第八十話:基準
鶯朱雀は自室から外を眺めていた。刺された傷は徐々に治り始めていたが、それでもやはり自由に動けるまでに回復はしていない。
「朱雀さま」
カラリと戸を開けたのは雅だった。お茶と和菓子を持って来たのだ。
「いいって何度も言ってるじゃねェか。お前も大変なんだろ?」
「いえ、これも私の仕事なんです。やらせて下さい」
ニコリと強い目で笑う雅を見て、朱雀は困ったといったように、ハァと溜め息をついた。
「鶯雛子の調べの方はどうなってる?」
「相変わらずです」
「そうか」
朱雀は枕の隣に置いてあった煙草の箱を手にして、その中から一本取り出した。それを雅が制する。
「……何だよ」
「怪我人でしょう? 自重して下さい」
「衣砂にそっくりになって来やがったな」
「私にとって褒め言葉ですよ」
朱雀は取り上げられた煙草を恨めしそうに見た。そして急に思い出したかのように雅に尋ねた。
「花水木千歳と会ったらしいな。どうだった?」
「千歳、ですか? はい、少し元気がなさそうでした。でもお互い様なんですけどね」
「そうか」
朱雀は少し懐かしそうに笑った。その表情を見て、雅は不思議そうな顔をした。
「千歳とお知り合いなんですか?」
「まあちょっと、な。向こうは覚えてないだろうが」
「?」
雅は千歳からそんな話を聞いたことは無かった。それによく知っているのなら、この前会った時にもっと焦っているだろう。千歳はどうやら朱雀のことを忘れているようだった。
「雅、お前はアイツを信じてやれよ。アイツは孤独だ」
「……どういう意味ですか?私はまだ千歳について、何も知らされていないんです」
「それでいい。花水木千歳の味方で居てやってくれれば、それで充分なんだ」
「鶯家に害を与えない限り、絶対に味方です」
雅のこの発言を聞き、朱雀は苦笑した。彼女は灯という性質に染まってしまって来ているのだ。古堤だって勿論そうだが、灯も本家を護る為なら幾らでも冷酷になれる。朱雀はこの傾向をあまり好ましく思っていなかった。
「……そんな言い方すんなよ、雅。お前は灯である前に千歳の親友だっただろ?」
「私、甘い考えは捨てることにしたんです。そうしないと朱雀さまを護れない」
「いいか、よく覚えとけ。俺は自分の身は自分で守る主義だ。今回の件も、お前のせいじゃない。俺が油断したのが悪かった」
朱雀はジッと雅の目を見る。雅はその目に吸い込まれて、身動きが出来ない。ただ同じように朱雀の目を見ている。
「お前は変わるな。例えこの世界に身を置いたとしても、変わっちゃならねェ」
「……どうしてですか?」
「俺が、悲しい。俺はもう取り返しがつかないんだ。勿論、花水木千歳も。だからいつもお前を基準にしようとする。自分がどれだけ異常かを計る物差しなんだ」
「……変わらない方が難しいんですよ?」
雅は弱々しく呟いた。朱雀を見る目は同意を求めている。
「自分が正しいとは思えなくなるんです。それでも強くなれば強くなる程、自信が持てる」
「お前がそう決めたなら、お前の好きなようにすればいい。俺の言う通りにして、後で後悔するよりマシだろ」
「朱雀さま」
朱雀は返事をすることなく、横になった。身体は雅と反対方向に向けている。雅は再び話し掛けようとしたが、思い止まり、静かに部屋を出て行った。