第六十五話:恐怖
久し振りに彼に会った。私の動きはピタリと止まる。人通りの多い廊下で固まる私に向かって、彼は言った。
「松波といい君といい、ここの人間は人の邪魔をするのが得意のようだな」
「……」
返答することが出来ない。彼はシッシッと手をぶらつかせる。私はただ大人しくそれに従い、脇に逸れた。
「い、いきなりどうしたの?」
声が僅かに震える。それに気が付いたのか、ジッと見られた。
「相変わらずだな、千歳」
「……」
「俺は叔母様に頼まれて嫌々来たんだ。わざわざ君の世話をしに、ね」
「私の、世話?」
「ああ。昔みたいにな」
私の頭はフリーズする。幼い頃の記憶が次々と蘇った。私は確かに小学生高学年の時、遊良と過ごしたのだ。忘れることの出来ない記憶だ。
「今日は話を聞きに来ただけだ。また後日。ああ、それと」
遊良は私の耳元でそっと呟いた。
「――」
私はその言葉に絶句した。しかしそれを態度に出すのは抑えた。出してはいけない。特にこの男の前では。遊良はニヤリと笑うとスルリと私の隣を抜け、廊下から姿を消した。私はその場からなかなか動くことが出来ず、立ち尽くしたままだった。
「千歳?」
ボーッとしていた私の背後から声がした。兄さんだ。振り返ると心配そうな顔をした兄が居た。
「あ、え、どうかした?」
「大丈夫かい?」
「うん、全然大丈夫よ?」
心臓がバクバクと脈打つ。こういう時の兄は鋭いのだ。普段の穏やかな感じから掛け離れてた洞察力を発揮する。
「何かあったんだね」
「ううん、別に」
「また母さんに何か言われたのかい?」
「……違う」
「じゃあ何が……」
兄の言葉がプツリと切れる。ただ一点を見つめていた。その先には帰宅する遊良の姿があった。こちらを向いて、意味あり気に笑う。私達の間に沈黙が生まれた。
「遊良か」
小さく呟く。私は返事をしなかった。小さく呟く。私は返事をしなかった。というよりも出来なかったのだ。今また声を出しても震えてしまうだけだ。遊良を未だに恐れていることを悟られたくなかった。
「母さんはどこまでする気なんだ……」
兄の呟きもハッキリと私の頭の中には入って来なかった。ただぼんやりとしている。
遊良は昔、私によく言っていた。
「いい加減に気付いてもいい頃だ。君は花水木家の道具に過ぎないんだ、これは揺るぎない事実だよ」
遊良は少しずつ、少しずつ私に毒を吐いた。心に痛い言葉を刻み込んだ。
私は遊良が怖い。