第五十二話:夫婦
辰爾、千歳の母親である葉月は花水木家の屋敷の離れに向かっていた。そこには大きいとは言えないが、或る程度の広さを持った部屋が在る。葉月は戸の前に座り、声を掛けた。
「……失礼します」
ガラリと戸を開けると、そこには四十代後半くらいの、着物を身につけた男性が筆を持って文書をしたためていた。葉月の入室に気が付き、少し頭を上げる。
「どうかしましたか」
落ち着いた声だった。彼の名は花水木藤馬、花水木家の現当主だ。
「貴方にご相談があって参りました」
葉月の方も普段より畏まった様子だ。頭は常にやや低い。
「相談?」
「ええ。辰爾さまのことですわ」
「鶯家の生き残りと接触することについてかい?」
「知っていらしたのね」
葉月は苦々しく言った。藤馬は花水木家に“隔離”されている。外の情報は一切与えられないはずなのだ。
「散歩をしていたらね、聞こえてきたんだよ」
「貴方に辰爾さまを諭して頂きたいの。あの方は鶯に手を出さないつもりですの」
「何故だい? 僕もいつか鶯と和解しなければならないと思っているよ。手を出してしまっては、それが難しくなる」
藤馬は不思議そうに小首を傾げた。葉月は聞こえないように溜め息をつく。
「青柳は鶯を取り込むつもりなのですよ? その前に鶯を潰してしまう方が賢いですわ」
「潰すなんて、そんな。我々は共生すべきなんだ」
「貴方の理想論は聞き飽きました。私は代々、花水木家の為に生きてきた仁科家の者。花水木家にとって最善の道はいつも理解しているつもりです」
藤馬は開きかけた口をグッとつむんだ。葉月は厳しい目で自分の旦那を睨んでいる。
「辰爾さまは貴方の言い付けなら守るかもしれません。お願いします」
「……考えておこう」
「近々、辰爾さまをこちらに呼んでおきますわ」
ああ、と頷いて、藤馬はそのまま外を見た。葉月と顔を合わせていたくなかったのだ。二人の仲は昔から余り良くなかった。
「葉月」
「何ですか?」
「……あの子は元気にしているかい?」
葉月は急に黙った。そして藤馬の方を見た。
「誰のことかしら」
「……千歳のことだ」
「どうして忌児のことなんか心配するんです? 貴方はあの子を恨んでいるんでしょう」
「そう、だな」
藤馬の言葉が濁る。葉月はそれを気にしないで続けた。
「私も早急に手を打とうと思っているんですの。あの子は厄介事を持ち込み過ぎるわ」
「それが忌児というものなんだろう?」
「あの子を庇うのは止めて下さい。あの子のせいで貴方もこんなことに……」
葉月の口調が次第にヒステリックを帯びてきた。藤馬は妻を宥める為に近くに寄る。すると葉月は藤馬の腕に縋った。
「女一人で家を仕切って行くのが辛いのです」
「……葉月」
「私は貴方が一日でも早く戻って来れるようにと、いつも願っているのですよ」
「葉月、苦労を掛けて済まない」
藤馬はそっと葉月の髪を撫でる。束の間の静寂が訪れた。そして葉月がスッと離れる。
「貴方、辰爾さまのこと、宜しく頼みますね」
小さくお辞儀をすると葉月は部屋を出た。藤馬は軽く頷いただけだった。葉月は部屋を出た後、全てが滑稽だというように笑っていた。