第六十四話:仁科
最近、奥方に不審な動きがある。いや、不審というと語弊があるかもしれない。というのは、実際に本人が動いている訳ではないのだ。ただ、奥方の周りが騒がしい。出て来ては話がややこしくなる、そんな人物を奥方の側で見掛けてしまった。
松波は久し振りに山に籠っての修行から帰って来た。早月家があるにも関わらず、やはり花水木家に帰宅したのだ。姿勢を正してから門をくぐると、背後から声がした。
「またこっちに帰って来たのか」
厭味のように響く声を耳にし、松波は振り返った。するとそこには一人の青年が居た。年は辰爾と同じ位だろうか。
「……遊良」
「君に呼び捨てにされるなんて屈辱だな」
「そんなこと無いさ。早月も仁科も同じ分家じゃないか」
遊良と呼ばれた青年ははぁ、と大きく溜め息をついた。そして少し睨むようにして言う。
「仁科と早月じゃ、花水木の信用が違うじゃないか。裏切り者の早月と同じにしないでくれ」
松波の表情が僅かに揺れる。しかしそれは一瞬で、直ぐに普段の穏やかな表情に戻った。
「相変わらずお前は毒舌だなあ」
「俺は君と世間話をしに来た訳じゃない。さっさと通してくれないか。先程から君の大きな身体が道を塞いでしまっているのでね」
弱った顔をしながら、松波は脇に逸れる。遊良は遠慮無しに松波の前を歩き始めた。松波はゆっくりとその後を追う。玄関までの道程は長いのだ。
「遊良。じゃあお前は何をしに来たんだ?」
「君に教える義理はない」
「いいじゃないか、減るもんじゃなしに」
やれやれ、と遊良は肩をすくめた。そして首を回して顔だけ松波を見る。
「葉月叔母様に呼ばれた。親父はどうも妹に頭が上がらなくてね、困ったものだ」
ああ、と松波は納得した。昔からいざという時、葉月は実家である仁科家に頼って来た。今回も同様なのだろう。
「奥方は何故お前を呼んだのだろう?」
「さあね。大体見当は付いているが」
「どんな?」
松波が誘導するように問うので、遊良は嫌な顔をした。視線を前に戻し、歩き始めた。
「千歳のことだろう」
「千歳殿の……」
「分かり切ったことじゃないか。叔母様の邪魔は忌児くらいだ」
後に付いていた松波は立ち止まった。遊良はそれを少し気にして、同じように立ち止まった。
「いい加減に割り切れよ。忌児の呪いなど、解けるはずがない」
「……まだ分からないぞ」
「馬鹿が。いつまでも夢を見てるがいいさ」
そう吐き捨てると、遊良はさっさと屋敷の中へ入って行ってしまった。松波はそれを追うこともせずに、ゆっくりと屋敷へ向かった。
世界中の人が「無理」だと言おうが、わしは忌児の呪いが解けることを祈り続けるだろう。忌児の力はこの世に在ってはならない力なのだ。これ以上、悲しみを増やしてはいけない。