蔵山達夫、五年前の当時は、小さな町工場の工場長を勤めており、現在は……』
そこでテレビを消す。
「……現在は市議会議員を勤め、次の市長選に出馬を表明していました、ってか」
朝っぱらからうんざりし切った声で呟くと、俺は頭をがしがし掻いてから、クローゼットの扉を開けた。
シャツとズボンとネクタイを引っ張り出して、だらだら着替える。
トーストを焼いて、バターも何も付けずに無造作に頬張り、砂糖とミルク入りのカフェオレと共に喉の奥に流し込む。
我ながら、乱暴な食い方だ。分かってる。
だが朝は出勤時間ギリギリにしか起きれない……ていうか起きないので、支度も食事も最高スピードで済ますのが、俺の朝なのだ。
……社会人ってそんなもん……の、筈。……うん。
仕事用の鞄に財布とスマホとタオルと、その他必要な道具を詰め込んで、最後に寝癖を直して、家を出た。
俺の住む県は、かなり身も蓋もない言い方をしてしまうなら、超が付く程の田舎だ。
東京までは飛行機が最短で行ける移動手段だろう。
電車はあるにはあるが、県内を縦横無尽に走ってはおらず、限られた区間のみ、それも一時間に二、三本という運行状況。
その代わりのつもりか、バスは割とあちこち走っているが、場所によってはやはり本数が少なく、遠出したかったら何度も乗り継がなくてはならない上、平気で数時間かかる。
当然、県民の移動手段は、自家用車が主だった。
俺もその例外ではなく、アパートの駐車場に停めてある車に乗り込んで、『会社』へと向かう。
大体、一般企業の始業時間は八時半か九時くらいだろうと思うが、現在時刻は九時十分。
ちょっと遅めなので、道路も割と空いている。
毎日これくらいの時間なら俺も楽なんだが、まあ……そのために深夜まで働くのも、睡眠時間が削られるのも嫌だし……ああ……何か世知辛い……。
カーオーディオに入れっぱなしのCDから、昔から好きだった曲が流れて来て、運転に集中しつつ聴き入った。
時間はともかく、至っていつも通りの朝。
これで向かった先がどっかのオフィスビルの立体駐車場とかなら格好いいんだろうが……。
家を出て二十分後。
着いた先は、古びたビルの駐車場だった。
「おはよう、大和」
「おう、おはよう。何だよ、お前もかなりの夜更かしだった割に早いな」
車を停めて、ビルの最上階である三階の一番奥の部屋のドアを開けて中に入ると、スーツに身を包んだ女性が挨拶してくれた。
昨夜、あの男――蔵山達夫を引き留めた時より、少しだけ高く爽やかな声音。
俺と同じ、深夜上がりだったとは思えないくらい、彼女は疲れと眠気が顔に出ていない。
化粧のお陰なんだろうか。
いや、でも彼女はナチュラルメイクだし……。
半ば感心しつつ、部屋の一番奥、窓際にある自分のデスクに座ると、彼女は呆れたような顔をした。
「逆よ。あのまま寝てないの」
「は? もしかして帰らなかったの?」
「帰って寝たら、起きれないと思ってね。
その代わり、今日は午前で上がらせてもらいますから」
あからさまに、徹夜で機嫌良くないですよと言いたげな口調で言いながら、彼女は俺のデスクにきちんとクリップで留められた紙束を無造作に置いた。
昨夜の報告書だ。
「知ってるでしょ。私の家、あのホテル街からは遠いのよ。バタバタするより、それならもう、ここで徹夜してさっさとやること終わらせて、早く帰ってゆっくり寝たいと思ったの」
「成程。けど良いのかよ、柚希? そういうの、美容に良くないんだろ?」
「いいのいいの。会社行って帰って寝るだけの社会人の女性なんて、何処も大体こんなもんよ」
肩を竦めて柚希は投げ遣りな調子で言う。
世の中の社会人女性が本当にそんなもんなのかはよく分からないが、まあ、本人がしょうがないと割り切ってるならいいんだろう。
「了解。報告書は確かに受け取った。後は時間までのんびりデスクワークでもしてろ」
「そうさせてもらうわ」
言って柚希は、少々怠そうに自分のデスクに戻っていく。
こちらから強要した訳ではないにしても、彼女の頑張りは労わなくてはと思い、俺は部屋の隅に装備されているコーヒーメーカーで珈琲を淹れると、柚希のデスクにそっと置いた。
「あら、ありがと」
「いや……昨夜はご苦労だったな。相変わらず、見事な演技だった」
「そういうあんたこそ。相変わらず、見事な腕ね」
片手で珈琲を持ちながら、柚希はもう片方の手で、銃を撃つ仕草をした。
その時、再びオフィスのドアが開かれて、一人の男が気怠そうに入って来る。
「おはようございまーす」
「おはよう。昨夜はご苦労様」
「あー! 大和隊長、柚希さんに珈琲淹れてあげてる! 俺にもご馳走して下さいよ!」
入るなりそうごねり始めたのは、この『会社』の最年少、華月だった。
「ちゃんと報告書提出したら淹れてやるよ。これは、昨夜徹夜で頑張ったご褒美なんだから」
「え! 柚希さん徹夜っすか!? マジで!?」
「あのまま帰るよりそっちの方が楽だったからね。お陰で、報告書も一番乗りよ」
「うえぇえ……マジかぁ……っつうことは、もしかして昼で帰るんすか?」
「勿論」
「畜生~、羨ましい……!」
「羨ましかったらさっさと報告書上げろ。んで、今日は早く帰って寝ろ」
子供みたいにごねる華月をデスクへ押し戻すと、オフィス内は緩やかに、それでも確実に仕事モードに入っていった。
――ビルは古いが、一見、普通のオフィス、普通の仕事場、普通の環境。
だが、その実態は……俺が“隊長”などと呼ばれたことからも分かるように、決して、“普通”ではない。
デスクに戻り、改めて柚希に提出された報告書に目を通す。
『連続誘拐犯、蔵山達夫の捜索、及び追跡、逮捕までの手段、状況についての報告
特秘部隊「蝙蝠」第七小隊所属 狩谷柚希』
報告書の一枚目にあたる表紙には、そう、タイトルが記されている。
特秘機関「蝙蝠」
それが、このオフィスの――いや、この狭い事務所を所有する機関の、名称だった。