第百二十話:月丸
鶯家の屋敷に入ると、直ぐに畳の敷いてある綺麗な部屋に通された。中に入ると、優しい顔で笑う男が座っていた。うぐいす色の着物を着て、年老いて灰色になった長い髪を低い位置で一つにまとめている。
「いらっしゃい。その子が正雄君と夕美さんのお嬢さんか。大きくなったね、こっちへおいで」
雅は少しの間戸惑ったものの、父親である正雄に背を押され、ゆっくりと男の側に寄った。男は雅の手を取って、一層優しい顔で笑った。笑った時に目尻に出来る皺のせいだと、雅は気付いた。
「はじめまして。確か雅ちゃん、だったかな?」
「はい」
雅はコクンと頷いた。
「私は鶯鵠志というんだ。昔から君のお父さんやお母さんにお世話になってるんだよ」
「お世話になってるのはこっちの方ですよ、鵠志さん」
正雄は焦りながら言った。雅の母親である夕美も、正雄の隣で首を縦に振っている。二人の慌てた様子を見て、鵠志は面白そうにしていた。
「そうだ、雅ちゃんに私の子供達を紹介しよう。こちらへいらっしゃい、案内するよ」
鵠志はゆっくり立ち上がって、雅の手を取った。雅は一度両親の顔を見たが、正雄が笑って頷いたのを見て、大人しく後についていった。
「雅ちゃん、息子の朱雀だ。本当は娘もいるのだけど、生憎出掛けているようだ」
雅が案内されたのは子供が遊ぶのには充分過ぎる程の広さを持つ日本庭園だった。所々に穴が空いていて、少し荒れているものの立派なものである。朱雀だと紹介された少年は薄い紺の甚平を着て、雅をキツい目付きで見た。父親と違って髪は長くない。
「だれ?」
声変わりしていないのにも関わらず凄味のある声に、雅は思わずビクリとした。その様子に気付いた鵠志は苦笑し、息子の頭をクシャリと撫ぜた。
「こら、雅ちゃんはお前の敵ではないんだよ。仲良くしなさい」
「……分かった」
そうは言いつつも、依然として朱雀の目付きは厳しいままだった。雅は不安げに鵠志を見上げたが、鵠志が名前を呼ばれているのに気付き、パッと手を離した。
「もう大丈夫です。ありがとう」
「後で美味しいお菓子を持って来させよう。朱雀、雅ちゃんを頼んだよ」
朱雀が一度頷くと、鵠志は満足そうな顔をして部屋へ戻って行った。雅は鵠志を見送った後、怖々と朱雀の方に近寄った。
「春日井みやびって言うの。よろしく」
朱雀からの返事はなかった。雅はどうしようかと悩んだものの、特にすることがないので庭園をフラフラと歩き回った。庭園には小さな川や丸い池があって、そこには大きな鯉がいた。雅が今まで見たこともない位、綺麗な鯉だった。暫くの間、黙ってその鯉に見とれていると、朱雀が近寄って来るのに気付いた。
「親父が一番気に入ってる鯉なんだ。月丸っていうんだ」
「名前のある鯉なんて初めて見る! 学校にいる鯉は、名前なんてないし、もっと小さいもん」
「月丸はすごい鯉だから名前がついてるんだ。錦鯉って言うんだぜ」
「にしきごい? よく分かんないけど強そうだね。お相撲さんみたい」
雅は朱雀の目付きが少し優しくなったことに気付いて、嬉しくなった。二人は月丸をきっかけに庭園を回ることになり、雅は朱雀からたくさんのことを教えて貰った。二人が庭園の半分を回り終えた頃、辺りがざわつき始めたのに朱雀が気付いた。
「悪い、ちょっと外を見て来る。お前はここに居ればいいから」
朱雀はそう言うと、屋敷の中に戻って行った。一人残された雅はすることがなく、池の辺りにしゃがんで月丸を見ていた。
「こんにちは」
後ろから声がして雅が振り返ると、そこには一人の男の子が居た。