第八十六話:甘
「ねえ、羅水。これで良かった、んだよね」
千歳さまはベッドに顔を埋めながら、僕にそう尋ねた。微かに肩が震えている。
「わ、たしはこれで良かったと思う。だって椿は瑶子さんと両思いなんだもん、そんな二人を分かってて放っておくことなんて出来ない。二人はお似合いだし、やっと椿の恋が叶う訳だから、我が儘は言えない。言っちゃ駄目。寂しいなんて、嘘。嬉しいんだ、椿が本当に幸せになってくれる。私が生きてる内に。それでいい、それがいい。だから」
僕は何も言わない。何も言えないのだ。口から出る言葉全てが千歳さまを傷付けるような気がする。感情を隠し切れない程、彼女は追い詰められているのだ。
「……ごめん、羅水。らしくないことしてる」
千歳さまは赤くなった目を擦りながら、身体をゆっくり起こした。バツの悪そうな顔をしている。
「そんなこと、ありませんよ」
「羅水にも松波にも甘えてばっかりね、私は」
「椿にも甘えてしまえば良いのに」
「何故か無理なのよね。どうしてなんだろう」
困ったように笑う千歳さまを見て、妙に納得してしまう。千歳さまは椿に恋をしているのだ、若しくはしていた。今、彼女の心境がどちらなのか区別は付かないが、確かなことだろう。
「……明日からは元気になるから。急ぎじゃなかったら、報告は明日でもいい?」
「はい、大丈夫です」
「うん、ありがとう」
千歳さまがそう言うと、僕は部屋から姿を消した。彼女の部屋の灯が消されるのに時間は掛からなかった。
「おい」
呼び出されて不機嫌な顔をした椿が羅水を睨んだ。羅水も睨み返す。
「お前、どういうつもりなんだよ」
「はあ?」
「千歳さまのことだ。いきなり手放すなんて、勝手過ぎるぞ」
椿はハァ、と溜め息をついた。うんざりしたような様子だ。羅水は表情を歪める。
「俺がそう簡単にアイツを見放すと思うか?仕方ねぇんだよ、一度引いてみるしか」
「……千歳さま、お前に恋してるよ」
いきなりの発言に、椿は目を見開く。羅水は極めて無表情だ。
「知ってる。というか、勘付いてた」
「どうするんだ」
「どうしようもないだろ?俺は好きな人がいる、それを千歳も知っている。下手にアイツに優しくしたって、余計傷付けるだけな気がするんだよ」
ポリ、と椿は俯き加減に頭を掻いた。余りにも淡々と話す姿が印象的だった。羅水はジッと椿を見る。
「じゃあ、お前は千歳さまに何をするつもりなんだ」
椿は何ともいえない顔をして、呟いた。
「俺が千歳にしてやれるのは、許婚として側に居てやることだけだよ」
椿の低い声は、静かに闇に溶けた。