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その1

 終礼時間を告げるチャイムが鳴った。珍しくチャイムが鳴る時間と同時にクラスの終礼も終わり、嬉々として部活動へ赴く活気づいた友人たちを見送りながら式田(しきた)リクは帰宅の準備を続けた。自宅で必要な荷物を通学用の学生鞄に詰め込んだ後に、血気盛んな学生たちがひしめく廊下を通る。廊下から見える桜の木に花は殆ど残ってはいない。既にリクが高校二年生になり、一か月が過ぎようとしている。リクの通う新未来高校では五月末に定期テスト、六月の中盤に文化祭が行われるので、四月から五月のゴールデンウィークがちょうど過ぎたばかりのこの時期までの間に学生たちは自分の行動パターン、あるいは自分の立ち位置を確立させている。重いうえに荷物はたいして入れることのできない、学校指定の手提げ鞄に対する新入生の不満もこの頃になるとすっかり影をひそめる。先ほど廊下を急いで駆け抜けた生徒は一年生だろう。リクは既にトレーニングウェアがさまになっている一年生を横目で見つつ、靴を履き替え、帰路に着いた。

 リクは部活動や生徒会活動に所属してはいない、いわゆる帰宅部員だ。中学生の頃は陸上部で、市内の大会で決勝にまで残る程度でしかないが、入学したての頃はスカウトもされたが、リクはそれを断った。高校生にもなれば自分のことをある程度客観的に見ることができるようになってくる―――――小さな児童福祉施設に世話になっている自分。両親、後見人がいない自分。他人より秀でた能力を持たない自分。待っているのは平平凡凡の未来――――他の生徒は呑気なものだ。とりあえず仲間と騒いでさえいればそれでよいと思っているのだろうか。そうやって一生を適当に送るつもりか、自分はやればできると勘違いしているのか。それとも考えてすらいないのか。

 おれは将来、金を稼がないといけない。『母さん』や『家』のみんなに楽をさせてやりたい。学生の今は勉強に没頭していよう。そうすれば必ず未来はより良いものになるのだから……おれは、勝ち組になる。馬鹿どもとは違う――――

 学校帰り、いつもの理屈を頭の中で展開させる。そんな帰り道、アスファルトの車道上を横切る一匹の白猫を見て、轢かれてしまえとさえ考えてしまったしまったリクは、自分の醜い心にも嫌気がさした。溜息ひとつでは自分の黒い部分を吐き出せず、足もとの小石を蹴飛ばした。

 小規模児童福祉施設、『たいようの家』は、新興住宅地と呼ばれなくなって久しい住宅地区にある古家をそのまま児童福祉施設として利用している。そのため、ここが児童福祉施設と知らない近隣の人間も少なくない。この家の外壁の汚れが多少目立つが、二階建てというのもあって、広さは一家族が住むのには十分な広さではある。そんな『家』でリクは生活している。

 「ただいま」

 学校から徒歩四十分、リクは帰宅。玄関の靴を見る限り、ほかの子供たちはみんな外出中のようだ。リクは玄関からすぐ近くにある急な階段を上って、二階の自室で適当な服を選んで着替えた。一度制服を脱ぐと、先程までの将来や勉強に対する熱意も同時に抜けてしまったのか、一日の疲労の主張のほうが激しくなってきた。しだいに体の中に眠っていた眠気までも目覚め始めたので、リクは夕飯までは寝ておくことにした。





 部屋の床で横たわって寝ていたリクは、無防備な腹に加えられた衝撃によって目を覚ました。

 叩き起こされた直後で、まだ視界ははっきりとしなかったが自分の身に何が起こったのか理解することはできた。同じ『家』で暮らす、今年中学生になった上野裕子が仰向けに寝ていたリクの腹の上に座っているのだ。

 「おはよ」裕子がリクの腹部に馬乗りのまま言う。リクの目覚めたばかりの頭が十分活動せず、返事をせねばと思いついた頃には、裕子が顔を近づけてきて―――――リクはキスをされていた。

 数回リクに口づけをして、満足したのだろう。裕子がようやく顔を離した。リクは何度されても慣れないキスによって、心臓が高鳴り、全身が温まってくるのをなんとか抑えて、「満足した?」と皮肉るように、冷静を気取って言う。「全然」と言ってその先のことをも始めようとした裕子に「まだ夕飯前だぜ」と釘を刺すと、裕子は案外簡単に引き下がってくれた。

 「まったく、リクちゃんったら」そう言って裕子が立ち上がり、先ほどまで触れ合っていた体温が離れたのをリクは少しだけ名残惜しく感じた。「もうすぐご飯だよ」と言って裕子が立ち去った後、リクは自分が二時間も寝ていたことを知った。


 リクが一階のリビングに降りると、リクを除いた『家』の子供5人全員がテーブルについていて、食事前の団欒といった様子だった。ただ一人、裕子は二階での彼女とは打って変わって、寡黙な少女といった様相を成しているのだが。そんな裕子を気にも留めず、まだ小学生の子供たち4人は今日の出来事を互いに話し合っている途中だ。家の中で最も幼い、小学三年生の隼人が興奮に任せて矢継ぎ早に発する文章の体裁を辛うじて保っている言葉を、高学年としての自負があるのか、小学五年生の美咲が熱心に聞いてあげている。小学四年生の二人、光輝と、あかりの四年生コンビは聞いてはいるものの、自分の話をしたくてたまらないのだろう。あかりにいたっては喋るタイミングを見つけきれず、口をぱくぱくさせているのが可笑しかった。

 リクが席について「俺も混ぜてくれよ」と気さくなフリを精一杯にして言った台詞は、「ご飯できましたよー」という台所からの呼びかけにかき消され、小学生の子供たちはみな自分の夕飯を取りに台所へ掛けていったってしまった。取り残されてしまったリクは、裕子が自分に向けたじっとりとした視線と微笑には気づかないふりをしていようと思った。

 台所から各々料理をとってきた子供たちに列の最後尾に施設のたった一人の住み込み従業員、藤山もいた。藤山は、この施設の管理人であり、従業員でもあるので、実質的には養育費は国から支給される六人の子供がいるシングルマザーのようなものだ。若いころからこの仕事をしていて、もう四十をとっくに越えてしまっている今では、家事のスペシャリストというのも過言ではないと思われる。この施設で育ち、社会に出ていった者たちは年に二回ほどここを訪れるのだが、全員が「ただいま」といい、のことを『母』と呼ぶ。その光景を見るたびにリクは、ここは『家』なのだと感じるし、彼女は自分にとって『母』なのだろうと感じるのだった。

 

 今日の夕食のおかずは肉じゃがだった。よく煮汁を吸い込んでいる肉がご飯のいいお供となっている。自分入り込むことができない小学生たちの会話を流し聞きしながら、バラエティ番組を見つつ、ご飯を食べる。藤山のしつけは基本的には厳しいのだが、食事中にテレビを見るのは構わないそうだ。裕子はテレビのほうを向きはするものの、楽しんでいるのかは定かではない。

 そんな食事中、テレビがCMに入ったからか、「リク、今日はどうだった?」と藤山がリクに尋ねた。

 「どうかって言われても…普段通りだよ」とリクは返した。その直後に今日の一日の出来事をパッと思い出してみた――――学校に行って、授業を受けて、友人と話して…―――「代わり映えしない一日だったよ。早く働いてみたい気分」と付け加えた。

 「部活するとか、友達と遊ぶとかすればいいのに。高校生なんだし、青春って感じで」と藤山が言う。

 「そんなことする余裕はないよ」とリクが応じると、「そんなことないよ」と藤山が言い返す。

 違う、と思ったリクは顔をしかめることで返事をした。遊びに行く時間なら何とかなるが、問題は金。理由は様々だが、入居者は両親からの援助を受けることのない孤児ばかりで、唯一のスポンサーである政府も大した当てにはならないというのが『たいようの家』の実情であることは、高校生のリクには察しがついている。そして、自分たちを苦労させないように、国からの援助に加えて、藤山自身の給料の一部を『たいようの家』全体のため、子供たちのために使っているらしい。

 また、藤山は数年前から簡単なアルバイトもしている。本人の言うところでは、主に子供が学校へ行った後の空いた時間に少しだけパートをさせてもらっているとか。どうしてそこまでして血の繋がっていない子供の面倒を見きれるのかと思うけれど、言葉にすることはできなかった。

だから、リクが高校生になった時、アルバイトを始めようとした。藤山は反対したが、リクの熱意に押し負けてくれて、週末のみのアルバイトを認めてくれた。学校ではアルバイトは禁止されているが、リクの事情を了解している学校サイドが特別にアルバイトを認めてくれたことには今でも感謝している。

 そんなリクだから、自分の楽しみのために金を使うのは嫌だった。自分のために使うのなら母さんに美味しいものでも食べに行ってもらいたい…と思うのである。

 考えを読んだのか、「リクちゃんはお母さんと一緒にいたいんだよ」と突然今まで無言だった裕子が口を挟む。

 「そんなんじゃねーよ」

 裕子のじっとりとした含みのある笑みが返事だった。

 テレビのCMが終わって、番組が再開した。人気のアイドルグループが出たらしく、小学生組もテレビに釘付けになってしまった。小学生組がなけなしの小遣いを出し合ったがこのアイドルグループのCDを買えず、自分のバイト代を購入資金として徴収されたのをリクは思い出した。まだ聞かせてもらってないし、いつか借りようと思う。


 リクは食事を終えて、二階の自室へと向かった。リクが中学三年生のときから勉強するために与えられた部屋だ。二階にはリクの部屋と裕子の部屋があり、残りのもう一つの部屋は物置と化している。そこには十数年の歴史ある『たいようの家』で育ち、社会に出ていった人の置き土産が置いてあったりする。

 リクは自室に着くと、自分には少し小さくなってきている古びた学習机に座り、重い鞄から勉強道具を引っ張り出してリクは課題に手を付ける。

 黙々と課題に取り掛かるも、課題の問題で迷うことがあるたびに自分自身の能力の無さにうんざりする。答えを少し見れば簡単に理解できるものがわからない。記憶の引き出しがすんなり開いてくれないのが腹立たしく、溜息をつくと余計に気分が暗くなった。他のクラスメイトはどうなのだろうか―――学校内にも自分より優れている人はいるし、そのうちの大半は自分と違って、いつも遊んだり、行事に自分の時間を費やしたりしているらしい。そして自分の高校も地元では優秀とは言われるけれど、いわゆる地方の新学校であることには変わらず、今の自分は井の中の蛙であることも十分理解しているし、その認識がより心を痛めさせる。結局は才能?それでも…「それでも俺は…負けられないんだ」リクは目に掛かりかけている前髪をかきあげ、問題に没頭しようと思った。


 


 気が付くと時計の短針は十一時の地点を通り過ぎていた。風呂へ入ろうかと思い、一階へ降りるとリビングの明かりはついているものの、藤山の姿が見当たらない。いつも小学生四人が寝る部屋を覗くと、部屋の真ん中に布団を敷いて子供たち四人が寝ていて、その隣に並んで藤山も寝ていた。いつも働いている藤山が、過労によっていつか体を壊すのではないかと不安に感じているリクは、藤山が寝ていることが嬉しかった。二階に部屋のある裕子は、見てはいないがもう寝てるだろうか。

 


 当初の目的通り、リクは風呂に入った。少なくとも小学生四人が入った後の湯船には髪の毛がいくらか浮いていたが、気にするほどのものではなかった。

 ぬるいお湯に浸かって、明日は何があるのか考える。化学の小テストの対策は済ませた。それ以外は特筆することはなかったっけ…

 ふうっと大きく息を吐く。明日も頑張るか!と意気込んだ勢いで顔を湯船のお湯でバシャバシャと洗い、気合を入れたその直後、風呂場の戸が開いた。


 「奇遇だね。リクちゃん」

 開いた戸のところに立っていたのは、やはり、裕子であった。裕子は全裸だったけれど、風呂だから当然、といった様子だ。裕子の真っ白な肌と長い黒髪は少しの儚さを感じさせる。

 夕方のキス目覚ましやら、今現在の風呂突入やらの裕子の異様な行動はおよそ一年前から始まったことだ。初めは部屋に入り込む程度だったが、手をつなぐ、抱き着く、キスをする…そうして段階を踏むうちに、風呂にまで入ってくるようになってしまった。ある程度は興奮を抑えることができるようになっているリクであるが、裕子の胸が次第に大きくなっていることにも気づいたけれど、それを口に出すほどではなかった。

 「また来たのか」となるべく落ち着いて話すリク。

 「うん」そう言って湯船に入ってくる裕子をリクはなるべく見ないようにした。

 裕子が入ったぶん、お湯がザバッと溢れ出る。裕子はリクの方へ体を押し付けるようにしてきた。

 リクは、裕子が単に性欲が高じてこのような行為に及んでいるのではないのだろうと思う。彼女は寂しいだけなのだろう。小学校三年の時に本当の両親に捨てられた裕子。物心つく前から『たいようの家』にいたリクとはわけが違う。捨てられたという実感、信頼していた者の裏切り――――――幼い少女が、心を開かなくなるのには十分過ぎた。

 『たいようの家』に裕子が来て数年、裕子が信頼してくれる唯一の存在である自分にできることは裕子と一緒にいてあげることだとリクは思う。そして、心が荒んでいるのは自分も同じ…

 「夕方は起こしに来てくれてありがと」リクはそう言って裕子の頭をそっと撫でた。

 「じゃあもう一回キスする」と裕子。

 リクは少し躊躇したが、裕子に体を委ねることにした。

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