第百九話:立聞
思い出せない、ということは、俺にとってはなかったということと同じで、俺は過去を持たない人間だということだ。本人は知らないのに他人は良く知っている“青柳草人の半生”。気色悪くて敵わない。
「凩」
暗い自室の戸を開き、世話係の名を呼ぶ。彼は大抵自分の側に控えていて、呼ばれれば直ぐに姿を現した。しかし今日は幾ら呼んでも出てこない。俺は仕方無く部屋から出て、ゆっくりと屋敷内を回った。すると兄の部屋の前で、二つの声を聞いた。
「……そうと……を……」
良く聞こえないが、自分の話をしているのだということは分かった。耳を澄ますが、なかなか聞き取れなかった。
「草人お坊ちゃま」
ガラリと開けられた戸にビクリと肩を震わせる。凩はニコニコと微笑んでいる。そして中に入るよう、促された。
「また立ち聞きかい? 居るなら居ると言えばいいのに」
部屋の中には兄の薬史と凩しかいなかった。よく見掛ける光景だ。
「邪魔しちゃ悪いと思ったんだ」
「滅相もない。丁度良い時に来ましたよ」
凩の言葉はいつもうさん臭い、と俺は思っている。それは本人がわざとそうしているのだと、最近俺にも分かったら何も言わない。
「君に新しい武器を与えようと思ってね」
兄が箱から丁重に取り出したのは刀だった。碧い石が嵌め込んである。元々刀に余り関心の無い俺でも、目を奪われる程美しい。
「……これは?」
「青柳家の宝の一つさ。一級品だよ」
「これを、俺に?」
「そうですよ、草人お坊ちゃま」
「兄貴は? 何故俺なんだ?」
すると兄は驚いたように目を見開いていた。一方、凩は面白そうに微笑んでいる。
「……僕には青柳の力がある。君もよく知っているだろう? だから君に譲るんだ。不満かな?」
珍しく兄の言葉が曖昧だ。いつもはより明確な答えが返って来る。何かあるのだと、思わずにはいられなかった。
「……不満はないよ。貰えるなら、貰っておく」
「そうか。この刀には不思議な力があってね、まぁそれは使う内に分かるだろう」
兄はそう言うと、俺に刀を渡し、下がっていいと命令した。俺が部屋を出ようとした時、再び名を呼ばれた。
「その刀の名は、焼尽と言う」
縁起でもないな。俺に何を焼き尽くさせようというのか。