第二話:辰爾
六月の夜に窓を開けると、シトシトと心地良い音がする。千歳はその音に耳を傾けながらウトウトしていた。暫らくすると扉を叩く音がし、お手伝いさんが部屋の中に入って来た。
「千歳さま、奥様がお呼びですよ」
「ありがとう」
開きっ放しの参考書を閉じて、千歳は席をたった。母親専用の大きな部屋には母親が座っていた。母親の部屋はふんわりと花の薫りがした。
「千歳さん、座りなさい」
千歳は言われるままに、母親と向かい合う様に座った。その行動はぎこちない。
「辰爾さまの事でお話があります。心して聞きなさい」
「はい」
母親は辰爾を“辰爾さま”と呼ぶ。いや、母親だけじゃない。花水木家の女はみんな、辰爾をそう呼び、敬うのだ。
「最近、辰爾さまのお命を狙う不届き者は見当たらないようね」
母親は確かめる様に訊いて来る。千歳はただ、はい、と呟くのみだ。
「古堤から聞きましたよ。陰でよからぬ動きがある、と」
「……よからぬ動き、ですか?」
「はい。青柳が花水木を潰そうと企てているらしいのです。そうなると勿論、辰爾さまの身が危うくなりますわ」
母親の声は雨の音に似ている。心地良くて、眠たくなる様な優しい声。しかしその声は余りにも容赦ない言葉を紡ぎ出す。
「貴女の命を懸けて、辰爾さまをお護りしなさい」
こんな日はただボーッと過ごすのに限る。何にも考えないで、自分の世界に引き籠もる。ベッドの上で寝転がっていると、窓にコンコンと石が当てられた。始めの内は無視を続けたが、余りにもしつこいので渋々窓を開けた。
「千歳さま、酷いです」
中に入って来たのは、全身真っ黒な男性。まだ少年の面影が残っているその顔には、不満の色が広がっている。雨の中、ずっと外で待たされたからだ。もうすぐ夏になるけれど、思ったより気温は低い。
「報告は先ず私に、って言ったでしょ?」
「すみません。奥様に問いただされたもので」
彼の名は古堤羅水。花水木家の忍の様なモノだ。彼等は総称して『古堤』と呼ばれる。
「……それは責められないわね」
私が困った様に言うと、羅水も苦笑いをした。そして思い出したかの様に報告を始めた。
「しかし青柳もしぶといですね。何度も壊滅寸前にまで攻められているのに」
羅水が感心しながら言う。千歳も頷く。
「闘う度に力を増しているわ。危険なのよ、青柳は」
「千歳さま、青柳の長は禁忌の法に手を出しています」
ふぅ、と溜め息をついた。羅水はそれを不思議そうに見た。
「それは私達も同じ、でしょ?」
羅水は小さく私の名を呟いた。私もそう、何十代も前から続く「呪い」を身に受けて生きている。それは禁忌の力に値する。
「他の二人にはもう伝えた?」
「まさか。僕達はそんなに仲良しじゃありませんよ」
羅水は黒い笑顔を見せる。彼は花水木家専属の忍、仕方のない事かもしれない。
「じゃあ伝えて。近々また仕事が入るかもしれない、と。引き続き、潜入を頼むわ」
私の声もいつからこんなに非情になってしまったのか。