第百十七話:接触
千歳が幼い頃から俺に黙って一人で何処かに行っているのを知っていた。ここ最近、再び足を運び始めたのも知っている。以前に一度、こっそりと千歳の後をつけたことがある。雑木林の中に在る寂れたコンクリートの建物。何故か急に行ってみたくなって、俺はただ無意識にそこへ向かっている。
曖昧な記憶だったのにちゃんと辿り着けるとは、我ながら記憶力の良さに感心する。相変わらず寂れていて、ここだけ別世界のようだ。千歳が頻繁に通っていた理由が分かる気がする。静かで、とても落ち着く。俺は辺りをキョロキョロ見渡しながら、慎重に足を進めた。いくら人が居ない場所だとしても、危険は常に身の回りにあるからだ。暫くすると広い部屋が見えた。ドアは取り付けられておらず、中がよく見える。すると人影が見えた。俺は僅かに身構えた。
「……おやおや、これはこれは珍しいお客様が来なすった。生憎こんな場所だ、お茶もお出し出来ませんがいいですかね?」
ゆっくり中に入ると、そこには鶯家当主、鶯朱雀が居た。ニヤニヤと口元を緩めている。
「……まさか」
「何だ?」
「……まさかお前がこんな所にいるとは思わなかった……」
ここは千歳の避難場所だ。ずっと、彼女が一人で泣くための場所だと思っていた。だから他の人間が居るとは、しかもそれがこちら側の人間だとは夢にも思わなかった。しかしこれで辻褄の合うこともある。この前の鶯家来訪が二人の初対面ではなかったのだ。
「ここは俺が一番初めに見付けたんだぜ? 俺のモンだ、だから堂々とここに居る」
鶯朱雀は相変わらず態度がデカい。しかもダラリと紺の着流しを着ている姿は、以前と変わりない。
「そういえば、お前、名は?」
「……神林椿」
「神林ってことは、ああ、お前が千歳の許婚か」
“千歳”という呼び方に、思わず反応してしまう。二人がそこまで親密な関係だとは知らなかった。それにしても、花水木家の事情を良く知っている。最新ではないけれど。
「……もう違う」
「へえ、この前、千歳は元気がなかったからな、そういうこったろうと思ってはいたが」
「……」
「その様子じゃあ、さては許婚を解消したこと、気にしてんのか?」
図星である俺は鶯朱雀を思わず睨み付けてしまった。それを見て、鶯朱雀はふと笑みを零した。
「案外ナイーヴなんだな、気にすんなよ。ありゃあ、ただの失恋だろ? 誰にでも経験のあることだ。忌児だから、とかそんなのは関係ねェよ」
「……失恋? 何でお前がそんなことまで……」
「昔からあのガキは椿、椿って五月蠅かったんだ。ああ、勘違いすんな、お前を苦しめようとしてる訳じゃねェんだから」
「……」
鶯朱雀に人がついて来る理由が何となく分かる気がした。コイツにはカリスマ性がある。反発心を持ちながらも、何処か惹かれる、不思議な魅力がある。
「あんまり気を遣ってやるな。ただでさえ甘ったれなんだからよ」
「千歳のこと、良く分かってるんだな」
「分からねェさ、全然。お前に比べりゃな。ただ分かることもある」
「?」
鶯朱雀は俺の表情を見て、微かに笑った。
「お前達は互いのことを大切にしすぎだ。たまには我儘の一つでも言ってみな」
そう言うと、鶯朱雀はノロノロと座っていたコンクリートの塊から腰を上げ、襟足まで伸びた長めの髪を掻き上げた。
「ここは中立地帯だそうだ。あんまり人が増えると困るが、まぁまた好きな時に来ていいぜ。ここは落ち着くからな」
ヒラヒラと高く挙げた手を振りながら、鶯朱雀は部屋を出て行った。
「……ありがとう」
姿が見えなくなってから、俺は小さく呟いた。そして鶯朱雀の言葉を思い出す。
「我儘、か」
俺は千歳に我儘を言ってばかりだ。そう思っている。