髑髏消ゆ
濃淡の無い灰色の平面――コンクリートのような冷たさとも無縁な、完全に無機的な壁面。天井へと昇るにつれて、光源から遠ざかり、漆黒へと溶けていく。部屋の一隅で直交する二枚の壁は、水平方向へどこまでも広がっていき、その先は見えない/暗くもならない――ただ、灰色の面が、終わりのない絵巻のように語りの空白を述べ拡げている。
光源――男/倒れた体/灰色の肉体。スポットライトのように外から照らし出す光と、男の内側から外へと放たれる生命の光――生きている。天井に向けられた視線のまま、瞬きを三回、意識的に行う。考えない/判断しない。古いコンピューターのプログラムのように、暗いディスプレイの逆側から命令が下されるのを待つ。待ちながら、感覚の弁を開いていく。耳に届く音は、闇から闇へと流れ落ちる雨音だけ。死の香りも血の匂いも、無窮の空白に染まったかのように感じられない/失われてしまった。
肌に残留する暴力の記憶/記録――裂傷と痣と骨折。より以上の、他者の命が破壊される感覚――痺れ/震え/疼き――歓喜の反応は、肌が感じる空気の冷たさに遥かに勝る。ならば、今この漂白され尽くした感覚の荒野は何を意味するのか。
命令の記憶が床から体を引き剝がす。起こした状態の分だけ視界が広がり、より遠くの灰色が見渡せる。三百メートル先の壁に、口を空けた闇。戦闘の残滓が男の皮膚を愛撫し、接近の欲求が眼差しと皮膚のもたらした情報を処理し始める。
敵影――無し。敵意――無し。気配――無し。
空から降り注ぐ雨垂れを受ける水溜り。果て無く広がる空間に多声的な律動を響かせる。疑問――満たされる水の器は何か。
男の意志に従って光源が床へと下りていく。闇が天井からのしかかり、割れて半球を成した髑髏――夥しい数の。人の意志/思考/記憶を湛えた器を水が満たし、静謐な楽の音を響かせている。悲しむべきか否か、それが敵の頭蓋なのか味方のそれなのか、判然としなければ、男の判断は宙吊りのまま、再び光源は男の胸の位置まで浮上する。
それでも、音は変わる。闇が命の終焉を悼み、光が魂魄の揺らぎを宿すならば、男の足取りは死出の旋律を支える通奏低音となる。情報体としての肉を骨から再現できないならば、せめて男の記憶の中で、交わされた銃撃の対話を/黒鉄の触れ合いを/血と肉の軋む哀惜を、再生することだけ。
男の足取りに応じて、灰色の壁面が流れる。この部屋で行われた戦闘の痕跡を見出すことのできない、概念としての壁――視線を拒否する/存在を拒絶する。やがて現れた空隙は、男の身長を僅かに超える大きさで、あたかも蹴破られた扉のように、男を招き入れる準備が整っている。
――過去は人を襲う。同じように、人は未来に襲いかかることができる。
誰の言葉か。それでも、男はこの言葉を信じて戦い続けてきた。だから、電源の落ちたディスプレイのような暗い穴を通り抜けようと、一歩を踏み出す/暗い鏡面に足を差し入れる――にわかに引きずり込まれる体/鼓膜が直接叩かれるような低音の痛み/心臓が握りしめられたかのような苦しさ――
濃淡の無い灰色の平野――荒野のような寂しさとも無縁な、完全に無機的な空間。遮るもののない視界の中で、上から下へと降り注ぐノイズの雨――ゆっくりと、重力とは別の力によって。
そうだ。ディスプレイの向こうから命令は既に下されていたのだ。男は自身の肌の上を走る情報の雨が、縦横に行き来する様を確認し、振り返った違法プログラムのビルディングが、もはや自走性を喪失していることに満足しなくてはならないことを思い出した。
そして、最後の命令――男は右手の中に宿った光源の中心に、冷えた引き金の存在を認めた。自らが髑髏となれば、このプログラムは終わる。自然と/命令の通りに/あらかじめ織り込まれた自己分解のプログラムのままに、男は光の銃撃を自らの頭へと与えた。情報の塊が弾丸となって脳髄を撒き散らし、電脳空間に延べ広がったノイズの雨を直接視認させた。
――未来への希望は人を救う。同じように、過去は時として人を救うために己の姿を偽る。
プログラムに書き込まれた無意味な文字列――ディスプレイの向こうか、ネットワークの向こうか。半球の頭蓋となった男は、シャットダウンを待つ。
与謝蕪村の俳句「狐火や髑髏に雨のたまる夜に」をモチーフにしています。
クランチ文体的なアプローチです。