第九十六話:仕事
「なぁ、ごめんなあ。でもこれは仕事やねん、堪忍してなあ」
私の首に刃を当てながら、申し訳なさそうに言う男は真っ黒な服を着ていた。
「……青柳? それとも、花水木?」
私は冷静になろうと努めながら、ゆっくりと尋ねる。
「どっちでも同じこと、やろ?」
「……」
衣砂さんに教えて貰ったように、上手くこの危機を逃れなくては。落ち着いて、焦らずに。
「雅ちゃんは鶯雛子を見たん?」
馴々しい呼び方につい横目で睨む。相手はヘラヘラしたままだ。どうして私の名前を知っているんだろう。
「私は灯よ、教えられない」
「そう言うと思った」
男は急に力を抜いて、私の肩をポンと叩いた。
「?」
「うん、ええよ、今日のところは諦める」
余りの潔さに眉をひそめる。私が灯だということは当然知っていただろう。勿論、そう簡単に口を割る筈がないということも。だから余計に怪しい。
「……疑っとる?」
男はニヤリと笑いながら言う。私は厳しい目付きをする。
「――」
耳元で囁かれた言葉に、私は目を見開く。途端に目の前が暗くなった。
「羅水!」
千歳は小走りに廊下を走る。羅水の居場所を探しているのだ。古堤は普段屋敷に居ることはないのだが、今日は違う。定期的な報告の日なのだ。
「どうか致しましたか、千歳さま」
姿を現した羅水は極めて落ち着いていた。何を言われるか、始めから分かっているようだ。
「雅に、口を割らせようとしたっていうのは本当?」
羅水は静かに千歳を見上げた。千歳の顔は険しい。
「……はい」
「どうして? 羅水がそう命令したの?」
「はい。古堤の行動の責任は全て僕にあります」
「何で?」
千歳の声が微かに震える。羅水の表情も僅かに曇った。
「ちゃうよ、千歳ちゃん! 俺が無理言うて、羅水坊っちゃんに頼み込んだんや」
珍しい人がここに居ることに驚き、千歳は言葉を失った。
「久し振りやな、千歳ちゃん」
霧緒はニコニコと笑い掛ける。千歳は相手をジッと見つめているだけだ。羅水は何も言わずに二人の様子を伺っている。
「……霧緒、いつ戻ってたの? 父さんの指示?」
「最近な。藤馬さんの指示っちゃあ、そうやなあ」
「あの力、雅に使ったの? 喋らせたの?」
「完全には使っとらへんよ。ただ軽く、な」
千歳の目に少しずつ怒りの色が見え始めた。羅水はそれを敏感に感じて、千歳を宥める。
「千歳さま、落ち着いて下さい。春日井さまは無事です。危害は加えていません」
「そういう問題じゃない! 雅は大切な友達なの、余計なことはしないで、羅水、お願い」
縋るような目で、千歳は羅水を見た。羅水は困ったように目を細める。
「千歳ちゃん、無理言ったらあかんわ。羅水坊っちゃんは千歳ちゃんに甘いけど、俺はちゃうよ。これは仕事なんや、千歳ちゃんの我が儘でどうにかなるもんやない」
「……ごめんなさい」
ボソリと呟く。霧緒は微笑みながら、千歳の頭をワシャワシャと撫でる。
「俺も千歳ちゃん甘やかしとる一人のようやなあ」
うん、と千歳は小さく頷いた。