第百二十五話:苦笑
馨が花水木家の屋敷に来て千歳を探していると、偶然辰爾とすれ違った。馨は会釈するでもなく、あ、と小さく声を出した。
「おや、馨君じゃないか。いらっしゃい」
辰爾は優しく笑った。その顔は何処か千歳の笑った顔に似ていて、馨は心が和まずにはいられなかった。そして馨もつられてニコリと笑った。
「こんにちは! 千歳ちゃん居ますか?」
「そういえば見掛けないな。また道場に居るんじゃないかな?」
「道場? 偉いなぁ、千歳ちゃんは」
馨の言葉に辰爾が苦笑した。馨はそれを見て不思議そうな顔をしたが、直ぐにもとの笑顔に戻った。
「そうだ! 辰爾さん、チョコレートクッキー食べる?」
そう言いながら馨はゴソゴソと紙袋を漁る。可愛らしいピンクの紙袋を見て、母親に持たされたんだなと辰爾は思った。馨は丁寧にラッピングされたクッキーを差し出して言った。
「美味しそうでしょ? お母さんと一緒に作ったんだ。千歳ちゃんに喜んで欲しかったから」
「……そうか。千歳も喜ぶと思うよ」
「うん! 今度、辰爾さんにも何か作って来るね」
そう楽しそうに言う馨を見て、辰爾は悲しそうに笑った。何故この子なんだろう、そういうやり切れない気持ちが辰爾の中に広がったのだ。
やってしまった、そう後悔しながら千歳は庭先で頭を抱えていた。羅水にキツく言うつもりはなかったのだ。しかし、どうしても我慢出来なかった。
「……私って、ほんと、馬鹿」
ハァと大きな溜め息を吐く。強くなると決めていたのに他人に八つ当たりみたいなことをしてしまうとは、と千歳の後悔は止まない。そんな時、千歳の背後から明るい声がした。
「千歳ちゃん! やっと見付けた!」
千歳がゆっくり振り返ると、ニコニコとした馨が居た。千歳はそれを見て、溜め息が出そうになったのを必死に食い止めた。
「……馨君、来てたんだ」
「うん、千歳ちゃんに会いたくて」
千歳は嬉しそうに笑う馨を何処か無神経だと感じた。それは自分が苛ついているからだということは良く分かっていた。
「チョコレートクッキー作って来たんだ」
そう言って、馨はクッキーの袋を差し出した。千歳はそれを受け取って、しかしそれを食べようとはしなかった。
「千歳ちゃん、元気ないね。大丈夫?」
「……」
「オレに何か出来ることあったら言って。千歳ちゃんのためなら何でも出来るから」
「……一人にして」
「え?」
千歳の声があまりにも小さかったため、馨は聞き取ることが出来ずに首を傾げた。すると千歳は強い調子で言った。
「私の都合も考えて!」
そう言った瞬間、千歳は再び大きな後悔に襲われた。またやってしまった。
「ご、ごめんね。オレ、悪気があった訳じゃなくて、ほんと」
馨は動揺を隠し切れないまま、そう言って、千歳の眼を見ることは出来なかった。ただキョロキョロと視点が定まらない。
「……何かあったら、力になるから。だから一人で抱え込まないでね」
そう言うと、馨は早足で去って行った。千歳は追い掛けることをせず、ただ突っ立っていた。