第六十一話:松波
松波は幼い子に諭すように話す。私はそれを心地よく思う。別に変な趣味ではない。私を“子供”として扱ってくれるのは松波くらいだからだ。早く“大人”になりたいと思うけれど、“子供”でいられたらどんなに楽だろう、最近はそんなことばかり考えている。
松波は一人で修行に出てしまうことが多い。使用人に告げて、フラリと姿を消してしまう。気が付いたら、松波は家に居ない。今日も学校から帰ると、家には既に居なかった。何を思ったのか、私の足は自然と松波のよく行く山に向かっていた。しばらく歩くと、滝のある場所に着いた。松波は目をつぶって静かに滝に打たれていた。
「松波」
急に甘えたくなって、声を掛けた。聞き取れるか分からないくらいの、小さな声で。
「どうした?千歳殿」
「ううん、何でもないの」
こちらを見る松波の目が優しく緩む。松波はとても寛容だ。私の我儘をいつも聞いてくれる。
「最近ね、よく考えるの。私、そろそろ椿を解放してあげなきゃいけない、って」
「……それはまた急な話だな」
ザプンと松波は水の中から上がった。濡れた着物を絞りながら、千歳の近くに歩み寄って来た。
「風邪引くよ」
「心配無用だよ、わしは鍛えてあるからな」
「へえ」
私は話を逸らそうと思った。松波を困らしてしまうことは目に見えている。しかしそれを松波は許さなかった。
「さて、どうして千歳殿は椿を手放そうとするのかな?」
「……自分から話しといて難なんだけど、言わなきゃ駄目?」
「覚悟を決めなさい、千歳殿」
「うっ……」
私は口をつぐみ、少し考える。いざ言葉にしようと思うと直ぐには思い付かない。松波は口を出さずに待っている。
「……椿には好きな人がいるの」
「実は知っている」
「やっぱり」
椿は松波に相談したのだろう。椿も椿で同じように悩んでいるのだ。それは私にも分かっている。
「昔から決めてるの。椿にとって一番大切なものが出来たら、私は椿を解放してあげようって」
「……」
「あ、勿論、松波も羅水もよ。安心して」
「……」
「椿にとって一番大切なのは“生徒会”。生徒会長の隣なのよ。だから、もう、お終い」
「何を?」
「おままごと、よ。名ばかりの許婚なんて必要無いわ。解消するの」
私は松波の顔を見ることが出来ない。多分、悲しそうな、厳しい顔をしてる。そんな顔を見たら、私は泣いてしまうかもしれない。
「いつかそうなるのよ。だったら、それが今でも大差無いわ」
「千歳殿」
「椿には第二の人生がある。忌児の犠牲者じゃない、明るい未来があるのよ」
「……もうよした方がいい」
「ッ私が死ぬのを待たなくても、いいのよ! 悲しみを背負う必要なんて無い」
ああ、とうとう言ってしまった。ずっと、ずっと口に出すのを阻んで来た言葉。“死ぬ”なんて。言ってしまったら、現実になるみたいで嫌だった。実際はそうなのだけど。
「どうして、どうして解放してあげられないの!もうとっくの昔に諦めた筈なのにッ……」
酷い顔をしているだろう。松波に見せたくなくて俯く。するとポンと頭に手が置かれた。ポンポンとゆっくり叩く。
「松波」
「千歳殿はまだまだ餓鬼ですなあ」
「うん」
「そんなに気を遣わなくていいと思いますぞ。椿だって、本当に嫌だったら千歳殿の側から居なくなってる。アイツの性格を、千歳殿が一番知っていると思っているのですがね?」
松波は私の目を真っ直ぐ見ながら、ニヤリと意地悪に笑う。私は思わずムッとした顔になってしまった。
「そうだけど、でも……」
「千歳殿、貴女にも第二の人生があるんですぞ」
「はぁ?」
「“忌児”じゃない、花水木千歳の新しい人生が」
「有り得ないわね」
「どうしてそう言い切れる? もしかしたら、呪いは解かれるかもしれない」
「……無理よ」
「無理だと思っていたら一生無理になってしまう。希望は大切ですぞ」
松波はニコリと微笑んだ。ホッとする、優しい笑顔。小さい頃からずっと大好きな表情だ。私は苦笑いをする。
「さあ、帰りますか。もうすぐ夜になる」
「……うん」
小さく頷いてから、黙って先を歩く松波について行った。汚い感情は山に残して行けたら、と願いながら。