追憶は夕べの風と共に・4終
新たに近くに出た『毒ゴキブリ』(しかも2匹)に対する、サフィールの反応は、劇的だった。
文字通り『ビョン!』と飛び出して、ひとッ跳びで、クレドに飛び掛かって来たのだ。
重力加速度も加わっての不意打ちを食らったクレドは――まだ小柄な体格に留まる少年と言う事もあって――ひとたまりも無かった。
クレドは勢いのままに、後方に『吹っ飛ばされた』。低木の植え込みに突っ込みがてら、地面に頭と背中を打ち付けた。受け身を取り切れなかったクレドは、一瞬、気が遠くなる。
硬い石畳じゃ無くて、柔らかな緑の芝草の上だった事が幸いした。しかも、植え込みが衝撃を或る程度、緩和してくれた。バキバキに折れた低木の枝葉が衣服の間に入り込んで来て気分は最悪だったけれども、とりあえず無事。
頭と背中を打ち付けた衝撃で、クレドが朦朧としていると――別の足音が聞こえて来た。
――侍女を務めるレオ族の少女が1人。侍女頭と思しきレオ族の年配の女性が1人。
片や、茂みの中で仰向けに横たわったクレドの上に、サフィールが飛び乗っている状態。傍から見ると、微妙な誤解を受けかねない状況ではあったのだが。
植え込みが上手い具合に死角を作っていたせいで、レオ族の侍女と侍女頭は、クレドとサフィールの存在に気付かなかったのだった。
『さっき、毒ゴキブリが《魔物シールド》に穴を開けたんですよ。塞いだんですけど、30匹は入ってるんじゃ無いかと』
『確かに、チラホラ居るわね。さっき専用の魔法道具を入れるよう注文したから、手の空いてる子で良いから、駆除メンバーを集めてちょうだい。サフィールが戻る前に、この辺りに毒ゴキブリのエサを配置して数を集めておいた方が、早く済むわ』
『サフィールが通った後で良かったです。この辺の木の上には居ませんし、殺虫剤の煙を焚いて、一気にやれます』
侍女を務めるレオ族少女は、ひとしきり木の上をチェックした後、侍女頭に連れられて、その場を離れて行った。じきに、大勢のレオ族少女たちを連れて戻って来るだろう。にわか『毒ゴキブリ』駆除チームだ。
――たかが『毒ゴキブリ』30匹だけで、大騒ぎか……?
徐々に意識がハッキリして来たクレドは、そんな事を思ったのだった。
サフィールは、『30匹の毒ゴキブリが居る』と聞いたせいなのか、クレドにしがみついたまま、腰が抜けたかのように動かない。すぐに、人が集まって来るだろうに――人が集まって来たら、説明に苦しむ事態になるだろうに。
『まさか、本当に腰が抜けてるんですか?』
最悪の答えが返って来た。しかも、尻尾で。次に『毒ゴキブリ』の姿を見かけたら、大声を上げるかも知れない、と。
――それは、相当に、マズイ。
何が何だかではあるけど、最高にマズイような気がする。
そう直感したクレドは、やっとの事で身を起こし、必死の形相をしたサフィールの身体をズルズル引きずりながらも、目に付かないであろう別の場所に移動したのだった。
――何だか、良い香りがする。
クレドは思わず、そのときめくような気配の源に目をやった。
すっかり乱れてしまった『花巻』の奥――サフィールの首の左脇に――ひと筋の鮮やかな茜色が見える。
――《宝珠》。
いきなり閃いた直感に愕然としながらも、改めて眺める。他の『茜メッシュ』とは、明らかに違う色合いだ。深い驚愕と衝撃と――疑問。クレドの頭は、別の意味で混乱し始めた。
やがて、到着したのは――ルーリエ種が入っている水場だ。
ししおどしの仕掛けがある。水瓶の形をした水時計や、魔法の砂時計の代わりに違いない。魔法道具の洗浄では、或る程度、時間を正確にカウントする必要があるから。
ルーリエ種が入っている水場というのは、魔法道具の洗浄という特段の用事が出来ない限りは、他人はやって来ない。そして魔法道具の洗浄は、通常の場合は、10日に1度くらい。
『水場に出ましたが、此処で良いですか?』
(――水場?)
『えぇと、水中花は、ルーリエです』
サフィールの反応は奇妙だった。
さっきまでクレドの肩に埋めていた顔を起こした後も、かなり長い間、金狼種にしては濃い色の目を、パチパチしている。そうやって目を大きく見開いていると、むしろ可愛いと言う印象になって、年下の少女にも見える。身長は、ほぼ似通っているのだが。
いわく言いがたい驚きのような物が、サフィールの痩せぎすの全身を覆ったかのようだった。
サフィールは次に、口をパクパクさせながら、水中花とクレドを交互に眺めた。そして――急に身を返して、ハーレム館の中へと駆け込んでしまった。
――その日の会見は急に取りやめになった。あの直後、サフィールが発熱したためだ。
サフィールが寝込んだ原因は分からない。
当時のクレドとしては、ノイローゼが続いて弱っていたタイミングで、毒ゴキブリ関連のパニックを起こしたのが原因だろうと納得するしか無かったのだった。
*****
いつしか――夕陽が地平線に接近していた。ヒンヤリした夕風が、再び吹き渡る。
クレドさんの思い出話は、そこで一旦、途切れた。
――ひえぇ。わたし、しょっぱなからクレドさんに、ご迷惑お掛けしてたみたいだ。覚えてないけど。
多分――それが、アシュリー師匠やバーディー師匠の《暗示》が破れた要因だったんだろう。忘却していた本名『水のルーリエ』を、不意に思い出した理由。それが後で、7日間の行方不明につながってしまったとか、何とか……
「え、えっと……その節は、大変、ご迷惑お掛けしました……?」
申し訳ない気持ちで、ソロリとクレドさんを眺めると――
クレドさんは顔を伏せて、肩を小刻みに震わせて、忍び笑いをしていた。
笑い声は、ウルフ耳でも分からないくらいに押し殺されていたけど。片腕抱っこされてる状態だから、笑ってるって事が、シッカリ伝わって来る。
「6年前に、同じ言葉を頂きましたよ。体調が回復して、再び会見した時に。その後は、ルーリーは何か吹っ切れた事があったみたいで、表情が増えて来ていました。残念ながら、ノイローゼの改善が見られたタイミングで、訪問打ち切りの話も決まりましたが」
――そ、そうだよね。レオ帝国、その辺は容赦ないみたい。
わたしを片腕抱っこしたまま、クレドさんは踵を返して、ディーター先生の研究室へと歩を進めて行った。
気付けば、夕陽が地平線に接触している。もう夕食の刻に近い。
クレドさんは静かな声で、再び語り出した。
「高い適合率を示す《宝珠》は、ほぼ1人しか出て来ない事が知られています。存在しない事も珍しくありません。その1人を除けば、平均レベル……好意に応じて半分より少し上の所で適合するか、それ以下となります。《花の影》が左指に現れた時点で、ルーリーが何処の誰なのかは分かりました」
記憶喪失なわたしは――ポカンとしている事しか出来ない。
左指を取り巻く茜ラインに含まれている薄い水色の花蕾のようなパターンを、《花の影》と言うらしい。チェルシーさんは《火霊相》生まれだから、《花の影》の色が真紅になったんだろう。
――『この世で0人か、居ても1人だけ』って、レア過ぎる。
そりゃ、ジルベルト閣下が仰天して、『本物の《花の影》』とか何とか、あんな奇妙な事を言う筈だよ。レオ族ランディール卿の地妻クラウディアも、『簡単には《宝珠》は見つからない』ってバッサリ斬ってたし。
色々グルグルしている間にも――クレドさんの静かな言葉が続く。
「それに、今回の髪紐に付いていたメッセージカードに、ルーリエ花が挟まれていました。6年前と同じように。《魔法署名》そのものが不可能だった――という事情が分かってみれば、説明が付きます」
え。――あれ。ええぇぇえ!
――わたし、正式名と身元を証明する《魔法署名》の代わりに、自分の名前と同じ名前の――ルーリエ花を挟んでたって事?!
「答えは、とても単純で――目の前にあったのに、随分と遠回りしてしまいましたね。毛髪の色の食い違いも、年齢の逆転の件も、そうです。毛髪の色を変える《変装魔法》用の魔法道具が存在する事や、闘獣が異常なスピードで成長させられるという事は、衛兵部署では必須の知識になっていますが……失念していました」
その後、クレドさんは暫しの間、沈黙を続けていたけれど。
不意に目を強くきらめかせて、わたしを振り向いて来た。ドキッ。
「6年前、私の分の護符の刺繍のみに小細工が掛かっていたと言う事は、その頃からルーリーは、私に『特別な意味』で関心があったと、うぬぼれて良いみたいですね」
そう言って、クレドさんは、わたしの『茜メッシュ』の位置に口付けして来たのだった。ドッキリ。