第八十二話:忘却
椿はもう忘れてしまったかもしれない。昔、ずっと昔に私は椿と約束した。と言っても、私がかなり一方的にした約束だ。私も椿も守れる約束ではなかった。
「つ、ばきく、ん」
腹部から血を流しながら、椿に手を伸ばした。私は椿にその手を掴んで欲しかった。私を受け止めて欲しかった。ああ、分かってたのに。昔からそうだったじゃないか。私を怖がらない人なんて居なかったのに。
「……ッ!」
椿は私に背を向けて、走り去った。私は伸ばした手を引っ込めて、いつものように呪いの言葉を吐いた。傷だけは直ぐに回復する。
「遊良君、どうしてこんなことするの?」
「君が思い上がっていたからじゃないか」
「……そうだね」
遊良はわざわざ椿の目の前で私を刺した。椿と二人で遊んでいた時に、だ。初めて会った日に、だ。嫌われた、そう思った。直ぐに約束は忘れることにした。忘れた振りをするのは昔から得意だ。
「怖くない、って言ってくれたのに……」
「さっきの椿の顔には恐怖しか浮かんでなかったが」
「ずっと一緒だって……」
「君が先に死ぬに決まっているだろう。それが忌児だ」
「……また独り?」
「君はいつから独りじゃなくなったんだ」
「そっか」
遊良が居なくなってから、少し泣いたのを覚えてる。一瞬でも舞い上がった自分が恥かしくて、情けなくて、やっぱり独りは寂しくて、泣いた。昔から独りじゃないと泣けなかった。気が済むまで泣いていたら、きっと何日あっても足りないだろうと思ったから、ある程度の所で諦める。そうだ、いつも私は諦めるのだ。
椿に謝りたい。あの後、彼は気まずそうな顔をして私に謝りに来た。ごめん、と小さな声で呟いた。声が少し震えていたような気がした。椿が謝ることなんて、何一つ無かったよ。謝らなきゃいけなかったのは私の方。椿に重い枷をはめてしまったのだから。ごめんね。けれど彼は言ったのだ。
「約束は必ず守る」
と。椿がどんな気持ちでそう言ったのか知らないけれど、私はまた泣きそうになった。私はその言葉に甘えたかった、甘えてしまった。ごめんね。ごめんね。