第54話 鼻水を啜る音
【元亀四年 穴山彦六郎信君】
我ら一問衆をはじめ、譜代衆、そして外様衆が、評定の間に集められた。
いよいよ、上洛が行われるのだ。
わしは、御屋形様の妹を妻としてる、一問衆筆頭の立場。上洛が成れば、畿内の要職に置かれるに違いない。
いや、織田徳川などの義昭方など
すぐに蹴散らせる。我らは武田なのだ。
「気は熟した」
動かざること山の如し―まさに風林火山の一角を体現したような御屋形様の姿を前にする。
「我ら、敵を打ち破り上洛せん」
一気に皆が平伏する。わしは御屋形様に最も近い、筆頭家老の席。
「副将は、諏訪四郎勝頼」
バカな……なんだって?
一門衆の末席で、諏訪の人質として育てられた
四郎が、御屋形様のお慈悲で特別に一門衆に加えられている四郎が、一門衆筆頭たるわしや、譜代衆の筆頭の修理を差し置き、副将だと?
鎌倉より4百年の長きに渡り繁栄した武田に成り上がりものなどいらぬわ。
「はっ……謹んでお受け致します」
なに?受けたのか。そこは分不相応であるからと言って辞退するのが筋であろう。それをあろうことか、この者は上洛軍の副将となることを
受けよった……
それは、四郎が、一門衆筆頭となったことと同義である。
思い上がりよって……諏訪の人質風情が。
わしは遥か後ろにいる四郎を睨み付けたが、
諏訪四郎勝頼は気づいていないようだった。
ここで、手柄を立て、わしが一門衆筆頭であることを世に示してやるわ。
【元亀四年
織田上総介信長】
「報告致します!武田、今川両軍三万!出陣いたしました!」
来たか。信玄入道。だが、われの腹は既に決まっておる。
「三州の援軍は勘九郎信忠。これに濃尾の全兵、3万を付けよ。副将は佐久間」
信玄に野戦では勝てぬ。それは分かっている。
それこそ、桶狭間を再現せねばなるまい。
つまり、奇妙は、佐久間は死ぬ。
「奇妙を呼べ」
子も、なにものも絢爛豪華なる世のためだ。
爺を殺したその日より、すべてを失う覚悟は出来ておる。
「お呼びですか」
「勘九郎信忠、主を援軍とす」
「はっ」
「待てい」
奇妙は、背を向けて立ち止まった。
「父に言いいたいことはあるか」
「いえ……」
親子最後の言葉がこれも、ひとつの形であろう。
「義昭公に手紙を出せ。至急、槇島に移るように。われも槇島に移る。伊勢、若狭、丹後、近江、大和、和泉、河内の者共に槇島に集うよう
触れをだせ」
義弟には本願寺の抑えと槇島への兵糧運搬を
任せる。
美濃を捨て、京で防戦を致す。
ふっ。われこそが天下人よ。
【元亀四年 随風】
「槇島に参るつもりか」
「ああ」
「何故?」
どう考えても、ここで裏切れば武田と組んで
信長の首も夢じゃないのにな。この弾正は何を考えているのか。
「ここでわしが裏切っても主役は武田だ」
当たり前のことだ。
「信長を殺す舞台の主役はわしじゃなきゃいけねえ」
……お前みたいな狂人、嫌いじゃないぜ。
【元亀四年
山田大隅守信勝】
義昭公が、槇島に移り、信長も移り、諸国の軍が次々と槇島に移っている。
「なぜ、美濃を捨てる?」
「京を守った勝った戦はない。それを逆手にとったんだと思う」
「それ、逆に弱点だわ」
「だよな」
祐光がボーッとしている。京は8つの口があり、
これらに軍を配し、一斉攻撃を行えば、あとは下知しなくても勝てる。
唯一、京を守って勝った戦は、幕末の鳥羽伏見の戦いだが、この勝因は幕府軍が、この必勝方法をしなかったためだ。
「おれは義昭公が無事ならいい」
「だな」
おれたちは幕臣だ。義昭公の身柄を守ることが一番の責務だ。
だが、その義昭公は信長と心中するつもりだ。
槇島が落ちれば、おれが武田と当たらなくてはならねえのか。
本願寺と武田に挟まれるのか。
生きた心地がしねえ。
おれは、祐光の頭を叩いた。祐光はそれに反応し、おれに飛び膝蹴りをかましてきやがった。
【元亀四年
馬場美濃守信春】
……御屋形様の容態が急変遊ばされたと。
「勝頼」
「諸将へ告げたのは真実でござる」
副将の勝頼の知らせで回りが集まっている。
「勝頼!貴様!嘘をついているのではあるまいな」
穴山殿が、ズイと勝頼を威圧する。
「御屋形様を、父のことについて嘘を申し上げることはあり得ませぬ」
「ふん!父と!」
穴山殿が鼻で笑った。確かに、諏訪の人質でる勝頼が御屋形様を父と言うのは違和感がある。
ただ、今それを言うか。
「とにかく陣へお集まりを」
勝頼の先導で本陣に入る。
御屋形様は、武田家に代々伝わる盾為を着けて座っていた。
「四郎!嘘ではないか!」
穴山殿が、勝頼の胸ぐらを掴む。が、勝頼はそれを力無く振りほどく。
「耳を澄ませられよ」
言われた通りにする。すると御屋形様の苦しそうな息が聞こえる。
音が止まったようだった。
【元亀四年
武田徳栄軒信玄】
まだ……死ねぬ。死ねぬわ。死ねぬ。
我が父は、甲斐の独裁君主になろうとして
家臣に追放され、その後、わしが担ぎ出された。
わしは、間者をばらまき、家臣、土豪の情報を集め、懐柔し、やっと当主らしき権限を得た。
それからのことは昨日のように思い出せる。
信濃を攻めとったこと。今川治部、北条左京大夫と腹の探りあいをしたこと。不識庵謙信と争い続けたこと。織田上総介信長なる若者に先を越されたこと。駿河を攻めとり、その海と甲斐の山々を比べたこと。
ずっと、この山の果てには何かあると思っていた。だから、戦い続けた。都には何かあると思っていた。
それを見たい。
だが、それも叶わぬのか。戦国最強などと言われたが結局、唯一の望みすら叶わない。
「次の武田当主は、虎王丸。陣代(後見人)は勝頼」
四郎は、諏訪四郎勝頼は大器である。この貧しき国にありながら銭を理解しておる。
既に諏訪家を継いでるゆえ、武田当主は無理だが、勝頼の元では、その何かを見れる気がする。
「不本意の連続であったが、それが我が生涯だったのかも知れぬのう……」
目を閉じると、武田軍が京の都に上洛していた。
皆の鼻水を啜る音が聞こえる。
全く、それがわしの武田の侍の面か……
最後まで、不本意な連中であるな。ああ。




