第九十二話:基盤
「凩!」
薬史の低い声が室内に響く。名前を呼ばれた者は直ぐに姿を現した。
「如何しました? 薬史さん」
薬史はジロリと凩を睨み付けた。しかし本人はニコニコとしている。薬史は頭を抱えた。
「最近、草人がどうも扱いづらい。どうにかならないものかな」
「草人お坊ちゃまはあれでいて、なかなか良く働いていらっしゃいますよ。それはもう」
「お前の言葉は信用ならない」
「心外ですね。草人お坊ちゃまに仕事をお伝えしてるのは某なのに」
凩は口を尖らせた。薬史はその姿を見て、更に落胆する。
「親父殿もさっさと隠居してくれれば有り難いものを。いつまでたっても僕の思い通りにならない」
「薬史さん、文句ばかりじゃ始まりませんよ」
「分かっているさ。まずは草人だ」
凩はやれやれ、といった風を装った。薬史は真剣に悩んでいる。
「草人お坊ちゃまの弱点、知っていらっしゃいますか?」
凩の口元がやらしく緩む。薬史は横目で彼を見た。返事はしない。
「草人お坊ちゃまは不安定だ。それは記憶が無いからです。某が奪ってしまった」
「だから何だと言うんだ」
「お坊ちゃまには“拠り所”が無いのですよ。あの人には絶対的な基盤が無い。だから弱い」
薬史は表情を歪ませた。凩の言うことが分からない訳ではない。しかし自身の弟がそれでは困るのだ。仮にも草人は青柳家当主の次男、そして切り札だ。
「草人お坊ちゃまは“思い出”に弱い。お坊ちゃまにとって唯一確かなものだからです」
「……」
「春日井さんの件は確かに厄介だ。しかしそれで分かったこともある」
薬史は怪訝そうな顔をする。反対に凩はニコリと笑った。
「上手く利用すればいいんですよ、薬史さん。草人お坊ちゃまに“思い出”を作って差し上げることなんて、幾らでも出来る」
「……成程」
「草人お坊ちゃまは青柳にとって大切な戦力なのでしょう? 上手く利用しない手はありませんよ」
凩の顔を見て、薬史は溜め息をついた。家来の変わらぬ表情は見慣れているとはいえ、決して心を許せるものでもない。自分はこいつに易々と手の上に乗せられてはならないのだ、と薬史は思う。